野獣エジムンドが日本を去った真相。「今でも打ちのめされた気に…」

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2020年08月14日 11:12  webスポルティーバ

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第9回エジムンド(後編)>>前編を読む

 ピッチ内外で波風を立て続けてきた「オ・アニマウ」(野獣)、エジムンド。クルゼイロとの契約を解消されると、移籍先が見つかるまで、リオデジャネイロ郊外で自主トレーニングをするしかなかった。エジムンドが首を縦にふったのは、東京ヴェルティからのオファーだった。

 ここまでのエジムンドの行動パターンを見てみると、1)プレーでチームやサポーターの心をつかむ、2)問題行動と、監督や同僚との不仲で移籍、の繰り返しだった。

 それを考えると、日本での彼はかなりよくやったのではないかと思う。

 東京ヴェルディが彼を日本に連れてきたことは間違いではなかった。結果を出し、自分のすべきことを果たした。ヴェルディでのエジムンドは、最盛期を取り戻したかのようだった。

 2001年10月、まずはデビュー戦で名刺代わりのゴールを決めると、降格寸前だったチームを救い、J1に残留させた。翌2002年には26試合で16ゴールを決め、パルメイラスから再びオファーが届いたぐらいだ。彼はヴェルディでは絶対的なスターであり、すべてのボールは彼に集まり、王様でいられた。




 その後、浦和レッズが当時のJリーガー最高額のオファーをし、エジムンドは日本サッカー界に君臨するようにみえた。しかし、それから3カ月もしないうちに、彼はサウダージを感じたことにして、日本を後にした。当時の監督ハンス・オフトなどとの意見の食い違いだったと思われる。

 多くの日本人は、彼の帰国を残念に思っただろう。エジムンドが日本でプレーした最も優秀なブラジル人選手のひとりだったのは疑いようもない。

 だが、日本でも変わらないところはあった。

 2002年の頭には、彼はケガをしたという理由でキャンプに参加せず、治療のためにブラジルに戻っている。リオに松葉杖をついて戻っていったエジムンドだったが、彼が戻った時期はちょうどリオ最大のお祭り、カーニバルの時期だった。ブラジルのテレビの中継は、踊りはしないものの、音楽にのりパレードに参加するエジムンドの姿を映し出した。

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 ヴェルディの幹部が思わず漏らした発言は翌日のブラジルの新聞の見出しに躍った。「エジムンドはいったい何をしているんだ?」。

 サッカーを離れた武勇伝も事欠かない。息子の誕生日のために借りてきたサーカスの猿に酒を飲ませて、動物愛護団体から訴えられた。リオのビーチで不法賭博をして逮捕されたこともある。

 ブラジルでのエジムンドの評価はこの言葉に要約される。

「確かにエジムンドには才能がある。しかし、もしもう少し頭を使えば、ブラジルを代表してW杯で3度プレーもできただろう......」

 エジムンドはブラジル代表として、1998年のフランス大会でしかプレーしていない。それもロナウドの控えだった。そしてそこにもいい思い出はない。

 今から数年前、私はエジムンドにインタビューをする機会を得たが、その中のこんな台詞が私の興味を引いた。1997年にロナウドを抑えブラジル最優秀選手になったことについて尋ねると、彼はこう答えたのだった。

「この年だけじゃない。俺は現役時代を通して、常にロナウドよりも上だった」

 彼は続ける。

「俺はいつもヤツよりいいプレーをしていた。決めてきたゴール数も俺はロナウドの倍近いし、ブラジルチャンピオンにも何度もなっている。ブラジルで得点王になることはとても難しい。ロナウドはブラジルでもプレーしたが、失敗した。彼と俺の唯一の違いは代表での成果だ。確かに名ゴールも決めてはいるが、ヤツのサッカーは......。ロマーリオが俺よりいいプレーをしたのは認める。ジーコ、リベリーノ、俺より優秀な選手はたくさんいる。だが、ロナウドだけは違う」

 エジムンドがここまでロナウドを否定する理由は、1998年のフランスW杯にある。決勝の前夜にロナウドは意識を失った。床に倒れたロナウドに最初に駆け寄ったのはエジムンドだった。倒れたロナウドは痙攣していたという。

 翌日、マリオ・ザガロ監督がロナウドの代わりにスタメンに選んだのもエジムンドだった。決勝を戦うストライカーとして、彼の名は正式に告知された。しかしロナウドはキックオフ45分前にスタジアムにやって来て、プレーさせてくれと頼み込んだ。ブラジルはFIFAに無理を通してメンバーを代え、エジムンドはキックオフ数分前にスタメンを降ろされた。

 この時の彼の尋常でない怒りの様子を、私は目の当たりにしている。決勝直前のブラジルはこのように混乱し、崩壊し、怒りに満ちていた。その結果がフランスの3−0の勝利だ。

 日本から戻った頃から、エジムンドの言動もようやく落ち着いてきた。プレーにかつての激しさは見られなくなり、より冷静にプレーするようになった。ヴァスコ・ダ・ガマ、フルミネンセ、パルメイラスなどで活躍し、最後は最愛のヴァスコ・ダ・ガマで、40歳で引退した。

 キャリア後半は「よりチームに愛着を持って、精神的に集中してプレーするようになった」と、後にエジムンドは語っている。

 こんな破天荒なエジムンドだが、家族は非常に大事にしていた。

 エジムンドの生い立ちは厳しいものだった。彼の父は理容師で、母は掃除や住み込みの家政婦をして生計を立てていた。彼が生まれ家は床がなく、土がむき出しだったという。

「ただ幸いにも、叔母のひとりが銀行で働いていた。彼女には子供がなく、うちの両親はいつも外で仕事をしていたので、俺は叔母の家で育った」

 この叔母の恋人が彼をヴァスコ・ダ・ガマのテストに連れて行った。チームで才能を認められるようになると、エジムンドは幼いながらも「自分がこれから家族を支えていく」という大きな責任を感じ始めたという。

 だが、浦和レッズでプレーしている間に、彼の家族に悲劇が起こった。弟が弾丸で穴だらけになった車のトランクで、遺体で見つかったのだ。

「今でもそのことを考えると、打ちのめされた気になる。弟を失ってから数年後には父も母も相次いで亡くなってしまった。足元が崩れていくような感覚だった。俺の名声、金、持てるすべてのものと取り替えていいから、弟を返してほしいと願った」

 弟は麻薬中毒で、その取引で何らかのトラブルに巻き込まれたと言われている。

「弟が死んだ時、俺は日本にいた。時差のため俺が知ったのは数時間後だった。すぐにブラジルに帰りたかったが、弟の遺体は警察に渡されていて、俺にできることはないとわかった。俺は歯を食いしばって最後の数試合をプレーし、ブラジルに帰った」

 現在エジムンドは49歳。もう11年も、『FOXスポーツ』のコメンテーターを務めている。歯に衣着せぬ率直な解説は、ブラジルでも人気がある。さまざまな経験を通して、今は選手時代よりもずっと落ち着き、やっと自分の居場所を得たようにも見えるのだ。

エジムンド
本名エジムンド・アウヴェス・デ・ソウザ・ネト。1971年4月2日生まれ。1992年、ヴァスコ・ダ・ガマでプロデビュー。その後、パルメイラス、フラメンゴ、フィオレンティーナ(イタリア)などでプレー。2001年、東京ヴェルディに移籍。2003年には浦和レッズに移籍したが、リーグ戦出場0で帰国した。その後もヴァスコ・ダ・ガマやパルメイラスで活躍、2008年に現役を引退。ブラジル代表としては1998年フランスW杯に出場している。




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