羽生結弦の新たな歩みは、悔しさ残るソチでの金メダルから始まった

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2020年08月10日 11:31  webスポルティーバ

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『羽生結弦は未来を創る〜絶対王者との対話』
第I部 五輪での戦い2

数々の快挙を達成し、男子フィギュア界を牽引する羽生結弦。その裏側には、常に挑戦を続ける桁外れの精神力と自らの理想を果敢に追い求める情熱がある。世界の好敵手との歴史に残る戦いやその進化の歩みを振り返り、王者が切り拓いていく未来を、長年密着取材を続けるベテランジャーナリストが探っていく。




 羽生は2014年ソチ五輪の優勝後の記者会見で、各国の報道陣から東日本大震災に関する質問を何度も受けた。彼はこう答えた。

「僕が今、震災について口を開くことは、ものすごく難しいことです。確かな事実として言えるのは、僕は震災後にスケートができなかったし、普通の生活すらもギリギリの状態で、スケートを辞めようと本当に思いました。でも、たくさんの方々に支えられてきたからこそ、今、ここに立てているのだと思います」

 羽生は当時、スケートで結果を出しても、「復興の手助けになっているわけではない」と考え、「何もできていない」との無力感を抱いた。仙台からカナダに拠点を移したことも、それが本当に正しかったのかと悩んだ時期もあったという。

「今回の五輪の結果は、カナダでの2年間の集大成かもしれないけれど、十数年を仙台で過ごしてきたからこその結果でもあります」

 そうした気持ちがあったからこそ、シーズンイン直前だった13年8月末、羽生はメディア向けの公開練習の場所に、幼い頃から通っていたアイスリンク仙台を選んだ。フリーの曲に選んだのは『ロミオとジュリエット』。東日本大震災が発生した2010−2011シーズンに使用した曲だった。

 拠点をカナダに移す時に支えてくれた家族や、故郷からいつも声援を送ってくれる祖父母の支えへの感謝もあった。

 羽生のスケート人生が始まったのは4歳の頃だった。「実は野球少年だった」と幼少期を振り返る羽生は、父親とよくキャッチボールをしたり、ノックを受けたりしていたという。それが、姉が仙台のスケート教室に参加したことをきっかけに、フィギュアスケートを始めると、結弦少年は一気にのめり込んでいった。

 それから15年。羽生は五輪王者となった。ただし、彼はその金メダルに納得しているわけではなかった。だからこそ4年後は、今回は脅かされた"五輪の魔物"を、丸飲みにする実力と強い精神力をつけて臨みたい、と強く思ったのだ。

 実際に金メダルを手にした瞬間は「うれしさが込み上げてきた」と話したが、その後は「悔しさの方が大きくなっていった」と羽生は語る。




「あのショートがあったから金メダルが獲れたのかもしれないですが、フリーは満足できるものではなかった。五輪のメダリストとして、若い選手としても、しっかり時代を作れるように頑張っていきたいと思います。強くなりたいです」

 羽生がそう振り返る戦いは、記録上では、ショートプログラム(SP)の3.93点差を、フリーでは4.47点差に広げた。だが展開を見れば、薄氷を踏むような勝利だった。

 羽生のフリーの得点が178.64点に留まり、SPとの合計280.09点となった時点で羽生は諦めかけていたようだった。実際、演技後のミックスゾーンで「優勝はもうないだろう」と口にしていた。反対に、次の演技者だったパトリック・チャンの脳裏には、「優勝」の2文字が一気に大きくなっていたはずだ。

 チャンにとって地元開催の10年のバンクーバー五輪5位からの再挑戦で、フリーの得点が182.58点以上なら金メダルを獲得できる状況だった。グランプリシリーズのエリック・ボンパール杯とグランプリファイナルのフリーで190点台を連発し、カナダ選手権でも188.30点を叩き出したチャンにすれば、十分に届く範囲だった。

 しかし、こうした状況だったからこそ、五輪の魔物が彼に襲い掛かったのだろう。もし、演技順が逆だったら、勝敗はどちらに転がり込んでいたかわからないものだった。

 この大会、日本チーム唯一の金メダルを獲得した羽生。日本選手団の団長を務めた橋本聖子氏は会見で、「羽生選手は五輪の本当の怖さを実感したと話していたし、悔しい金メダルだとも言っていた。彼の若さでそうした悔しさを感じられるのはすばらしいこと。次の五輪では、本当の意味の金メダルを獲りたいと強く思えたことは、財産だと思います」と述べた。

 羽生自身はこうも話した。

「もし(東日本大震災の)復興のために何かできるとしたら、金メダルを獲ったここからがスタートなのかもしれない」

 羽生のスケーターとして、そして19歳の青年としての旅路は、悔しさも味わったソチ五輪から新たなスタートを切った。ここから羽生の「栄光の物語」が紡がれ始めたのだ。

 羽生は、約1カ月後に開催された3度目の挑戦となる世界選手権で、2位に0.33点の僅差で初制覇を果たした。

 SPは4回転トーループの転倒で出遅れ、フリーで町田樹をわずかに逆転して優勝。「(ソチ五輪と違って)今回はショートが悪かったからこそ、フリーでは久しぶりに自分の気持ちを爆発させられました」と話した。

 この世界選手権で新たに感じたのは、五輪王者として迎えられている事実だった。 「歓声がこれまでと全然違いました。高橋大輔選手や本田武史選手という日本フィギュア男子の歴史を作ってきた選手たちに送られていた声援が、僕に送られているのは不思議な感じがしました。これから、頑張って歴史を作っていかなければいけないと思いました」

その後、羽生は、五輪王者として果さなければいけない役割について、何度も口にするようになっていった。
(つづく)
(*2014年2月発行『Sportivaソチ五輪・速報&総集編』掲載「羽生結弦 19歳の飛翔」から一部抜粋し加筆)
【Profile】 
羽生結弦 はにゅう・ゆづる 
1994年12月7日、宮城県仙台市生まれ。全日本空輸(ANA)所属。幼少期よりスケートを始める。2010年世界ジュニア選手権男子シングルで優勝。13〜16年のGPファイナルで4連覇。14年ソチ五輪、18年平昌五輪で、連続金メダル獲得の偉業を達成。2020年には四大陸選手権で優勝し、ジュニアとシニアの主要国際大会を完全制覇する「スーパースラム」を男子で初めて達成した。

折山淑美 おりやま・としみ 
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。92年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、これまでに夏季・冬季合わせて14回の大会をリポートした。フィギュアスケート取材は94年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追っている。

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