定岡三兄弟の長男・智秋の今。「ノムラの教え」を胸に高知に復帰

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2020年07月29日 11:51  webスポルティーバ

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 今年3月下旬、定岡智秋は高知県越知町にある四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスの練習場でグラウンドをならしていた。三々五々、練習を終えてベンチへと戻っていく選手に声をかけながら、黙々とトンボを動かしていた。今春から7年ぶりに高知ファイティングドッグスに復帰し、ヘッドコーチに就任した。

 定岡は1953年、鹿児島に生まれた。鹿児島実業を卒業して南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)に入団し、遊撃手として活躍した。3歳下に巨人の投手として活躍した定岡正二、7歳下に広島、日本ハムで外野手としてプレーした定岡徹久がいる。また、次男はソフトバンク、ロッテ、楽天でプレーした定岡卓摩だ。

「親父が会社から帰ってくると、僕とキャッチボールをするようになって、それを正二、徹久も見ていて、できる年齢になればみんな野球をやり始めたんです。その頃の遊びといえば、野球しかなかったですから。小学校に野球チームはなかったので、ソフトボールをしていました。

 中学で軟式野球部に入り、2年までは鹿児島市内の吉野中学に通っていましたが、親父が転勤になって薩摩半島の南にある河辺郡大浦町(現・南さつま市)に引っ越し、大浦中学というところに転校しました。ここで野球をしている時に、鹿児島実業の久保(克之)監督の目にとまったんです」

 鹿児島実業の久保監督は、35年間の監督生活で夏12回、春7回、チームを甲子園に導き、1996年春には鹿児島県勢唯一となる全国制覇を成し遂げた名将だ。

「近所にたまたま鹿児島実業に進んだ先輩がいて、正月に帰ってきた時に、僕が野球をしているのを見て、久保監督に『定岡というのがいるから、1回見てはどうですか』と言ったようなんです。それで久保監督が見に来られて、鹿児島実業に行くことになりました。中学時代は三塁と投手、それにキャッチャーもしていました。肩には自信がありました。

 大浦中学のチームメイトには永射保(元ダイエーホークスなど)がいました。『一緒に鹿児島実業に行こう』と誘ったんですが、あいつは『強いところにいっても面白くない』と言って、指宿商業に進みました。また、中学2年までいた吉野中学は、ヤクルトに行った上水流洋がエースでした。彼は鹿児島商工(現・樟南)に行きました。

 高校でも三塁と投手をやっていたのですが、肩を壊して投手は断念しました。とにかく投手は走らされるので、それが嫌というのもあって、久保監督に『サード一本でやらしてください』って頼みました(笑)」

 やがて定岡は県内屈指の好素材として注目されるようになる。3年生になった1971年の鹿児島大会は、定岡を擁する鹿児島実業が本命だった。準々決勝では永射がエースの指宿商に3−0で勝利。だが、甲子園出場は果たせなかった。

「決勝で鹿児島玉龍と対戦したのですが、1−2でサヨナラ負け。前評判は圧倒的にウチだったのですが……。決勝には僕を見るために10球団以上のスカウトが来ていたと思います。

 一番熱心だったのは中日でした。だから、選手名鑑を見て『中日のサードには大島康徳さんがいるな』とか、調べていました。でもドラフトで指名されたのは南海。びっくりしましたね」

 1971年のドラフトで南海は1位に野崎恒男(富士重工)、2位に飯山正樹(北川工業高)、3位で定岡を指名した。さらに4位は片平晋作(東京農大)、5位は鶴崎茂樹(筑紫工業高)。ちなみに、定岡と中学で一緒にプレーした永射は広島から3位で指名された。

「入団した時は三塁でした。当時の一軍は、桜井輝秀さんが二塁、富田勝さんが三塁にいましたが、ショートが決まっていなかった。藤原満さん、同期の鶴崎、柏原純一、矢部徳美などの若手内野手が一軍の座を狙っていました。

 初めて一軍に上がったのは、3年目(1974年)の9月。大阪球場で同日に一軍と二軍を行なう親子ゲームに、監督の野村克也さんが二軍の試合を見に来られて、『この試合でヒットを打ったヤツを一軍に上げよう』と。それで僕は4安打を放ち、鶴崎も3安打。それでふたりとも上がることになりました。試合が終わるとマネージャーが来て、『明日から一軍に上がるからサインを覚えておけ』と言われました」

 一軍に昇格した定岡は、以後、遊撃手、二塁手として活躍。1987年まで現役を続けた。定岡にとって財産となったのは、野村監督のもとでプレーしたことだ。

「野村監督のもとで5年間プレーしました。野村さんからよく言われたのは、『とにかく守れるようになれ』『考える野球をしなさい』ということでした。気づいたことはノートに書きとめ、何度も繰り返し見ていました。

 野村さんは『野球は確率のスポーツやから』が口癖で、初球はどんな球がくる、このカウントだったらこの球がくるといったように、当時からデータを重視されていました。狙っていた球がこなかったときは『ごめんなさい』でいいと、割り切りも教わりました。

 守備でも、相手の打球方向のデータを取って、このケースではこう守りなさい、この打者のときはここに守りなさいといったように、とくに二遊間をはじめとしたセンターラインのポジショニングには厳しかった。でも、そうした基礎をしっかり教えてもらったおかげで15年もプロでやれたのだと思いますし、指導者になってからも野村さんから教わったことがベースになっています」

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 定岡は1975年から3年連続でオールスターに出場するなど、パ・リーグを代表する選手へと成長する。しかし、1977年のオフに野村監督は南海を追われることになり、さらに江夏豊、柏原純一が「野村監督と行動をともにする」と、ホテルに籠城する騒ぎもあった。

「何も知らなかったので、いきなり新聞に出て本当に驚きました。野村さんが監督のままだったら、もう少し長くレギュラーを務められたかもしれません」

 恩師である野村監督が南海を去ってからも、定岡は遊撃手としてプレーした。1983年には全試合出場を果たすなど、チームの顔として活躍。しかし、1984年にアキレス腱断裂の大ケガを負ってしまう。

「84年は開幕から調子がよく、4月だけで7本塁打を打つなど、一時期ホームランダービーのトップに並んだのですが……5月10日の西武戦でアキレス腱をやってしまった。それで終わってしまいましたね。87年まで現役を続けましたが、レギュラーに戻ることはできなかった」

 引退の翌年(1988年)から定岡は南海の育成コーチに就任。だが、この年のオフ、南海はダイエーに身売りされることになる。

「突然の身売りだったので、びっくりでしたね。その頃、南海は弱くて……それも身売りされた原因のひとつだったと思うのですが、野村さんがいてくれたらそこまでチームは弱くなっていなかったと思いますし、身売りはなかったんだろうと思いますね。

 ダイエーになり、福岡に移転してからも3年間コーチを務めましたが、田淵幸一監督の2年目にチームが最下位になると、コーチをクビになり、スカウトになりました。一軍のコーチは全員留任したのに、二軍だけがクビになったのは釈然としませんでしたね」

 スカウトとして新たにスタートを切った定岡は、2年間、アマチュア選手を見て回った。このキャリアも定岡にとっては非常に貴重なものとなった。

「とくに担当エリアは決まっていなかったので、『この選手を見てほしい』と言われれば、どこでも行きました。浜名千広(東北福祉大→ダイエー)や田口壮(関西学院大→オリックス)を見に行ったのを覚えています。

 スカウトとして、とにかく直接見に行くのが基本です。ただ、あまりひとりの選手を見続けていると、その選手のレベルがよくわからなくなってくる。アマチュアばかり見ていると、”眼力”が落ちてくるんです。その時は二軍の球場にいって、ファームの試合を見ていましたね。アマチュア選手の評価は難しかったです」

 1992年に田淵監督が退任し、根本陸夫監督になると、定岡は再びコーチとして呼び戻される。そして、二軍コーチ、一軍コーチ、二軍監督を歴任することになる。

「一軍コーチの時期は短く、二軍での指導歴が長かった。二軍は選手を伸ばしてあげるところなので、まず『何かいいところはないか』と見つけるのが仕事でした。僕の指導者としての姿勢は”育成”で、選手の成長を見るのが楽しみでした」

 その後、2003年にフロント入りし、編成部調査部長、野球振興部次長を歴任した。

「野球振興部は、おもに九州地区を回って野球教室をするのですが、2006年に宮崎で野球教室をしている時に倒れてしまって……それで翌年退団し、リハビリに励んでいる時に四国アイランドリーグの存在を知ったんです。

 高知ファイティングドッグスは、巨人や阪急でプレーされた藤城和明さんが監督を務めていたのですが、退団することになった。その際、元広島の佐伯和司さんから話をいただいて、今年球団社長に復帰した武政(重和)さんやGMだった藤川(順一/阪神・藤川球児の兄)さんと話をして、監督をさせていただくことになりました」

 定岡は2008年から6年間、高知ファイティングドッグスの監督を務めた。2011年までは本拠地の高知市野球場にナイター設備がなく、炎天下のなかで試合をするなど、厳しい環境だった。

「初めて独立リーグを経験して、最初は『えっ?』ってなりましたね。このレベルでは厳しいだろうなと。とにかく、ここからNPBに行ける選手を育てるのが第一の目標になりました。体力も技術も足りないし、食事や生活面の問題もある。でも、体を大きくしたいけど、自腹ではできない……足りないことばかりでしたね。

 それに、僕が監督になった当初は、練習場は昼からしか使えなかった。だから、短時間で練習メニューを消化させないといけないのですが、同じことばかりやらせると飽きてしまう。やることは同じでも、言葉を変えないと『また同じこと言っている』と選手は感じてしまう。試行錯誤の連続でした」

 それでも、2009年後期シーズンは優勝を果たすなど着実に力をつけたが、2013年オフに高知ファイティングドッグスを退任。九州総合スポーツカレッジのヘッドコーチとなり、またその系列校の柳ケ浦高校の監督も経験。そして2020年、7年ぶりに高知に戻ってきた。今回は吉田豊彦監督を補佐するヘッドコーチとしての復帰である。

「7年前に比べて、ピッチャーはよくなっています。僕が監督だった頃よりもいい。でも、野手はちょっと小粒な印象です。昔は、足がめちゃくちゃ速いとか、とにかく肩が強いとか、個性的な選手が多かったですが、いまは平均化されてそこそこという印象です。

 NPBには僕が監督だった2010年に安田圭佑(外野手)、2011年には飯田一弥(捕手)がいずれもソフトバンクに育成選手として入団しましたが、それ以降は誰も行っていません。同じリーグの徳島インディゴソックスは、最近優勝することが多く、ドラフトで指名される選手も増えています。やはり、チームが強くないといい選手は来ないし、NPBに送り出すことができない。

 じつは、柳ヶ浦高校の教え子に上間永遠(うえま・とわ)という投手がいました。彼は高校卒業後、四国アイランドリーグplusに行きたいと言ってきました。本来なら高知を紹介すべきなのでしょうが、最近の高知は実績がなかったので徳島を紹介しました。そこで順調に力をつけ、昨年のドラフトで西武から7位で指名されNPB入りしました。

 やはり優勝争いするチームは選手個々の意識が高いですし、考えて野球をしています。これは昔も今も変わらない。野村さんから教えてもらったことをひとつずつ教えています。目標は、まずは優勝争いできるチームにすること。そうすればスカウトの目にとまりやすいですし、選手のモチベーションも上がりますから」

 四国アイランドリーグplusは6月20日から今シーズンのペナントレースを開始した。試合数も削減し、当面は無観客で試合を行なっている。今年67歳になった定岡は、四国の地から若い選手たちの未来を見つめている。

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