近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。
『フェイク〜我は神なり』
依然として世界で猛威を振るっている、新型コロナウイルス。韓国も例外ではないが、一時は抑え込んだと思われた感染拡大を一気に爆発させ、国民の非難の的になった集団がある。「신천지(新天地)」という新興宗教集団だ。彼らは、“3密”どころか、感染予防を完全に無視した大規模な集会を開き、集会に参加したことを隠して全国に感染を広めたとして、文字通り袋叩きにされたのだ。
最初は行方をくらましていた教祖イ・マンヒも事態を重く見て、記者会見で国民に謝罪し、当局の検査に積極的に協力すると約束したのだが、国民や政府の憤りは収まらず。ついにはソウル市から宗教集団としての法人資格の取り消し処分を受けた。
新興宗教団体によるコロナ感染拡大のニュースは日本でも報道されたが、その後、韓国では「新天地」をめぐって別の問題が浮上した。信者たちの財産の詐取や監禁といった、以前から疑われていた違法行為が再び指摘されたのだ。実際、「新天地」の集会に出たきり行方不明になった人が大勢いるといわれており、中には家族に黙って全財産を「寄付」した人もいるという。信者の家族や元信者たちは詐欺の被害を裁判で訴えているのだが、宗教という非常に個人的な領域の問題であるだけに、「自分の意思」なのか「新天地の強制」なのかの明確化が論点になっている。
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かねてから韓国では新興宗教だけでなく、宗教を利用した事件や犯罪が度々社会を震撼させてきた。教祖を含む32人が集団自殺をした1987年の「五大洋事件」、もうすぐ世界の終末が来ると信者たちを騙して財産を着服した92年の「タミ宣教会“携挙”詐欺事件」、韓国の天然記念物に指定されている犬「チンドッケ」を崇拝する集団による2014年の「幼児殺害・遺体遺棄」などがその代表的なものである。こうした韓国の新興宗教にはキリスト教のプロテスタントから派生した教団が圧倒的に多く、また団体の中で犯罪を犯すケースも少なくない。
プロテスタントの牧師やプロテスタント系新興宗教の教祖による犯罪は、検察の統計によれば年々増えており、なかでも男性牧師/教祖による女性信者へのセクハラ事件が最も多い。「神の使者」に逆らうことはできないという信者の信仰心を利用した卑劣な犯罪を、牧師や教祖たちが犯しているのだ。
今回のコラムでは、まさにこのような宗教を利用した犯罪をリアルに描き、高い評価を得たアニメーション映画『フェイク〜我は神なり』(ヨン・サンホ監督、2013)を取り上げ、韓国における宗教や信仰について触れてみたい。監督のヨン・サンホは、近年日本でも大ヒットしたゾンビ映画『新感染 ファイナル・エクスプレス』(16)を手掛けているが、デビュー作はアニメーション映画で、韓国では珍しいアニメと実写の“二刀流”監督として知られている。
本作は、国内で最も優れたインディーズ映画に与えられる「第16回今年の独立映画賞」や、「第46回シッチェス国際映画祭」で最優秀アニメーション賞を受賞するなど、国内外で大きく注目された。興行面でも、スクリーン確保や配給が厳しいために観客動員1万人以上なら大成功といわれる韓国インディーズ映画界において、2万2,000人以上を記録するヒットとなった。ヨン監督は現在、『新感染』の4年後の世界を描いた、新作実写映画『半島』が韓国で大ヒット中、今後がますます楽しみな映画作家である。
<物語>
ダムの建設予定地で、水没の危機にある田舎の村に、プレハブの教会が建てられる。この教会の長老であるチェ・ギョンソク(声:クォン・ヘヒョ)は、牧師のソン・チョル(オ・ジョンセ)と共に病人を治癒するなどの詐欺を働いて村人を信じ込ませ、水没の補償金を騙し取ろうする。一方、外地から村に帰ってきたキム・ミンチョル(ヤン・イクチュン)は、娘のヨンソン(パク・ヒボン)の貯金を奪い、賭博に費やしてしまう。
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ひょんなことから、チェ長老が実は指名手配中の詐欺師だと知ったミンチョルは、この事実を警察や村人に知らせようとするが、乱暴者のミンチョルを信じる者は誰もおらず、むしろミンチョルは悪魔呼ばわりされる。妻や娘にすら信じてもらえず暴力を加速させるミンチョルは、自分の正しさを証明しようとするが、チェ長老の口車に乗せられたヨンソンが行方不明になると、事態はますます破局へと向かっていく。
本作の原題は『사이비(似而非)』という。似而非(エセ)とは「同じように見えて実はまったく違う偽者」という意味。韓国では「似而非宗教」や「似而非教祖」、「似而非メディア」といった具合に偽者(物)を批判するときによく使われるため、この言葉にはすでに犯罪の意味が込められており、本作同様、宗教との関連で語られる場合が多い。
先述したように、ほとんどがプロテスタント系教団である「似而非宗教」を端的に物語る概念が、「再臨イエス」である。イエスが再び現世に降りてきて非信者たちを地獄に陥れるという、キリスト教の信仰のひとつだ。ところが、そんな「再臨イエス」を名乗る者が「新天地」のイ・マンヒも含めて韓国には50人近くもいるといわれる。それぞれ都合よく聖書を解釈し、自らをイエスに仕立て上げているのだ。当然、彼らは正統派プロテスタントから「似而非」に指定され、排除されているわけだが、だとすれば、韓国にはなぜこんなにも自称イエスが多いのだろうか? そして、どうしてそんなバカげた話に大の大人たちがまんまと騙され、彼らに従って貢いでいるのだろうか?
人間の宗教的心理を探るのは容易ではないが、長い歴史を通して積み上げられてきた韓国での宗教の変容や様相を通して、集団としての韓国人の宗教心理を考えてみると、漢陽(ハニャン)大学教授の民俗学者キム・ヨンドク氏が著書『韓国の風俗史』(1994)の中で述べている「祈福信仰」という概念が、ひとつのキーワードとなりそうだ。
キム教授によれば、朝鮮半島では古代から「天」を崇拝する土着信仰があり、その儀式は「天にあらゆる福を求める」ものが中心だった。それが「祈福信仰」として民間に根を下ろしたのだという。その後、外来宗教の仏教や儒教が支配層に受け入れられ、民間信仰は弾圧されたりもしたが、消えることなく、むしろ外来宗教と結合して祈福信仰を浸透させてきた。これは近世になって流入したキリスト教との関係においても同じで、とりわけ「信じれば奇跡が起こる」と、イエスが起こす数々の奇跡と共に直接話法で説教するキリスト教の教理と、祈福信仰の伝統が類似していることから、抵抗なく受け入れられ、韓国で拡大し、今に至っているのだ。キム教授は、聖書の「神」を、韓国では「天」を意味する「하늘(ハヌル)」にちなんで「하느님(ハヌニム)」や「 하나님(ハナニム)」と呼んでいるのは、天に祈福してきた土着信仰の影響であると主張する。
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本作にも表れているが、韓国の牧師や信者たちのお祈りは、その語尾が「〜해 주십시오(〜してください)」という“求める形”に、ほぼ定型化していることがわかる。「病気を治してください」「合格させてください」「長生きさせてください」というように。これこそが「祈福信仰」にほかならない。実際にかなうかどうかは別として、切実に求める心に、少なくとも希望という安らぎを与えることは間違いないだろう。
半面、本作でのチェ長老やソン牧師のように、こうした人間の弱みにうまくつけ込んで、宗教の名の下に騙し、危害を加える「再臨イエス=似而非」が生まれやすいのも事実だし、現に社会に弊害を及ぼしてもいる。ちなみに、本作でチェ長老の言う、神によって天国に呼ばれるという「14万4,000人」は、聖書で実際に言及されている数字であり、再臨イエスたちは主にこれを利用して金などを騙し取っているといわれる。その限定枠の中に入るためには金が必要だというわけだ。
人はなぜ宗教を必要とするのか? 本作に登場する村人たちは、心のどこかに罪悪感を抱いていたり、病魔に襲われたり、不幸な家族関係によって人生を狂わせたりしている。そんな村人たちに「心のよりどころ」があるというのは、どれほど幸せなことだろうか。それを求める切実さを利用して欲望を満たそうとするチェ長老らは言うまでもなく許せない悪だが、彼らがインチキだと暴くことも、村人たちにとっては、ある意味では暴力といえるのではないだろうか。「“ウソ”をつく善(と見られるもの)」と、「“真実”を暴く悪(にされるもの)」。村人が前者を選択したのは、暴くことの暴力性を示す隠喩なのかもしれない。
崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。