引退までの苦闘と輝き。ホルヘ・ロレンソは清々しい表情で去った

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2020年08月06日 17:52  webスポルティーバ

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MotoGP最速ライダーの軌跡(4)
ホルヘ・ロレンソ 下

世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り返っていく。 4人目は、ホルヘ・ロレンソ。向こう気と愛嬌をもち、人間味あふれる王者の歩みをたどっていく。




 ヤマハのオートバイは昔から、「コーナリングマシン」、「ハンドリングに優れたバイク」と表現されることが多い。

 この言葉が端的に表しているのは、MotoGPマシンYZR-M1の性能を最大限に発揮するためには、高い旋回性や機敏な切り返し(アジリティ)を生かす走らせ方、つまりレールの上をきれいにトレースしていくような滑らかなライン取りが、最も効率的にタイムを出す方法であるということだ。そして、ホルヘ・ロレンソのライディングスタイルはまさにそれを、見事なくらいに体現していた。

 長い直線の終端からスムーズに減速してコーナーへ進入し、高い旋回速度を維持しながら加速につなげて立ち上がってゆく。流れるようなフォームとムダのない走行ラインで、高いアベレージタイムを淡々と刻んで後続選手たちを引き離していく。それがロレンソの勝負スタイルであり、勝ちパターンだった。

 そうやって、ロレンソはヤマハのマシン特性を最大限に活かすことで2010年、12年、15年の3回、世界チャンピオンの座に就いた。ヤマハの特性とロレンソの乗り方は完璧にマッチし、チームや企業側とライダーの関係も良好だった。おそらくこのまま、彼はヤマハのライダーとして選手生活を最後まで全うするのだろう、だれもがそう思っていた。しかし、16年にロレンソはある大きな決断をする。

 ヤマハを離れ、翌17年にドゥカティへ移籍すると発表したのだ。

 ドゥカティとヤマハは、イタリアと日本という企業風土も異なれば、両社が製造するMotoGPバイクの車両特性にも大きな差がある。旋回性を生かすヤマハに対して、ドゥカティはエンジンの動力性能を武器にしている。強烈なブレーキングでコーナー奥深くまで突っ込んで小さく曲がり、コーナー出口から猛烈に加速して直線の高いトップスピードへつなげていくスタイルだ。

 それは、ロレンソがヤマハで培ってきたライディングスタイルとは、180度対極にあるマシン特性といっていい。

 だが、ロレンソがこのマシンを手なずけてドゥカティでも勝てれば、どのような特徴のオートバイでも自在に操ることができるライダーの技量と実力を満天下に示せるのだ。それが、彼が移籍を決意した大きなモチベーションのひとつだった。

 しかし、たとえ3回も世界タイトルを獲得した選手といえども、まったくキャラクターの異なるマシンに一朝一夕で順応するというわけにはいかない。

 移籍初戦の17年カタールGPは11位。第2戦アルゼンチンGPは週末を通して低位に沈み、日曜の決勝はオープニングラップで転倒。1周もしないままレースを終えた。

 第4戦のスペインGP・ヘレスサーキットでは、「ヤマハ時代にはほとんど使わなかったリアブレーキを積極的に使うようになった」と明かした。そのライディング変更なども功を奏して、レースでは移籍後初表彰台となる3位に入った。

 その後、第14戦アラゴンGPで3位、第17戦マレーシアGPで2位を獲得するが、総じて苦戦傾向の一年という感は否みがたく、年間ランキングは7位でドゥカティ初年度を終えた。




 このシーズンは、思いどおりのリザルトを残せていないことについて、何度か立ち入った質問をしたことがあった。問いかけのいくつかに、やや不愉快な思いをしたのであろうことは、彼を長年取材していると微妙な表情の変化から察しがつく。そのような質問をして申し訳ないとも思うし、向こうにしても「うっとうしい質問をしやがるな」とも感じたことだろう。だが、彼はどんな質問にもいつも率直に、その時の自分の心境や状態を包み隠さず回答をした。

 この17年シーズンの最終戦でのことだ。決勝レース後の囲み取材を終えて、「今年も一年間、ありがとう」とロレンソに挨拶をした。

 ロレンソは「こちらこそ、ありがとう」と返答し、重ねて「この冬は、何をして過ごす予定なんだい」と向こうから尋ねてきた。

 MotoGPのトップライダーが同国人でもないジャーナリストに対し、そんな気さくな態度で雑談を投げかけることはまずありえない。ロレンソは、小中排気量時代の不遜(ふそん)な様子や一時期のロッシとの熾烈(しれつ)な確執などの印象があって、高慢なライダーという印象をいまだに一部で持たれている。しかし、彼の実像には、このように飾らない気さくな一面があるのも事実だ。

 ドゥカティ2年目の18年は、ロレンソにとって正念場のシーズンだった。だが、シーズン序盤は前年同様に苦しいレースが続いた。開幕戦から第4戦までの成績は、転倒、15位、11位、転倒。第5戦のフランスGPは6位で終えたが、ドゥカティCEO(最高経営責任者)は「ホルヘは偉大なライダーだが、我々のマシンを存分に速く走らせてはいないようだ」と辛辣なコメントを発した。

 この言葉にロレンソは反発し、次のイタリアGPで「僕は別に偉大なライダーじゃない。チャンピオンなんだ」とやり返した。開催地のムジェロサーキットはドゥカティのテストコースでもあり、本社からは車で1時間の至近距離にある。つまり、ドゥカティにとってまさに庭のような場所だ。その会場で、ロレンソはついに優勝を達成した。CEOの嫌味に対して、ライダーの立場から最高の形で意趣(いしゅ)返しをしてみせた格好だ。

 そして、このレースが終わった2日後には、翌19年のレプソル・ホンダ・チームへの移籍を電撃発表して、世界中の度肝を抜いた。話は続く。イタリアGP翌戦のカタルーニャGPでは、ドゥカティ移籍後初のポールポジションを獲得。その勢いのまま、レースでも優勝して2連勝を飾った。シーズン終盤にはケガをして、数戦で欠場したために年間ランキングは9位で終えたが、この18年はライダーの高い能力を存分に見せつけた一年だったと言っていいだろう。

 レプソル・ホンダ・チームに移籍した19年、1987年生まれのロレンソは18年目のグランプリシーズンを迎えた。年齢は、すでに30歳を過ぎている。プレシーズンのトレーニングで左手を負傷し、万全の体調ではない状態で開幕を迎えたため、ホンダのマシン特性への順応には時間を要した。

 10位以下のリザルトが続く中、6月末の第8戦オランダGPの際に、初日の走行で転倒。これが原因で背中を痛めた。「こんなに辛く、苦しく、痛い思いをし、リスクをかけてまで走り続ける必要があるのか......」。大きくもんどり打ってコースサイドを転がるロレンソの頭の隅で、そんな思いがよぎった。その後約2カ月後の8月、イギリスGPで復帰したものの、万全ではない体調のために厳しいレースが続き、成績は向上しなかった。そして、最終戦バレンシアGPの直前に「会見を開く」という告知があった。

 この知らせで、みなが引退を察知した。

 地元スペイン、しかも故郷のマヨルカに近いバレンシアGPでの発表だった。走行が始まる前日の木曜に行なわれた会見で、自らの口から現役生活を退く決意を述べた際には、満場の関係者や記者席からしばらく拍手が鳴り止まなかった。

 現役最後のレースは、13位でチェッカーフラッグを受けた。

 最後のレースを走り終えたロレンソの囲み取材で、彼にひとつ、質問を投げかけた。

「くだらない質問に聞こえたら申し訳ないんだけど」。前置きを入れて尋ねると、「くだらない質問なら、くだらない答えしかしないもんね」。そう言ってロレンソは悪戯っぽく笑った。

「もし、今から20年前に時間を巻き戻せるとしたら、もう一度レーサーを目指そうと思いますか?」

 そう問いかけると、彼は少し考える様子を見せ、そしてゆっくりと口を開いた。 「もしも、20年前に戻ったら......。そうだな、ぼくはやはり、ホルヘ・ロレンソになることを目指すよ」

 いつものように茶目っ気のある、清々しい表情だった。

(マルク・マルケスの回へつづく)

【profile】 ホルヘ・ロレンソ Jorge Lorenzo
1987年5月4日、スペイン・マヨルカ島パルマ・デ・マヨルカ生まれ。幼少期からミニクロスのレースに参加。2002年に競技規則の出場最年少15歳の誕生日を迎えると同時に、125ccクラスに出場し、グランプリデビューを果たす。05年に250ccクラスにステップアップし、06年、07年の2年連続で年間王者に輝いた。08年、最高峰MotoGPに参戦。10年、12年、15年にタイトルを獲得した。19年に引退。

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