プロレス史に残る名場面も…大仁田らが盛り上げた「屋外球場」での戦い

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2020年09月07日 17:00  AERA dot.

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写真野球場で行われたプロレス興行で圧倒的な存在感を放ったグレート・ニタ(大仁田厚) (c)朝日新聞社
野球場で行われたプロレス興行で圧倒的な存在感を放ったグレート・ニタ(大仁田厚) (c)朝日新聞社
 8月29日(土)、関東地区2カ所の屋外球場でプロレスが開催された。

 神宮球場(=神宮)と川崎球場(=川崎)。

 過去に名勝負を生み出した球場で開催される久しぶりの興行。胸を躍らせたファンも多かったはずだ。

 独特の雰囲気を醸し出す『屋外球場プロレス』には大きな魅力が詰まっている。空のないドーム球場とは異なった世界を作り出し、戦う男たちの姿も普段とは別人のように思える。

 神宮の杜にプロレスが帰ってきた。

 新日本プロレスは21年ぶりに東京・明治神宮野球場で、ビッグマッチ『SUMMER STRUGGLE in JINGU』を開催。新型コロナウイルス禍、観客数制限が設けられた中だったが、現在の新日本が凝縮された熱戦が繰り広げられた。最後は内藤哲也のタイトル奪還とともに美しい花火の中、大盛況で幕を閉じた。

 新日本が神宮で興行を行うのは、1999年8月28日『GINGU CLIMAX』に続き2度目。

 前回はグレート・ムタ(武藤敬司)vs グレート・ニタ(大仁田厚)戦がメイン。試合形式は、『ノーロープ有刺鉄線バリケードマット時限装置付き電流地雷爆破ダブルヘルデスマッチ』。覚えられないほど長いタイトルの試合は、ニタが自爆から呆気なくフォール負け。予想されてはいたが、消化不良の決着だった。

 また佐々木健介vs高田延彦(当時PRIDEを主戦場として活動)戦が急遽中止になったのも、様々な憶測を呼んだ。

 前述の試合中止トラブルの主役となった高田。自身の団体UWFインターは、新日本より先に3度、神宮を使用していた。

 1993年12月5日は、高田vsスーパー・ベイダーの『プロレスリング世界ヘビー級選手権試合』がメイン。約4万6千人を超える大観衆を集める超満員札止め大会となった。

 1996年8月17日は『“挑戦”神宮花火ジャック』と名付けられ、天龍源一郎、初代タイガーマスクなども参戦。

 そして96年9月11日は『旗揚げ5周年記念特別興行ファイナル〜』。川田利明vs高山善廣、橋本真也vs佐野友飛、『プロレス大賞・年間最高試合賞』に選ばれた高田vs天龍など、豪華なシングル戦が並んだ。

 神宮といえばNPBヤクルトの本拠地、そしてアマチュア野球のメッカとして有名。

 1926年(大正15年)完成で90年以上の歴史を誇り(甲子園は24年開場)、所有は宗教法人明治神宮。プロレス開催も93年のUインターが初であった。使用に関して敷居が高そうに感じる球場であるが、近年はアイドル・乃木坂46が定期的にライブを開催するなど、幅広いジャンルで使われている。2030年前後をメドに新球場建設の話もあり、建て替え前にプロレス界も積極活用して欲しいものだ。

 川崎には『邪道』大仁田厚が再降臨した。

 アメフト専用に改修され、現在は富士通スタジアム川崎(川崎富士見球技場)となっている旧川崎。新日本・神宮と同日、佐藤光留(パンクラスMISSION)デビュー20周年記念大会「変態と呼ばれて」が開催された。大仁田は『テキサストルネードバンクハウス電流爆破バット6人タッグデスマッチ』に出場、存在感を発揮して勝利を飾った。

 プロ野球では閑古鳥の鳴くことが多かった川崎だが、プロレスでは多くの観客を集めた。

 力道山時代の1955年9月4日に日本プロレスが初めて使用したとされ、その後も不定期に大会を開催。ジャイアント馬場、アントニオ猪木も試合をしている。

 多くの大御所も戦った会場だが、やはりインディー団体によるビッグマッチの印象が強い。

 パイオニア的存在となったのは、1991年9月23日に初使用した大仁田厚のFMW。メインは大仁田vsターザン後藤『ノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチ』戦で、約3万3千人の大観衆を集めた。

 FMWはその後、2001年までに計7回の大会を開催。大仁田は1994年に天龍源一郎、1995年にハヤブサと対戦するなど、デスマッチで多くの名勝負を残し『邪道プロレス』の名を世に知らしめた。スタイルに賛否両論はあるがその功績は大きい。

 1995年8月20日にはIWAジャパンがビッグマッチ『KAWASAKI☆DREAM〜インディーだって夢を見る〜』を開催。真夏の炎天下、15時開始という過酷な条件下に約3万人のファンを集めた。

 注目は『最凶デスマッチトーナメント』。テリー・ファンク、タイガー・ジェット・シン、テリー・ゴディ、カクタス・ジャック、ダン・スバーンなど、様々なスタイルの豪華なメンツを揃えた。

 大会自体は破茶滅茶で盛り上がったが、メインで使用した時限爆弾装置が不発。「そよ風のようだった」とテリーが後に回想するほどのショボさは、ある意味で伝説となっている。

 その後2002年から2004年まで3年連続で5月5日に大会を開催したのが、冬木弘道設立のWEWならびに冬木軍プロモーション。

 冬木自身が2003年3月19日ガン性腹膜炎で亡くなってしまったため、大きな意味を持つこととなる。2002年WEW団体旗揚げ、03年冬木追悼、そして2004年プロモーション最終と波乱万丈に満ち溢れた川崎大会となった。

 特に2003年大会でのメイン、橋本真也vs金村キンタロー戦。ゴング直後、2人が冬木の遺骨を抱いて交互に電流爆破へ飛び込むシーンは、プロレス史に残るものとなった。

 翌2004年を最後に、川崎でのプロレスは行われていなかった。久しぶりの興行開催に胸を熱くしたファン、関係者は多い。形は変わってしまったが、川崎球場での定期開催を望む声は少なくない。

 屋外球場での興行は会場設営などに莫大なコストがかかる。天気によって中止リスクもある。屋根付きのドーム球場などが全国に建設されてからは、使用会場がドームの方へとシフトしたのは自然な成り行きだ。

 しかし屋外球場にも大きなメリットがある。もともと野球専用のためスタンドからフィールドが近く見やすい。そして屋外では火器使用など、様々な演出が可能。使い方次第で素晴らしいハコになる。ウイルス対策のため3密状態を避けることが絶対条件な昨今、屋外球場の価値がもっと見直されても良いはずだ。

 屋外球場には空の下ならではの極上な空間が広がる。強い日差しの下でビール片手に見る熱戦。夕焼けに照らされるリング上の選手たち。暗闇の中、ライトに浮かび上がる四角いリング。考えただけでワクワクするではないか。

 ウイズ、アフター・コロナ時において、プロレスを救うのは、屋外球場でのビッグマッチなのかもしれない。(文・山岡則夫)

●プロフィール
山岡則夫/1972年島根県出身。千葉大学卒業後、アパレル会社勤務などを経て01年にInnings,Co.を設立、雑誌『Ballpark Time!』を発刊。現在はBallparkレーベルとして様々な書籍、雑誌を企画、編集・製作するほか、多くの雑誌、書籍、ホームページ等に寄稿している。Ballpark Time!公式ページ、facebook(Ballpark Time)に取材日記を不定期更新中。現在の肩書きはスポーツスペクテイター。





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このニュースに関するつぶやき

  • (;-ω-)DDTは本当の意味で「野外」での戦いだからなぁ・・・
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  • 私の心の中でプロレスはジャンボ鶴田、藤波辰爾、長州力、アントニオ猪木で止まっています。
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