近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。
『ロスト・メモリーズ』
今から13年前の2007年、韓国近代史を専門とするロンドン大学のアンダース・カールソン教授が、韓国メディアに総叩きにされる事件が起こった。高麗大学での夏期特別講座で、安重根(アン・ジュングン)や金九(キム・グ)ら抗日運動家を「テロリスト」呼ばわりしたという理由だった。韓国のネトウヨたちはすぐさま反応し、カルソン教授への誹謗中傷や批判が広まって、彼は講座中止の窮地にまで追い込まれてしまった。
それもそのはず、韓国人にとって抗日運動家とは尊敬してやまない偉大な存在であり、中でも安重根は「韓国侵略の元凶」とされる伊藤博文を射殺した、“英雄中の英雄”である。そんな彼をあのイスラム国やタリバンと同列の「テロリスト」として語るとは正気か――あるネットメディアは、「天人ともに許さざる」日本の蛮行に抵抗した抗日運動家たちの「義挙」をテロと呼んだ教授に、怒りをあらわに反論した。
教授は実際には、「帝国との闘いには、非暴力的な方法もあれば、ゲリラ戦や要人暗殺といったテロリズムもある」と、当時の闘いと近年の無差別殺人を伴うテロとは差別化して説明していた。にもかかわらずネトウヨやメディアは「テロリスト」という単語だけを切り取り、現在のテロリズムの文脈から解釈して騒ぎ立てたというわけだ。
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カルソン教授は数少ない欧米の韓国史研究者であり、ロンドン大学で韓国語や韓国史を教えている「ありがたい存在」ということもあって、早々に騒ぎは収まり、講座は無事に終わった。が、この騒ぎは安重根ら抗日運動家が韓国においてアンタッチャブルな存在であることを改めて浮き彫りにした。
日本による植民地支配の不当性を徹底的に教育する韓国からすれば、当然の態度かもしれないが、特定の歴史的事件に対して議論の余地を与えず、ひたすら神聖化へと突き進んでしまう恐ろしさは常に存在する。歴史はさまざまな視点から捉えられるべき、とは常識ではあるものの、見方を固定しようとする動きに対しては警戒を怠ってはならないのだ。
今回取り上げる『ロスト・メモリーズ』(イ・シミョン監督、2002)は、そういう意味では、いわゆる「歴史改変(alternative history)もの」として、植民地の歴史に対して興味深い視点を提示している。「歴史改変もの」とは、歴史が実際とは違う展開になった場合の現在や未来における架空の物語を描く、SFジャンルの一種だ。歴史的な出来事にフィクションを加味する「ファクション」とは違い、仮定法によってまったく異なる歴史を再創造し、あり得たかもしれない歴史の多様な可能性を提示する。架空の歴史を見るというジャンル的な楽しみはもちろん、予測可能な歴史的選択肢の一つにもなりうるという点が、「歴史改変もの」に注目が集まる理由だ。
一方でこのジャンルには、史実と二項対立的に単純比較され、史実がいかに正しいかを強調するためのものとして、プロパガンダ的に使われる危険性も潜んでいる。植民地支配の歴史改変ものとして本作は、はたしてどのような再創造の世界を見せてくれるだろうか。
<物語>
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1909年10月26日のハルビン駅。安重根は伊藤博文の暗殺に失敗し、その場で射殺される。これによってまったく違う方向に展開する歴史は、日本の大東亜共栄圏の成功につながり、2009年現在も韓国は日本の植民地のままである。日本第3の都市になっている京城(ソウル)で、政界の大物率いる「井上財団」が主催した遺物展覧会の会場が、反政府組織「朝鮮解放同盟」によって襲撃される。鎮圧に駆け付けた連邦捜査局JBI(FBIのもじりか)の捜査官・坂本(チャン・ドンゴン)や西郷(仲村トオル)らによってテロはすぐに抑え込まれるが、坂本はテロリストの目的がはっきりしないことに疑問を抱く。再捜査を求める朝鮮系日本人の坂本に対し、上層部はなぜか事件を隠蔽しようとする。
ひとり捜査を進めて停職・逮捕の危機に瀕した坂本は、逃げる際に撃たれて重傷を負う。行き場を失った坂本は、「不令鮮人」(不逞鮮人)たちに助けられ、彼らのアジトで次第に朝鮮人としての民族意識に目覚めていく。やがて、安重根による伊藤博文暗殺の失敗やその後のゆがんだ歴史は、すべて井上財団が画策した巨大な陰謀の結果だったことを知った坂本は、歴史を正すべく、タイムスリップ装置を利用して100年前のあの日のハルビン駅へ向かう。
本作には仲村や光石研ら韓国でも名を知られる日本人俳優が出演して話題を呼んだが、個人的には『にあんちゃん』(1959)や『豚と軍艦』(61)、『うなぎ』(97)など数々の名作を残した日本映画界の巨匠、故・今村昌平監督が歴史学者として登場したのに驚いた。どうやら、今村監督が創設した日本映画専門学校(現・日本映画大学)の卒業生である俳優キム・ウンスが捜査官の役で出演していた縁からだといわれるが、同時に、1998年当時の金大中(キム・デジュン)政権が行った日本大衆文化開放政策によって、戦後の韓国で正式に上映された初めての日本映画が『うなぎ』だったという歴史的なつながりもあったかもしれない。
さて、物語からもわかるように、本作はアンタッチャブルな安重根の義挙という歴史の改変を出発点にしている。伊藤博文の暗殺に失敗し、逆にその場で安重根が殺されるという大胆な書き換えに始まり、伊藤博文の朝鮮総督府・初代総督赴任、三・一独立運動など抗日運動の失敗、日米同盟と連合軍側での第2次世界大戦参戦、満州併合、ベルリンへの原爆投下で大戦終結といった改変された歴史が、オープニングで次々とスピーディーに提示される。そして戦後、戦勝国の日本は国連安保理の常任理事国になり、88年の名古屋オリンピックや2002年のワールドカップを招致。サッカー選手のイ・ドングク(韓国サッカー界を代表する人物)の胸には韓国の国旗ではなく日の丸が輝き、京城のど真ん中には李舜臣(イ・スンシン)ではなく豊臣秀吉の銅像が立っている……。
インパクトの強いオープニングであるだけに、これらの衝撃的な改変がどのように映画の物語と絡んでいくのか、期待を込めて見始めたのだが、映画は時代を09年という近未来(製作当時)にしただけで、そこで繰り広げられる闘いは、次第に抗日運動を素材にした「韓国=善/日本=悪」といったお決まりの二項対立に収斂されていった。朝鮮独立のために命を懸けて壮絶に闘い死んでいったとされる、国家が認めた「公式の歴史」をなぞるだけでは、わざわざ歴史を改変した理由がまったく見当たらないではないか。伊藤博文暗殺失敗というねじ曲げられた「悪い歴史」を「正しい歴史」に戻すためにタイムスリップし、暗殺を成功させるという結末はもはや見なくてもわかるものであり、映画というメディアに許された自由な表現空間は生かされることなく映画は終わりを迎えた。
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植民地支配の時代、多くの抗日運動家が命を惜しまず闘ったのは事実だが、独立の決定打になったのは日本の敗戦にほかならない。それにより、朝鮮は期せずして解放を迎えることになった。それなのに、韓国の独立はすべて抗日運動の帰結として捉えるのは、それこそ都合の良い解釈という改変ではないだろうか。わざわざ「歴史改変もの」の型を借りたにもかかわらず、本作は結局、歴史を多様なレベルで考えさせるなどといった意図など最初から持ち合わせていなかったようである。韓流スターが主演し、日本からも多くのキャストを得て画期的な試みとなるはずだった映画は、製作から18年がたった現在、ほとんど忘れ去られてしまっている。
見終わってふと、伊藤博文暗殺の義挙に隠れてあまり議論されることのない、安重根をめぐる別の歴史に思いをはせた。実は彼は、1894年に農民らが蜂起した「東学農民運動(東学党の乱としても知られる)」では、官軍側の立場から鎮圧に参加していた。また処刑後、安重根の家族が日本の官憲に追われて逃げ続ける不遇な日々を送る中で、日本政府に利用された息子の俊生(ジュンセン)は、伊藤博文の息子に謝罪する事態に追い詰められ、朝鮮の民衆から「民族の裏切り者」と呼ばれた。「伊藤博文を暗殺した英雄」という視点だけでは見えない、安重根をめぐる複層的な歴史もまた存在するのである。
だがそれでも「歴史改変もの」ジャンルが秘める映画的可能性を、私はまだ信じている。とりわけ植民地時代の歴史に対するアンタッチャブルな姿勢の問題点を理解し、そこに大胆な改変を試みる、本ジャンルの新たな傑作が誕生する日を心待ちにしている。まだ理想的な期待かもしれないが、もっと柔軟で多層的な文脈を持つ傑作を、である。
■崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。