【今週はこれを読め! エンタメ編】戦下でポン菓子製造機を作った人〜歌川たいじ『バケモンの涙』

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2020年08月19日 19:42  BOOK STAND

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写真『バケモンの涙』歌川 たいじ 光文社
『バケモンの涙』歌川 たいじ 光文社
 主人公の橘トシ子は19歳。実家は大阪の郊外にある旧家(蔵が4つもある)で、トシ子は「いとはん」(=大店の長女)と呼ばれて育った。何の不自由もない暮らしだったけれども、お人形さんやきれいな着物には関心がなく、「いとはんらししなさい」「女の子らししなさい」という言いつけにもなかなかなじめない子ども時代を過ごした。そのかわりに興味があったのは、「大きな機械が動くのを見たり、その仕組みを教えてもらうこと」。ほんとうは大学の工学部に進みたかったが、時代は太平洋戦争が開戦する直前。現代と違って、女子が工学を学ぶことが容認される空気ではなかった。工学部進学の夢は断たれたものの、母親が早くに家を出てしまったために弟妹の面倒をよくみてきた子ども好きのトシ子は、高等女学校を出て国民学校の教師となる。

 戦況が厳しくなっていく中、大阪では栄養失調の子どもたちが増えるばかりだった。食料の配給もなければ、わずかばかりの米や雑穀を炊く燃料もない。そんな過酷な状況下で、なすすべもなく亡くなっていく教え子たち、そして大阪が爆撃された晩に偶然目撃した炎の中で焼かれていく親子...。せめて子どもたちにおなかいっぱい食べさせてやりたいという思いがトシ子を突き動かす。そのためには、少しの米でもたくさんのお菓子を生み出せる機械を作りたいと。幼少の頃に梅田で開催された外国菓子の博覧会に行ったときに一度だけ食べたものと同じ、「バケモン」のような小さな機関車のような形をした機械から「涙」のように生み出されていた飴がけの甘いお菓子を。しかし、いまの大阪には新しい機械を作る鉄など残っていない。戦闘機や戦艦を作る鉄を供出するため、通天閣まで解体されてしまっていたのだ。でも、製鉄所や鉄工所の集中する九州の八幡になら、鉄はある...!

 『バケモンの涙』は、実話に基づいたフィクションなのだそう。ということは、我が身の安全さえ危うい戦争のさなかに、子どもたちのためにと動いた人たちがこんなにいたということだ。トシ子以外にも、国民学校の同僚の修造さん、許婚者だった勇作さん、阪大工学部の天野教授、八幡で最初から面倒をみてくれた稲吉さん、お手伝いのサト子さん、信次さんをはじめとする工員たち、酒場の女将のツタ代さん、日本製鉄の三浦さん、そして日本製鉄総裁の真田さん...。ひとりひとりの名前を見るだけで泣きそうになる。アカデミー賞で感極まって感謝を捧げたい人を延々とあげていく俳優みたいになってしまったが、他にもトシ子を助けるためにたくさんの人が手を貸した。しかも、上にあげた中にはトシ子の家族や身内に近い人々は含まれていない。誰からも恐れられる祖母や口うるさいところのある使用人のヤエさん、家に寄りつかない父やその愛人である芳乃までもがトシ子を支えたのだ。確かにトシ子は「ええとこのお嬢さん」であったが、財力以上に幸せだったのは温かい家族に恵まれていたことだったに違いない。

 8月は終戦記念日がある月だ。自分の誕生月でもあるのだが、昔はもっと原爆投下や終戦記念日にまつわる報道が多く悲しい気持ちになることがしばしばで、私は8月がきらいだった。しかし現在、"戦争体験者が家族にいる"という人すら少なくなってきているということを、再認識させられる。戦争の記憶を風化させるわけにはいかない。戦争の悲惨さをまったく知らなかったら、"二度と戦争を繰り返してはならない"ということを心の底から実感できないだろうから。戦争を知らない世代には、フィクションという形から関心を持ってもらえたらと思う。本書ではつらい世の中を懸命に生きる人々の姿が生き生きと描かれているが、それだけに多くの人生があっけなく絶たれることのつらさが胸に迫ってくる。私もこの8月を、戦争というものに改めて向き合う機会としなければ。

 著者の歌川たいじさんは、多彩な肩書きを持っておられる。作家以外にも、漫画家、カリスマブロガー、俳優などなど。私は『母さんがどんなに僕を嫌いでも』(KADOKAWA)という児童虐待を題材としたコミックエッセイで、最初に歌川さんのお名前を知った。『母さん〜』は身を切られるような痛みを読者に突きつけてくる作品だったので、まっすぐさと明るさとユーモアに満ちた『バケモンの涙』を読んで驚いた。けれど同時に繊細さも感じられて、やっぱり『母さん〜』の著者でいらっしゃるなとも感じる。マルチな才能をお持ちのクリエイターが小説を書くことに対して、若干の物足りなさを感じてしまうような読者は、けっこういらっしゃるのではないだろうか。ていうか、その読者は私だった。だからここで、自分の思い込みが完全な誤りであったことをはっきりと申し上げたい。ていうか、読んでください。

(松井ゆかり)


『バケモンの涙』
著者:歌川 たいじ
出版社:光文社
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