“西武黄金時代のエース”が台湾球界で掴んだ名指導者への道【渡辺久信・最後の1年】

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2020年08月21日 15:44  ベースボールキング

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完投で移籍後初勝利を挙げ、ファンの声援にこたえるヤクルト・渡辺=横浜
◆ 『男たちの挽歌』第22幕:渡辺久信

 当時、その若者は“新人類”と呼ばれていた。

 西武ライオンズの渡辺久信である。83年ドラフト1位指名時にはリーゼントに短ラン・ボンタン姿のリアル『ビー・バップ・ハイスクール』スタイルが話題となるが、プロ入り後は勝利投手になった翌日、原宿でのショッピングを楽しみ洋服代は月に30万円。酒を飲むよりディスコで踊ってストレス発散。他球団の同期入団投手とは、勝ち星が少ない方がゴルフウエアを着て六本木を歩くなんて勝負をする。

 寮でラジコンカーでのレースに熱中していたら、マシンが壁にぶつかり火を吹き煙が出たことも。ある意味、燃える男ナベQだ。そんなヤンチャで早熟な右腕は、2年目にクローザー抜擢、入団3年目の86年には16勝を挙げ、21歳の若さでパ・リーグ最多勝と最多奪三振に輝いた。

 1986年(昭和61年)の新語・流行語大賞で“新人類”の代表として、チームメイトの工藤公康や清原和博と表彰式に出席。V旅行先のハワイのビーチでは、B'zの稲葉浩志ばりの際どいショートパンツ姿で寝転がり日光浴を楽しみ、春季キャンプ中はテレビ朝日『ニュースステーション』で、工藤との「クドちゃんナベちゃんのキャンプフライデー」なんてご機嫌なコーナーも担当。

 身長185cmのモデルのような細身のスタイルにイケメンで絶大なギャル人気を誇り、村田兆治や門田博光といった豪傑タイプが多かったパ・リーグのイメージを変えた選手でもある。

 そのフィーバーぶりは凄まじく、寮を出てマンションでひとり暮らしを始めると、女性ファンが玄関の外まで押し掛け、インターホンを鳴らしたり一晩中外で待っていたという。まさに日本のバブル好景気を体現した背番号41は、ローテのど真ん中で西武黄金時代を支えてみせた。


◆ 剛腕の衰えと新たな選択

 85年から94年の間、チームは9度のリーグ優勝、6度の日本一に輝くが、渡辺は150キロ近い快速球とフォークを武器に毎年200イニング前後を投げ、3年連続15勝以上を含む、3度の最多勝を獲得。しかし、同僚の工藤も羨んだ桁違いの馬力と強靭な体を誇った典型的なパワーピッチャーは、体力が落ち始める20代後半になると思うように勝てなくなる。

 二ケタ勝利は92年の12勝が最後。30歳を迎えた95年、若手時代に可愛がってもらった東尾修が監督就任すると、一時抑えを務めたり、96年6月11日にはイチロー擁するオリックス打線相手に自身初のノーヒットノーランも達成する(同年4月2日の初勝利も1安打完投勝利だった)。しかし、前半戦で6勝を挙げるも後半は1勝もできず、翌97年は12試合で0勝2敗、防御率4.15とプロ14年目で初めて未勝利に終わる。

 このシーズンのヤクルトとの日本シリーズ第3戦では、古田敦也に決勝アーチを浴びるが、当時の『週刊ベースボール』97年12月29日号によると渡辺の視力は左1.5に対して、右0.5と目に不安があった。

 10月後半の大観衆が入った神宮球場のナイターはホーム付近にモヤがかかって捕手・伊東勤のサインがよく見えず、要求されたフォークボールではなく真ん中付近に直球を投げてしまう痛恨のサインミス。気が付けば年々髪の量が減り……じゃなくてスピードが衰え、数年前から投手コーチに「もう力だけでは抑えられない。考え方を変えろ」と度々指摘されてきたが、全盛期と同じく直球にこだわる渡辺の投球スタイルは一軍では通用しなくなっていた。

 すると、功労者とのお別れはあっさりしたものだった。97年ドラフト会議で西武が7位まで全員投手を指名した翌日、球団から西武球場近くの割烹旅館まで呼び出され、トレード通告かと思ったら、戦力外通告を受けるわけだ。ユニフォームを脱ぐならマスコミへの再就職先を紹介するとも言われたが、まだ32歳の通算124勝右腕への対応としてはあまりにドライなものだった。

 渡辺は「まだまだやれるよ。日本のプロ球団から声が掛からなければアメリカのマイナーに行ってでも投げたい」と現役続行に意欲を見せ、国内複数球団からオファーがあった中から条件面では劣るヤクルト入りを決断。1億円を軽く越えていた年俸は3000万円+出来高3000万円という条件だったが、お金よりも“野村再生工場”で知られる野村克也監督のもとで野球をやりたかった。


◆ 野村再生工場から台湾へ

 そうして、渡辺久信は「最後の1年」を迎えるわけだ。プロ15年目、技巧派への転身を決断して、98年春季キャンプでは新球シュートの習得を目指したが、肝心なところで直球勝負を挑む悪いクセが顔を出す。オープン戦3試合で6本塁打を浴びるなどノムさんの信頼を得ることはできず、1勝5敗1セーブ、防御率4.23という物足りない成績に終わってしまう。

 タイミング悪く翌年から野村監督に代わり若松勉新監督が指揮を執ることに。チームの若返りの方針もあり再び戦力外通告。肩や肘はまだいけたが、もう日本でイチから球団を探す気力はなかった。通算125勝110敗27セーブ、防御率3.67、1609奪三振。その日の内に33歳での現役引退を表明する。

 第2の野球人生は解説者としての仕事も決まり、あとは契約書にサインするだけ。と思ったら、西武時代の盟友・郭泰源が台湾大連盟の技術顧問に就任し、日本人の投手コーチを探しているという。

 自著『寛容力〜怒らない選手は伸びる〜』(講談社)によると、先輩の東尾や西武ファンの吉永小百合との会食の席で、ふとその話題が出ると、東尾は「ナベがいずれ日本で指導者をやるというのなら、一度台湾で勉強してきた方が絶対タメになるぞ。真剣に考えてみろ、すぐ家に帰って嫁さんと相談してこい」と、いきなり言い出す。いやいや楽しみにしていた吉永さんとの会食を前に帰れるわけがないじゃないすか。必死に抵抗をするお茶目なナベQだったが、その夜、直帰後に家族会議を開き台湾行きを決断する。

 しかも、嘉南年代勇士の選手兼コーチだ。マウンドへ上がるからには、若い選手の手本とならなければといい緊張感を持って野球と向き合い、1年目の99年は18勝を挙げ、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振と投手タイトルを独占する活躍を見せる。まだ140キロ台が出たが、あれだけ速球にこだわっていた男が初球は変化球から入ることも増えた。

 先発すると7回か8回まで投げ、最終回は投手コーチとしてマウンドの若い選手へアドバイスを送る。チームの投手部門のほとんどすべてを任せられているので、自分が交代する時は自らタイムをかけて監督を呼ぶ自己申告制。伸び悩むサイドスロー投手の参考になればと自身が1試合サイドスローで投げたら、なんと完封勝利したこともあった。


◆ 第二の青春時代を謳歌

 とにかく渡辺久信は心身ともにタフだった。異国の地で屋台の食事を楽しみ、大きい体を丸めて原付バイクにまたがり球場へ。選手の実家へ招待され酒を酌み交わし、2年目には中国語も覚えヒーローインタビューで「みんなありがとう!今夜は飲みましょう!」なんて叫び、球場を盛り上げる。

 オフの日はひとり旅で台湾各地を歩き、声を掛けて来た地元の人と朝の4時まで飲み明かしたこともある。台湾の人付き合いで酒が異様に強くなったという。凄い、転勤族のサラリーマンならスピード出世しそうなバイタリティとコミュニケーション能力である。

 コーチ業では日本での選手生活晩年に二軍生活を経験したことが生きた。若手との距離を縮め気持ちを理解したかったら、自ら歩み寄り飛び込んでいく。渡辺は自著の中で3年間の台湾生活は「第二の青春時代」だったと振り返っている。

 98年のヤクルトで過ごしたシーズンが最後の1年……と思いきや、それは渡辺久信にとって始まりの1年でもあった。帰国後、解説者を経て二軍コーチとして古巣西武へ復帰。08年には一軍監督1年目で日本一に導いた。

 チームを預かっている以上、絶対に選手を守る。ある試合で自軍がその日3つ目の死球を受け、ホームベース付近で小競り合いになると、敵将の王貞治監督に「王さん、だったらファームでやってくださいよ。ウチの選手がそっちにぶつける逆の状況だったら、なんていうんですか!」と尊敬する世界の王にも向かっていく。年上の人間にも臆せず意見をするボスは選手からの信頼も厚く、現在は西武GMを務めている。前橋工業のツッパリは見事に球界で成り上がってみせた。

 さて、時計の針を少し戻そう。プロ2年目、20歳の渡辺が初めてのシリーズ登板を果たした、85年日本シリーズ。阪神タイガースの猛虎打線を牽引し、西武投手陣を粉砕してMVPに輝いた三冠王がいた。そう、史上最強助っ人の呼び声高い、ランディ・バースである。

【次回、バース編へ続く】


文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)
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