奥山佳恵、ダウン症の息子の未来を案じつつ “今を大事にする”「わたしの子育て」

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2020年09月05日 13:00  週刊女性PRIME

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女優・タレント 奥山佳恵さん 撮影/矢島泰輔

 ブログで公表し、大きな反響を呼んだダウン症の次男・美良生君は、障がい者と健常者がともに学べる小学校に通う。同級生よりもゆっくりと成長する息子は、計算は苦手だが、ひらがなとカタカナが読めるようになった。わが子の将来を案じつつ、今を大事にする“奥山流”子育て。

とんでもないモンスターがやってきた

 その明るい笑顔と飾らない人柄で、バラエティー番組などでも活躍している女優の奥山佳恵さん(46)。新型コロナ感染拡大による自粛期間中は、神奈川県藤沢市の自宅からテレビにリモート出演するほかは、家族で過ごした。

 2人の息子は学校が休校になり、高校3年生の長男、空良そら〕君(18)はスマホを片時も離さず、朝から晩までソファの上でゲームざんまい。

「いいかげんにしろー!」

 イライラがつのった佳恵さんが思い切り怒鳴ると、別の部屋にいた小学3年生の次男、美良生みらい(8)がスッと入ってきて、母の目を見据えて穏やかに言った。

「ママ」

 佳恵さんはそのひと言でハッとして、われに返ることができたという。

大人みたいな目で、やさしくママってもう、後光が差していましたね)。美良生には、できないことはいっぱいあるけど、できることもあるんです誰でも得意不得意があるようにね

 美良生君はダウン症だ。染色体の突然変異による先天性疾患で、発達の遅延、知的障がい、独特な顔立ちなどの特徴がある。

 2011年9月に自宅出産で生まれた美良生君は身体が小さく、母乳を飲む力が弱かった。黄疸が出て生後2日目に入院し、心臓に穴が3つもあいていることがわかった。ダウン症は心疾患を伴うことが多く、美良生君は生後半年間で4度入院し、2度の手術を乗り越えた

 今は笑顔で話す佳恵さんだが、わが子の障がいを受け入れるまでは1年以上の長い時間がかかった。

「この先、何が起こるかわからないから不安で、とんでもないモンスターがやってきたと思って。どこに落とし穴があるかわからない真っ暗闇の山の中に入って行くような恐怖を感じましたね。きっと家の中はめちゃくちゃにされて私は仕事もできなくなるだろうと……」

 美良生君を寝かしつけ、ひとりで洗い物など家事をしていると、不安が襲ってくる。そして、マイナス思考が止まらなくなる──。

健常児に産んであげられなくて、ごめんね

私のせいだもっと早くに産んでいれば……

 自分を責めて、泣いた。

同じダウン症の子を育てる親からのコメント

 佳恵さんが美良生君を産んだのは37歳のときだ。統計上、母親の出産年齢が高齢になるほどダウン症の発生頻度は高くなる。

 長男を28歳で産んだ後、次の出産まで10年近くあいたのには理由がある。空良君はよく泣き、なかなか寝ない子で、佳恵さんは育児ノイローゼになりかけた。また同じことが起きたらと危惧する夫を説得するのに時間がかかったと説明する。

 今度こそ、笑って育てようと、待ちに待った赤ちゃん。おっぱいの匂いがする美良生君を抱いていると幸せな気持ちになった。

「生まれてきてくれて、ありがとう!」

 だが、すぐに気持ちは振り子のように揺れ動く。心の隙間に不安が入り込みそうになると、こうつぶやいた。

美良生くんは美良生くん

 ありのままを受け入れるための呪文のようなものだ。

 医師や理学療法士など専門家の手助けや、ダウン症の親子との交流もあり、先の見えない不安は時間の経過とともに薄れていった。

 美良生君がダウン症であることをブログで公表したのは出産から1年半後だ告知を受けたときは目の前が真っ暗になったけど、生活が始まったら思っていたよりずーっとフツーでかわいいと、心の内を率直につづった

 それに対する反響は、予想を上回るものだった。

全部読ませていただきましたが、いちばん多かったのは“うちも案外、普通だと思っていた”“普通と言ってくれてありがとう”という、同じダウン症の子を育てているお父さん、お母さんからのコメントでした

 美良生のことを黙っているのも、この子を否定しているようでツラいし、かといって1度公表したら引っ込められないので勇気がいりましたけど、伝えてよかったなと

 後押ししてくれたのは当時、小学4年生だった長男の空良君だ。美良生君はダウン症特有の顔立ちをあまりしておらず、親族や友人以外は知らなかった。公表したら、からかわれるかもしれないと何度も確かめたが、空良君はこんなふうに言ってくれた。

大丈夫! 僕の弟はゆっくり大きくなるから、かわいい時期が長いんだ、いいでしょうと、逆に自慢してやるんだ

 佳恵さんが公表した翌月の'13年4月、日本でも新型出生前診断が始まった。妊婦の血液で胎児の染色体異常がわかる。約8割の夫婦は異常があると中絶を選ぶという報告もあり、「命の選別ではないか」との議論もある。

 もし、佳恵さんならどうするかと聞くと、出生前診断は受けないと即答した。

「健常の長男で育児ノイローゼになった私のような者が乗り越えられるわけがないと、いろいろな理由をつけて確実にさよならしたと思うので、知らなくてよかったなーと。事前に知ることより、どんな子が生まれてきても受け入れる態勢が充実しているほうが幸せになれると思います」

私自身、生きるのが楽になった

 今は家族でテレビに出演したり、積極的に取材を受けている。ダウン症児が生まれても不幸ではないと知ってもらいたいからだ。誹謗中傷する声はないのかと聞くと、あっさり認めた。

あなたの仕事の仕方はどうなの? と、私への批判はありましたよ子どもを使ってテレビに出ているとか

 でも、いいんです何と言われても私がこの子の個性を世の中にどんどんお知らせすることで、この子が少しでも生きやすくなれば、御の字なので

「強いですね」

 筆者が思わず口にすると、笑ったまま否定した。

「全然、強くないですよ。大した人間じゃないと、心から思っていて。料理もいまだに下手で、ワンプレートでドーンだし。こんなんで、よく子どもが高3まで育ったなと思う(笑)。

 でも、そんな自分も好きなんです美良生のおかげで、自分のダメなところも受け入れられたんです

 そう思えた裏には、美良生君のゆっくりした成長スピードがある。子どもを育てていると、ついほかの子と比べて「うちの子は何でできないのか」と悩んだりするが、美良生君の場合、違いがありすぎて比べようがなかったと佳恵さんは言う。

比較しても誰も幸せにならないと、この子がわが家にやってきたことでわかりましたあなたはあなたのままでいい。そう思えたら、私自身、生きるのが楽になったんです私も自分らしく、私のできることをやればいいんだと

 今の快活さからは意外だが、幼いころの佳恵さんはおとなしかったと、母親の奥山悦美さん(68)は振り返る。

「本当にどんくさくて、何でもとろくて遅いの(笑)。幼稚園で滑り台に並んでいて“どいて”と言われれば、どいちゃうし。おとなしくて目立たない子だったんですよ」

 佳恵さんは'74年3月に東京都目黒区で生まれた。4人きょうだいの長女で、年子の妹、8歳下と16歳下の弟がいる。両親は父方の祖父母と一緒に近くで中国料理店を経営しており、同居する悦美さんの母が孫の面倒を見ていた。

 子どもたちが寝るとき両親は店にいて、朝、登校するときはまだ寝ている。店は盆と正月以外休まなかったので、普段は顔も合わせない。夏休みの家族旅行が年に1度の大イベントだった。

 悦美さんは1か月前から旅の準備を開始。行程、車の席順、近況報告入りのメンバー紹介を載せたしおりを用意し、DJ風に各自のリクエスト曲を紹介するオリジナルテープを作り車内で流す。父は旅行の間ずっとビデオを回し、帰宅後に1本に編集した。

 いつも一緒にいられない分、できることは何でもやろうとしていた親の気持ちを、佳恵さんも理解していた。

極端ですけど、ちゃんと親とつながっていると感じたので、寂しいと思ったことがないんですよ私は長女なので奥山家を盛り上げる役を率先してやっていました遊園地に行けば、わざとウケそうな乗り物に乗ったりして。

 おかげで、ほかの人の様子を見ながら発言するとか、タレント活動にもちょっとは役に立っている気がするので、長女でよかったかなーと

 ちなみに、自分が親になった後は母をまねて、家族旅行の前にしおりを作っている。

殻がバリーンと割れる音が聞こえた

 小・中学校は地元の公立校に通った。小学4年に進級してすぐのこと。それまで普通に友達と遊んでいたのに、急に誰にも話しかけられなくなってしまった。

「人見知りでも、根暗でもないのに、なんででしょうね。自分でも不思議なんですけど、“入れて”と声をかけるタイミングがつかめなくて。誰とも遊んでいないことをいじられるのも心外だったので、昼休みは女子トイレにずっといたんです(笑)」

 クラスでほとんど発言もできないまま3年間が経過。卒業前の謝恩会で佳恵さんは思い切った行動に出る。シンデレラの劇をやることになり、主役に立候補したのだ。

「やらなければいけない状況に自分から追い込んだんですけど、演技うんぬんの前に、大きい声が出せなくて……」

 途中で辞退したいと泣いて訴えたが許してもらえず、毎日、体育館のステージの上で声を出す練習をした。反対側にいる人には1度も声が届かず、クラス全員が不安なまま迎えた本番当日──。

「ものすごく大きな声が出せたんですね。自分で勝手に作った殻がバリーンと割れる音が私にも聞こえました。もう、次の日から“シンデレラとお呼び”というキャラに激変ですよ。アハハハハ。

 荒療治だと自分でも思います。でも、それがきっかけで、自信がついたんでしょうね。やればできるという人間になれた気がします」

 それまでの不本意な時間を取り戻すかのように、中学以降は活発になった。妹の実穂さん(45)は、当時の佳恵さんの口癖を覚えている。

「本当に直感でパッと動いて、“あとは何とかなる”と、よく言ってました(笑)。それに昔から度胸があるんですよ。

 8階建てマンションの屋上でボール遊びをしていて、ボールを取りにお姉ちゃんが1・5メートルくらいある柵を乗り越えてしまったことがあって。柵の向こうには溝しかなくて足を踏みはずしたら真っ逆さまです……。おばあちゃんに見つかって、こっぴどく叱られましたけど(笑)」

 芸能界への扉が開いたのは'90年。高校2年の夏だ。

 渋谷に水着を買いに行き、セールの知らせと勘違いして、映画のオーディションのチラシを受け取った。読んでみるとグランプリ受賞者にはフロリダのディズニーワールドにペアで招待と書いてある。

映画に出たいとはチラとも思わず、フロリダ目当てで応募したんですそれで、グランプリをいただいて、チケットはもらえたけど、時間はもらえなくて金券ショップで売りました)」

 簡単にグランプリと口にするが、ちょうどバブル景気まっただ中で、応募総数は全国から3万1009人! 

 佳恵さんはセールで買った水着を着て、ふざけたポーズの写真を送った。書類審査で落とされかけたが、「こんな子がいたら面白いかも」とギリギリで合格したことを、受賞後に教えてもらったそうだ。

元気で健康的なキャラで人気を得た

 次はステージで歌ったり自己PRしたりする実技。1次審査で隣に座った女の子が奇抜な服を着ていた。

「服につけた豆電球がチカチカ光っているんですよ。バカみたいでしょう(笑)。ほかの子はみんなきれいにお化粧もしているのに、私はTシャツ、短パンでスッピンですよ。どうしようと思ったけど、その子と仲よくなったおかげで、リラックスできたんです。どうせ落ちるし、楽しもうと思えたら肩に力も入らなくて」

 ふたりとも最終審査まで残り、佳恵さんがグランプリ。準グランプリはその女の子、山本未來さんが受賞。後から世界的ファッションデザイナー山本寛斎さんの娘だと知った。

 オーディションを勝ち抜いて主演した映画『喜多郎の十五少女漂流記』が'92年に公開されると、宣伝を兼ねてバラエティー番組やテレビドラマに次々と出演。元気で健康的なキャラで人気を得た。

 ショートヘアがよく似合っていたが、実は高校に入ってしばらくはロングヘアだった。ショートをすすめたのは同級生で、今はハワイ在住のバリー敦子さん(46)だ。

「あの時代は長い髪をクルクル巻くのが流行っていたけど、よっちゃんはいつもゲラゲラ笑っていて、とにかく明るかったので“絶対、短い髪が似合うよ”と。オーディションのときはショートで、いつもカラオケで歌っていた『おどるポンポコリン』を元気いっぱい歌ったのがよかったんだと信じています(笑)」

 放課後は仲よし4人組で毎日遊んでいた。リーダーは敦子さん。佳恵さんのことを「ダメな末っ子みたいだった」と表現する。

「いっつも遅刻してきたり、お金もないのに後先考えずにカラオケに行って、帰りの電車賃がなくなって私たちに借りたり。それが芸能人になったら、いいほうに変わりました。遅刻しなくなったし“やればできるじゃん”と(笑)」

いまだにマネージャーに怒られる夢を見る

 友人たちよりひと足先に社会に出た佳恵さん。『笑っていいとも!』などバラエティー番組は持ち前の瞬発力で乗り切れたが、慣れない演技は苦労した。特に大変だったのは初めての連続ドラマ『東京エレベーターガール』。収録を終えて帰る車の中でマネージャーにダメ出しを延々とされ、悔し涙を流した。

「現場で演出家に指示されたことができない。理解はしても表現する技術が伴ってないので、もどかしくて泣きました。私を早く形にしたいという叱咤激励なのはわかっていたけど、毎日ですからね。もう恐怖しかない。いまだにマネージャーに怒られる夢を見るくらい(笑)。

 それでもやめたいとは考えなかったですね。ひと晩寝たら忘れるんですよ、ハハハハハ。リセットする力は持っていると思います」

 息抜きは高校からずっと仲よしの4人組で遊ぶこと。

 高校卒業後は温泉など旅行にもよく行った。敦子さんによると、佳恵さんがサプライズで旅行前におそろいのTシャツを、帰宅後には全員分のアルバムを作ってプレゼントしてくれたことがあるそうだ。

 結婚したのは27歳のときだ。相手は6歳上のヘアメイクアップアーティストの稲葉功次郎さん(52)。佳恵さんの担当になって意気投合し、一緒に海に遊びに行くなど仲はよかったが、恋愛対象ではなかった。当時、稲葉さんはアメリカ在住で、日本に一時帰国していたからだ。

 関係が変わったのは、稲葉さんの唐突な告白だった。

「変な言い方ですけど、彼女は普通の人がたまたまポンとこの業界に入った感じで。すごくナチュラルだから一緒にいて楽だし、楽しかったんですよ。アメリカに帰るか、彼女とお付き合いをするか。すごく悩んだんです」

 横で聞いていた佳恵さんが突っ込みを入れる。

「まだ付き合ってもいないのに、ひとりで勝手に悩んで胃に穴をあけたんですよ(笑)。突然“君のことが好きだ!”と言われて、まさに青天の霹靂でした。でも、パズルの最後のピースがピタッとはまった感じで、あ、この人かと。お互いに自分らしくいれたのがよかったのかもね」

 事務所には「前例がない」と反対されたが押し通し、交際を始めて1年後の2001年秋に結婚。翌年6月に長男の空良君が生まれた。

 実家のある目黒区に新居を構え、ひとりで育児に奮闘する日々が始まった。

家も心もいい風が吹き始める

 育児書が頼りだが、例えば「15分間授乳」と書いてあれば、デジタル時計とにらめっこ。15分が過ぎておっぱいから離したら大泣き! 本に書いてあるとおり一生懸命やるほど、うまくいかない……。

 空良君は音に敏感で、ベッドに寝かすと泣くので、ずっと抱っこしたまま。ピリピリする佳恵さんの感情が伝わって、よけい寝ない悪循環に陥る……。

 心配した母の悦美さんが店の休憩時間に食事を持ってきてくれた。母がいる間、佳恵さんもウトウトはするが、空良君が泣くと起きてしまう。

 ある夜のこと。仕事を終えて帰宅した夫の顔を見て、佳恵さんは財布と携帯を手に家を飛び出してしまった。

「“ただいまー”のまの字の後に、音符が見えたんですね。それで腹が立って“あなたはいいよね。外で好きなことして。もうイヤだ! 何もかも捨ててやる!”と(笑)。

 全然、彼は悪くないんです。私がノイローゼになりかけていておかしかったのに、おかしいと否定せず受けとめてくれた。それが何より助かりましたね」

 よどんだ空気を吹き飛ばしてくれたのは湘南の風だ。

 空良君が9か月のとき藤沢市に引っ越した。サーフィンが趣味で藤沢に住んだことのある夫の提案だったが、おかげで佳恵さんは本来の自分を取り戻すことができた。

マンション2階の部屋にベッドを運び入れるのに苦労していたら、住人の方が何人も出てきて手伝ってくれてその夜はうちで宴会です(笑)。東京では知らない人に指をさされるのがイヤで帽子をかぶらないと外出できなかったのに、こちらの人は垣根がなくて、帽子をかぶる隙を与えてくれなかったんですよ)」

 空良君を保育園に入れるとママ友ができて、気持ちに余裕が生まれた。

 会社員の伊藤さつきさん(50)はママ友1号。息子のお迎えがいつもギリギリで、同じ時間に来る佳恵さんと自然に話をするようになった。伊藤さんには2歳上の子もおり、先輩ママとして育児の悩みも聞いたという。

「空良君が泣きやまないと気にしてたから“そんなものよ。うちも泣きやまないからベッドに放っておいたよ”と(笑)。佳恵ちゃんはご飯作りも苦手で、レシピどおり作れないと悩んでいたので“適当でいいのよー”と。根がまじめなんじゃないですかね」

 保育園帰りには、もう1組仲のいい親子を加えた3組でスーパー銭湯に行ったり、佳恵さんの家に集まったり。伊藤さんたちが手早く夕飯を作る間に、佳恵さんが子ども4人を風呂に入れてくれたそうだ。

「遊び疲れて子どもが寝ちゃったらそのまま預かってもらったり、佳恵ちゃんがドラマの収録で泊まりのときは空良君を預かったり。長屋の大家族みたいな感じで過ごしました。彼女もここでは心を開いていて自然体なので、誰も芸能人扱いはしないですね」

家族をひとつにするために生まれてきたのかも

 本格的に仕事復帰してからの佳恵さんは“仕事ファースト”だ。保育園に入れた当初、空良君に泣かれて「仕事がそれほど大事か」と自問自答したこともあるが、仕事はやめられないと覚悟を決めた。

お母さんの好きな仕事をさせてくれて、ありがとう!

 こう言って出かけ、笑顔で帰るよう心がけた。

 佳恵さんが留守のときは夫が子どもの面倒をみている。稲葉さんは藤沢で美容室を経営しているが、佳恵さんが海外ロケでパプアニューギニアに行ったときは、店を2週間閉めてもらったという。

初め、主人はヒモだと思われていましたアハハハハ“いいねー、芸能人のダンナは仕事しないで”って」(佳恵さん)

こっちは波がよかったら、仕事しないでサーフィンするような人がいっぱいいるし、何の仕事をしているとか誰も気にしないからね」(功次郎さん)

 夫婦のやりとりを聞いているだけで、いい風が吹いているのがわかる。

 '11年9月に次男の美良生君が誕生。遺伝子検査を受けてダウン症だと告知されたのは11月初めだ。親族や友人など親しい人にはすぐ伝えたが、母の悦美さんには1か月近く言えなかったという。

「母はいつも笑っていて奥山家の太陽なんですよ。そんな母に、この子のことを否定されたら、産んだことを責められたら……それが怖くて言えなかったんです私自身、何があっても平気だと受け止めきれていなかったんでしょうね」

 夫に急かされて母に電話で伝えると、返ってきたのは予想外な反応だった。

そんなことより、あなたは食べているの?」

 娘を気遣う言葉に、佳恵さんは電話口で大泣きした。

 悦美さんに聞くと、出産後まもなく美良生君に会いに行ったとき「ダウン症ではないか」と感じたそうだ。

「ニコニコっと笑った顔がダウンちゃんの顔だったんです。ビックリしてね。“なんで?”と帰りの電車の中でずーっと考えたんです。

 ちょうど佳恵も功ちゃんも仕事が波に乗ってきて、空良にも手がかからなくなった時期で、バラバラになりかけている家族をギューッと、ひとつにするために、この子は生まれてきたんじゃないか。そう考えたら美良生が愛おしくなって。私の中では受け入れる準備はできていたけど、佳恵が言うまで待とうと思っていたんですよ」

 美良生君はよく寝る育てやすい子どもだった。ダウン症の特性でゆっくり成長し、ハイハイをしたのは1歳半、歩きだしたのは3歳を過ぎてからだ。支援型の幼稚園を卒園し、小学校は特別支援学級に進む予定だったが、あえて違う道を選んだ。

 きっかけになったのは、入学前年の'16年7月に起きた相模原障がい者施設殺傷事件だ。世間に衝撃を与えた事件後、佳恵さんも障がい者の親として関連の仕事に呼ばれる機会が増えた。

 ある催しで、酸素吸入器や胃ろうをつけて車いすで生活する女性と知り合った。自宅に招かれ、胃からお酒を飲む姿に衝撃を受けた。重度障がいがあるのに、女性はずっと普通学級に通ったと聞いて、さらに驚いた。

人は地域の中で育っていくからその人を知ることで障がいが見えなくなる

 そう話す女性に深く共感し、障がい者と健常者がともに学ぶインクルーシブ教育に興味を持った。

 だが、夫の意見は違った。

「本人に合ったクラスで、美良生専用のプログラムで育ったほうが、能力を伸ばせるんじゃないか」

 夫婦で何度も話し合った末に、普通学級を選んだ。藤沢市でもインクルーシブ教育を推進する動きが始まり、タイミングもよかった。

美良生​の成長スピードは想定外

 現在、美良生君は小学3年生。ひらがなとカタカナは読めるが、計算は苦手だ。佳恵さんは「たぶん授業はチンプンカンプンだと思う」とマイナス面も認める。

でも、街でお友達に会うと“あ、美良生君だ”と声をかけてくれますケンカもするし、からかわれて、もめたりもするそういう関わりは普通学級に在籍しているからこそのことだし、みんなの中で生きているなと実感しますね

 これから小学校高学年になると勉強は難しくなる。支援学級のほうがいいのではと迷うこともある。

美良生が生きやすくなるための環境作りは延々と続くだろうなと思いますただ、彼の成長スピードは想定外なので、未来を見据えようとしても、あまりにも見えなさすぎる

 だったら、今、目の前にあるものを大事にしようと。今日を充実させて、みんなで笑うことができたら、よりよい明日が作れると思うんですよね

 熱のこもった佳恵さんの言葉をじっと聞いていた夫が遠慮がちに口にした。

「僕はどうやって美良生より長生きしようか。どうしたら美良生とずっと生きていけるかと考えていますよ」

それは美良生をダメにします!

 佳恵さんは強い口調で否定して、こう続けた。

「いずれ私たちはいなくなるので自立してもらわないと。グループホームとか、いろいろな人と支え合いながら生きてほしいと思います」

 佳恵さんの芸能生活は、高校2年生で映画オーディションに合格してから、ちょうど30年になる。

 女優、タレントとして活躍を続け、出産後には子育て番組のMCを務めたり、障がい者関連の番組に出演したり。子育てエッセイ『生きてるだけで100点満点!』など著書も2冊出版した。仕事の幅は広がっても、貫いているモットーはひとつだ。

「自分の心に嘘はつかない」

 それはどんな仕事でも、同じだという。

「お芝居をしているときに自分と役が重なって、嘘がなくセリフが言えたときはすごく心地いいです。もちろん、できなくて嘘をついたこともありますよ。悲しくないのに泣いているフリをしたりとか。そんなときは気持ち悪さと申し訳なさで、すっごく後悔が残るんですよね。

 バラエティー番組などに出るときは私ができる限りのことを、その場に応じてやっています。でも面白くなかったら笑いません。楽しいから笑っているので、ストレスがない。だから続けていられる気がします」

 嘘のない生き方は仕事だけではない。プライベートでも同じだ。失敗も自分の弱さも隠さずに、周りの人の力を借りながら、すべてを受け入れて、前を向いてきた。

 そんな奥山佳恵さんの心からの笑顔は最強だ。そこにいるだけで、みんなを元気にしてくれる。

取材・文/萩原絹代(はぎわら・きぬよ) 大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90 年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。'95 年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。

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