暴言吐いて殴る蹴る。伝説のトラブル王エジムンドが日本に来るまで

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2020年08月14日 11:12  webスポルティーバ

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第9回エジムンド(前編)>>後編を読む

 サッカーの世界でも、エジムンドほどぴったりのニックネームを持つ選手は少ないだろう。

「オ・アニマウ」(野獣)。

 この名をエジムンドにつけたのは、オマール・サントスというブラジルの名サッカー解説者だ。1993年の5月22日、サンパオロ州リーグのパルメイラス対フェロヴィアーリア戦を中継している時に、彼は初めてエジムンドをそう呼んだ。




 勝ったチームが決勝に進出する重要な一戦だったが、83分になっても0−0のままで、そのまま延長に入るかと思われた。しかし、ここでエジムンドが奇跡を起こす。敵陣のペナルティエリアまであと5メートルというところでボールを持つと、敵をかわして攻め上がり、突然足を止め、ボールの下方を柔らかく叩いて浮かせた。ボールは相手DF、GKの頭上を越え、ゴールが決まった。これが決勝ゴールとなり、チームは勝利。おそらく彼が生涯決めた474ゴールの中でも、最も美しいゴールのひとつだったに違いない。

 オマール・サントスはこのファインゴールにたったひと言、こう叫んだ。

「オ・アニマーウ!」

 ボールを持ったエジムンドは人間業とは思えないすばらしい動きをみせる。緩急の変化をつけながら、するりとゴールに近づく。それはまるで、本能で戦うしなやかな野生の獣のようだった。

 しかし、アニマウにはもうひとつ意味がある。エジムンドのピッチ内外での信じられないような武勇伝だ。無礼で、粗暴で、破天荒で傲慢、それに類まれなるサッカーの才能が合わさってできあがったのがエジムンドという選手なのだ。

 1992年にヴァスコ・ダ・ガマでプロデビュー。彼がサッカーを始めたのもヴァスコであり、彼のヴァスコへの愛は生涯続いた。

 だが、彼が選手として頭角を現したのはパルメイラスであった。ちょうどイタリアの大手乳飲料会社パルマラットが、ブラジルのサッカーシーンに参入しようと、パルメイラスに肩入れした時で、エジムンドは200万ドル(当時のレートで約2億5000万円)の高額な移籍金で加入した。

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 エジムンドはほどなくサポーターの心をつかみ、16年間タイトルから遠ざかっていたチームを、93年、94年と2年連続で、州リーグのみならず全国リーグで優勝に導いた。当時のチームには、エジルソン、エヴァイール、ロベルト・カルロス、サンパイオ、マジーニョ、ジーニョなど多くのスター選手がいたが、一番の原動力はエジムンドだった。

 しかし、この頃から彼の攻撃的な性格も明らかになってくる。1993年、サンパウロ州リーグの決勝でライバルのコリンチャンスと当たった時のことだ。ファーストレグではコリンチャンスが勝利し、相手チームの選手が豚の真似をして挑発してきた。

 セカンドレグでパルメイラスは復讐に燃えた。チームは4−0で勝利して優勝。エジムンドはゴールこそなかったものの4得点すべてに絡み、それだけではなく、彼らを中傷したパウロ・セルジオに一発見舞って留飲を下げた。

 また、翌年の試合でもサンパウロの選手に蹴りを入れ、もう少しで訴えられるところだった。エクアドルで行なわれたリベルタドーレス杯では、敗退後取材しようとしたカメラマンの機材に蹴りを入れ、そのままホテルの部屋に6日間留め置かれた。

「態度を改める」と約束しながらも、その後もヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ監督やチームメイトとのもめ事が多く、チームは彼との契約更新を望んだが、サポーターがそれを許さなかった。

 1995年にフラメンゴに移籍。顔見世パレードをするなど鳴り物入りで加入し、ロマーリオとコンビを組み「夢のアタックコンビ」もしくは「バッドボーイズ」とも呼ばれた。ただ、この攻撃陣はあまり機能しなかった。

 一度などは相手サポーターに「世界最低のアタッカー」と野次られ、エジムンドは自分の男性のシンボルをむき出しにして振って見せ、大問題となった。また、リベルタドーレス杯のアルゼンチンのベレス・サルスフィエルドとの試合では、フラメンゴが3−0で勝ち、エジムンドはゴールも決めたのに、相手DFと殴り合いになっている。

 このころ私生活では、ひどい自動車事故を起こし、助手席の女性と対向車のドライバー2人を死なせ、有罪判決を受けた。有能な弁護士のおかげで服役することはなくプレーを続けたが、「人殺し」などのヤジを飛ばされてリオが嫌になったのか、コリンチャンスにレンタル移籍した。コリンチャンスでも多くのゴールを決めたが、リベルタドーレス杯では準々決勝で敗退した。

 その後、エジムンドはヴァスコに戻り、チームを降格から救う。4−1で勝利したフラメンゴ戦では、3ゴールがエジムンドのものだった。

 翌年の1997年は、彼のサッカー人生の中でも一番輝かしい1年だった。エヴァイールとコンビを組み、才能ある若手たちを率い、ヴァスコをブラジル王者に導いた。

 自身は28試合で29ゴールを決め、レイナウドが持っていた全国リーグでの最多得点記録を20年ぶりに更新した。その中には1試合で6ゴール決めたサン・ジョアン戦、フラメンゴ戦でのハットトリックも入っている。決勝の2試合は、ゴールこそ決めなかったが、その存在感は際立っていた。ファーストレグでイエローカードをもらい、累積で最終戦に出られないことが決まると、審判に暴力をふるい、裁判沙汰にまで発展した。

 この年ブラジルの最優秀選手に選ばれた後、彼は900万ドル(当時のレートで約12億円)でイタリアのフィオレンティーナに移籍した。そこで彼はアルゼンチンの巨星ガブリエル・バティストゥータ、ポルトガルのマヌエル・ルイ・コスタとともにプレーし、一時期はチームをセリエAのトップにまで導いた。

 しかし、チームにうまくなじめなかったようで、1998年の年末にはチームのほとんどの選手、コーチと不仲になり、ローマ戦で交代させられると、テレビカメラの前でジョヴァンニ・トラパットーニ監督を非難。その数日後には、それまで一番仲のよかったエミリアーノ・ビジカを口論の末殴っている。

 年が変わるとフィオレンティーナはケガ人が続出し、その中にはバティストゥータも含まれていた。正念場であったにもかかわらず、エジムンドは契約の条件であるとして、シーズン途中にカーニバルのためリオに帰ってしまった。

 チームメイトたちがこれに非難の声をあげると、エジムンドはバティストゥータのことを"負け犬"、ルイ・コスタを"やっかみ屋"と反撃した。サポーターもこの行動には憤慨し、彼の不在中にフィレンツェの家の門にこんなメッセージをはり付けた。「もうたくさんだ。黙って勝利しろ」と。

 エジムンドとサポーターとの敵対でフィオレンティーナは混乱した。何人かの選手は、チームにエジムンドの放出を懇願するほどだった。多くの記者は、これほど問題がなければ、フィオレンティーナは優勝を果たしていただろうと見ている。

 フィオレンティーナがいやになったエジムンドは、勝手にヴァスコ・ダ・ガマへの復帰を画策。フィオレンティーナはその頭ごなしの態度に激怒したが、彼をとどめる理由もなく、ヴァスコに売り渡した。チームのスターの帰還にサポーターは歓喜し、ヴァスコはアメリカ銀行の助けも借りて1500万ドル(約20億円)というブラジルチーム史上最高額を払った。

 ヴァスコはその前年、史上初めてリベルタドーレス杯を制して、2000年の第1回クラブワールドカップのタイトルを目指していた。そのためにエジムンドだけでなくロマーリオも獲得。再結成したこのコンビでマンチェスター・ユナイテッドを下し、優勝はならなかったものの、決勝に進んだ。

 やがてロマーリオの人気が高まると、エジムンドはスターの座を奪われていく格好になった。ロマーリオがキャプテンマークを巻くようになると、今度はロマーリオとの間でたびたび諍いを起こすようになった。

 結局ヴァスコは彼をまずサントス、次いでナポリにレンタルする。短いタームで貸し出されることに疲れたエジムンドは2001年に自分のパスを手に入れ、クルゼイロに移籍した。ここでは古巣のヴァスコ戦での発言が問題視された。

 この試合、クルゼイロは3−0で敗れたが、エジムンドは試合後にこんなことを言った。

「この試合でゴールしたくなかった。もししたとしても、それは仕事だからであるが、嬉しいとは思わなかっただろう。なぜならヴァスコの1ファンとして、自分のチームの負けは見たくないからだ」

 このフレーズは「ブラジルサッカーの100の最低な言動」にも選ばれた。

 この一件で、エジムンドはクルゼイロと契約を解消された。チームのないエジムンドはリオデジャネイロ郊外にある練習場で自主トレーニングをしていた。彼の次の移籍先が日本であったことと、この練習場のオーナーがジーコであったのは、もしかしたら無関係ではないかもしれない。東京ヴェルディはたった3回の交渉で、エジムンドを説得することができた。
(つづく)

エジムンド
本名エジムンド・アウヴェス・デ・ソウザ・ネト。1971年4月2日生まれ。1992年、ヴァスコ・ダ・ガマでプロデビュー。その後、パルメイラス、フラメンゴ、フィオレンティーナ(イタリア)などでプレー。2001年、東京ヴェルディに移籍。2003年には浦和レッズに移籍したが、リーグ戦出場0で帰国した。その後もヴァスコ・ダ・ガマやパルメイラスで活躍、2008年に現役を引退。ブラジル代表としては1998年フランスW杯に出場している。

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