『日本沈没2020』は何を描いたのか? 賛否呼んだ同作の狙いを、原作との比較から考察

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2020年08月10日 08:01  リアルサウンド

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 Netflixアニメ『日本沈没2020』(湯浅政明監督)が賛否両論、というか批判が多い。


 1973年に発表されべストセラーになった小松左京『日本沈没』が原作だ。同年にはわりと小説に忠実な映画版(森谷司郎監督)もヒットした。それらではまず天才科学者が列島水没を予測し、大地震や火山噴火が頻発するなか、日本は国民の避難をどう進めるのか、首相を含め計画関係者の側から描かれた。


 一方、『日本沈没2020』は、一家族に焦点を絞る。危機から逃れようと家族が西へ移動する姿を追う一方、政府の対策はほぼわからない。後半で自衛隊が現れ、海外への避難が進められる様子が出てくるが、むしろ右往左往する庶民でしかない主人公のグループがどんな道を選ぶのか。それを主題にしている。


 『日本沈没2020』は、第1話から首を傾げる展開が相次ぐ。陸上選手で中3のヒロイン・武藤歩は、大地震による建物の破壊や多数の死傷者に動揺し、瀕死の仲間が助けを求めるにもかかわらず、逃げ出す。物語中では、実態をつかめない状況で、偶然がたびたび冗談のように人の命を奪う。シビアな環境である。未曾有の天変地異なのだから、それはいい。


 ただ、歩の母の乗る飛行機が噴火の影響で川に不時着する。その後がいけない。下流から津波が迫るのに彼女は飛びこみ、溺れた男の子を助ける。だが、津波からどう逃れたか描かれぬまま、助かっている。また、歩の父は、オリンピックおよびパラリンピック開催後の競技場で解体作業中に大揺れにあい、ワイアで1人宙吊りになる。助けは見当たらなかったし、自力で降りられると思えないが、いつの間にかバイクで走っている。


 多くの死や身体の損傷を描くシリアスな災害ものならば、いかにして生き延びるか、ディテールを表現しなければ説得力がない。しかも、この作品ではネットや人々の伝聞を信じるかフェイクと疑うか、真偽の判断がクローズアップされる。それなのに、父母は嘘くさいご都合主義で助かるのだ。物語のリアリティの水準をどう考えているのか、ちぐはぐな展開が以後も散見され、中盤からは作画も乱れる。内容が雑なのは否めない。


 原作に登場した田所博士と潜水艇操縦士の小野寺がトリッキーな形で本作にも登場するが、列島水没の設定以外に物語の共通点はあまりない。だが、個人視点で描いた『日本沈没2020』には、国家視点の原作への応答になっているところもある。小松の小説や最初の映画版に親しんだ私からすると、1973年と2020年の差を意識し、列島沈没の設定を用いて日本に原作とは違う光を当てた。そう評価したい要素も見出せる。


 『日本沈没』原作と『日本沈没2020』の違いは、国家視点と個人視点だけではない。前者は科学で異変を予測し、政治が計画する物語だったが、後者は一般市民がいきなり巻きこまれ、生き延びるための旅をする。アニメ版では田所博士の地殻変動研究は、すでにデータとしてまとめられており、旅する者たちは、それを発見することで列島の現状と今後を把握する。研究が計画を立てる出発点になる原作とは異なり、旅の後半で自分たちのおかれた状況をいわば事後的に知るツールとなる。


 その物語の組立ては、『SFドラマ 猿の軍団』に通じる。1974年に『日本沈没』がTBSで連続ドラマ化された際、直前の時間帯に放映された同番組では、猿が人を支配する未来にタイプスリップした女性と子どもたちが、仲間を得て逃避行を続けた。彼らは旅の先になぜ猿が権力を握ったのか、記録を発見して知る。ドラマの原作担当は、豊田有恒、田中光二、そして小松左京のSF作家3名だった。


 また、国のありかたを主題にした『日本沈没2020』は、SFではなくアメリカン・ニューシネマの代表作『イージー・ライダー』(1969年)も想起させる。髪を伸ばしドラッグを服用する若者2人が、バイクで旅をする。ロックなどのカウンターカルチャーが勢いを得た頃だった。2人は旅先で様々な出会いを経験するが、保守的な人々は彼らに反感を持つ。長髪の若者はゴリラのようで「黒人女とお似合だ」というセリフもあり、アメリカの保守層の差別意識をとらえていた。ところが、主人公の愛称は「キャプテン・アメリカ」で、ヘルメットやバイク、ジャンパーは星条旗のデザインなのだ。自由の国を象徴するキャラクターが、保守的な地方でむごい暴力にさらされるという、社会批判を含んだ映画だった。


 一方、『日本沈没2020』の場合、武藤家の父はフィリピン出身の女性と結婚しており、歩と弟の剛はハーフである。シナリオ担当の吉高寿男がノベライズを刊行しており、アニメの展開ほぼそのままの内容だが、人物の背景は多少肉付けされている。本によると子どもたちは、ハーフを理由にいじめられた体験があり、剛がなにかと英語を喋るのもそれが一因らしい。災厄の最中、人々は協力するが、意見の対立や抜け駆けしようとする人、商品の略奪、デマの拡散なども起きる。一家は逃避行の途中で出会った人と仲間になったり、悪意をむき出しにした相手と戦ったりする。歩たちが純粋な日本人ではないと差別されることもしばしばある。


 それゆえ、日本人を醜くとらえて反日的だとするネトウヨ的反発も多い。だが、中韓へのヘイトスピーチや外国人労働者や移民に対する不当な扱いなど、この国に問題があるのは確かだ。アニメは現状を反映している。


 また、『イージー・ライダー』には、新時代の価値観を共有する若者たちのコミューンが登場した。気ままに生活する彼らは来る人を拒まないが、数が増え過ぎてもいる。このため、主人公2人は短期間しか逗留しないが、自由な雰囲気のコミューンは、異質な他者を排除する地方と対照的な場所になっている。


 『日本沈没2020』でも旅の途中で歩たちが、シャンシティと呼ばれるカルトの大きなコミューンに滞在する。そこは、外国人や体が不自由なものも受け入れ、あらゆる人に「尊厳を与える為の理想郷」として作られている。同作でも差別的な社会と「理想郷」が対比される。栽培した大麻を楽しみ、DJのダンス・ミュージックで高揚する光景は『イージー・ライダー』時代のカルチャーを継承したものだ。だが、大地の異変はそこまで及び、金目当ての幹部もいたカルトは崩壊へむかう。


 小松左京はもともと、国土を失ったら日本人はどうなるかと発想し『日本沈没』を書いたのだった。戦争で国土が分割されたり、領土を失った民族は世界各地に存在する。14歳で母国が敗戦した小松は、そんな運命が日本に訪れたらと想像した。だから、列島水没までで第一部だったが、日本人が海外で漂流する第二部は長いこと書かれなかった。


 原作が書かれたのは、単一民族国家だという思いこみが、日本でまだ強かった時代だ。また、科学や政治のシミュレーションは緻密な反面、作中には職業を持った女性が登場せず、次の時代の希望となる赤ん坊を産む存在として女性をとらえる旧い価値観で書かれていた。このため、樋口真嗣監督による2006年の『日本沈没』再映画化では、潜水艇操縦士の恋人はハイパーレスキュー隊員、政府計画を推進するのは危機管理担当の女性担当大臣とするなど、ジェンダー観の更新を図った。


 『日本沈没2020』では、さらに価値観が更新されている。家族を牽引する母は職業を持ち、他にも重要なポジションに女性が配されている。また、小松は2006年に谷甲州と共著で『日本沈没 第二部』を発表し、列島水没後に各国へ分散した日本人が入植に成功する一方、現地で摩擦を起こしたり、難民化したことを書いた。それに対し、『日本沈没2020』は、この国が労働や観光の面で外国人に多くを頼るようになり、主人公のように家族となることも珍しくない現状を踏まえている。小松が領土消失後の海外避難先で訪れると想像した日本人の国際化は、すでに進行している。最終回でフジハタザオの花言葉「共に生きる」が紹介されるのは、多様な人々の共生を日本の未来の理想とするからでもあるだろう。


 1995年の阪神・淡路大震災後の災害の多さを視野に入れ企画された2006年版映画『日本沈没』の物語では、命がけの行為で事態好転が試みられた。現実の被災者も意識して、未来への希望が残る結末に改変したのだ。また、『日本沈没 第二部』では、列島が消失した海域にメガフロートを建造し国土を復興する構想が出てきた。『日本沈没2020』のエンディングは、それらのモチーフを含んでいる。『日本沈没2020』には原作や先行バージョンに対する応答とみなせる工夫があるのだ。


 小松原作には、沈没を予測した田所博士と避難計画の黒幕である老人が、この国の外国に対する内弁慶的な弱さを指摘するとともに日本列島に「恋をしていた」と会話する名場面があった。それに対し、『日本沈没2020』ではハーフの姉弟とグループの日本人の若者が即興ラップでこの国への思いを吐き出す「沈んで正解」「勝手に出て行け」「ここが私の大地」と一人ひとりの愛憎が露出する。


 また、原作では地殻の大変動に関して深海底を確認するため潜水艇操縦士が主人公に設定されたが、『日本沈没2020』で歩たちに合流しキーマンとなるのは、モーターとプロペラを背負い、空から舞い降りたKITE(カイト)だ。海底の重さと空の軽さの対比が、両作のテイストの違いを示している。


 原作では政府が、避難先を確保しようと外交交渉を積み重ねる。『日本沈没2020』ではYouTuberであるKITEやゲーマーの剛が、インターネットを介した海外とのやりとりで状況を知り、苦境を打開しようとする。1973年と2020年では個人レベルでの海外との距離感が大幅に変化している。


 研究結果をみることについて原作が予測であるのに対し、今回のアニメでは事後の確認だと先に指摘した。『日本沈没2020』では旅の過程で母が頻繁に写真を撮り、その習慣を歩が受け継ぐ。クラウドやSNSに保存された家族の記録を、列島水没後に剛はあらためて集める。この家族だけではない。国土を失った個々人の記録が集積され、ありし日の日本の街並みを再現した島規模の施設が作られる。


 物語本編ではほぼ話題にならなかった国家政策は最終回の列島水没後に言及され、そうした過去のアーカイブ化やオリンピック・パラリンピック出場が紹介される。崩壊した理想郷シャンシティでは、死者と話す儀式が統合のエネルギーになったが、大異変後の政府は、死者も含め過去をデジタルデータや建造物にすることを国の希望として打ち出す。eスポーツのオリンピック採用といったデジタル技術の発達が語られはする。だが、破滅的であるとはいえ先の未来をどう予測するかをテーマにした原作とは反対に、懐かしい過去をどう記憶、記録するかに重点がある未来を描いて今度の物語は閉じている。これからの成長が期待薄な現実の日本の停滞感と響きあうような後ろむきのラストではないか。


 国家がいかに計画を立てるかではなく、自己責任の判断で個々の命運が決まる本作の世界観は、コロナ禍でいっそう露呈した日本の現状と結果的にシンクロしている。歩はラストで日本生まれの父とフィリピン生まれの母の間に生まれ、多くの人と出会ってきたこれまでを回想して思う。「私が今、ここに立てているのは、そのなかにいあわせた、賢明なる人々の恩恵からなる礎があるからだ。それは家族であるし、集団、大きくいえば国家ということかもしれない」。このナレーションのいいたい意味はわかるが、違和感はぬぐえない。


 確かに家族や、旅における出会いと別れで集団が描かれたが、それらが国家とどう結びついているかは作中で語られなかったのだから。「古来、日出ずる国と呼ばれ、国旗もそれに由来する」と述べたうえで続けられるこの愛国的なナレーションは、唐突で浮ついている。このアニメを罵倒したネトウヨ的なものいいに近いとすらいえる。興味深い観点や意欲的な構想もありながら、本作が傑作になれなかった理由はそこにもある。確かに日本で育ち暮らしているが、家族や仲間などの身近な集団と国家というものがうまく結びつかない。そのようなありふれた体感を作品は乗り越えることができなかった。


 私は何年か先、コロナ禍の混乱した日本に似つかわしい混乱したアニメとして『日本沈没2020』を記憶している気がする。


■円堂都司昭
文芸・音楽評論家。著書に『ディストピア・フィクション論』(作品社)、『意味も知らずにプログレを語るなかれ』(リットーミュージック)、『戦後サブカル年代記』(青土社)など。


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  • 本日このあと13時からNHK-BSPにて実写映画1973年版(主演・藤岡弘、)の放映やるよ!見るよ!…2020年アニメ版?知らない子ですね…→
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