絵を描く瀬戸内寂聴に「当分死ねませんよ」 横尾忠則が長寿の秘密を考察

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2020年09月19日 08:00  AERA dot.

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写真瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。『場所』で野間文芸賞。著書多数。『源氏物語』を現代語訳。2006年文化勲章。17年度朝日賞。
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。『場所』で野間文芸賞。著書多数。『源氏物語』を現代語訳。2006年文化勲章。17年度朝日賞。
 半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。

【横尾忠則さんの写真はこちら】

*  *  *
■横尾忠則「絵描くセトウチさん、当分死ねませんよ」

 セトウチさん

 いやー、場面転換が早いですね。何(な)んだかグダグダ言ってらしたので、絵から心が離れたのかな? と思ったら、水面下で、遺作展まで考えてらっしゃる、そののめり込みは凄(すさ)まじいですね。たった2点描いただけで、遺作展の発想とは。どうもセトウチさんは事を大袈裟(おおげさ)にすることで意欲的になられるところはパフォーマンサーですね。セトウチさんの長寿の秘密はここにあるんですかね。三島由紀夫さんにもこういうところがあります。俳優の資質ですかね。人に注目される場面設定をして、自己変革をしていく……。

 僕にもそういうところがありますが、僕の場合はクモに似ていて網を張って、獲物がひっかかるのを待つタイプです。網に獲物がひっかかって初めて、行動を起こします。どちらかというと成り行きにまかせる運命論者ですが、セトウチさんや三島さんは自分の意志に従って運命を切り拓(ひら)いていくタイプですね。

 運命にまかせるということは予測不可能を基本的に肯定する必要があります。だけど三島さんは、そんなアプレゲール的な危(あぶな)っかしいことはしません。全て論理的に計算された生き方でしょ。手帖(てちょう)に予定の行動がびっしり記されていて、時計みたいに正確に計画を遂行していきます。死に方までリハーサルする人ですからね。麻酔もしないで自分の意志で自分の身体にメスを入れて外科手術しちゃうんだから、本当に完璧主義者です。

 セトウチさんは、衝動的で気が多いところは三島さんと正反対で、コロコロ変(かわ)ります。女心と秋の空です。そして天気予報の才能があります。遺作展というのが予報です。実際に天に向(むか)って印を結んで「エイ」と叫んで雨を晴に変えてしまう不思議というか変な術を使って運命を切り拓いていっちゃいます。遺作展だって、どっかでけつまずいて思い通りに描けないと、突然、「ヤメ!」と言いそうです。周囲の人達は気をつけていないと振り廻(まわ)されます。

 僕も気がよく変りますが、僕の場合は僕が変えるのではなく、運命自体が変るので、僕はそれに従うだけで、僕に責任はありません。それとセトウチさんの長寿の秘密は好きなことをするだけではなく、本質的に我がままです。その我がままが長寿を約束するのです。我がままとは我れのままで自然体のことです。もう、こんなに長生きしたら恥ずかしいとか、何んとか言いながら、結構、我れのままを通しておられるので、そうは簡単に死ねません。

 それと、セトウチさんのもうひとつの才能は、あまり考えないところです。頭のいい人は考えに溺れます。三島さんは考え過ぎて死にました。セトウチさんの長寿の秘密のもうひとつはここにあります。セトウチさんがバタンQで眠っちゃうのはあれこれ考えをこねくりまわさないからです。そして今度は絵を描きます。また長生きしてしまいます。なぜなら絵は考えちゃ描けないからです。考えないで、知性を超えます。

 あーアア、また死が遠ざかりました。どうしても死にたくなられたら、絵を止めれば、パタンQと死ねます。尊厳死です。でも最早、絵の悪魔にとりつかれてしまっておられるので、当分、死ねません。諦めて下さい。ではまた来週。

■瀬戸内寂聴「気短な私が、秘書たちと絵に熱中」

 ヨコオさん

 気短(きみじか)で浮気っぽい私が、まだ絵に熱中していて、いつでも描けるように、キャンバスや絵具(えのぐ)を、部屋の中央にひろげています。

 私にならって、秘書のまなほも、その妹のますみも、私より情熱的に絵筆を探っています。ふたりとも、なかなか絵の才能があるみたいです。でもうっかりほめたら、私よりいい気持(きもち)になり、本来の仕事なんかすっかり忘れて、自分の絵に熱中するので、私はつとめて無視した様子をしていますが、平静な気分ではありません。二人とも私より上手な気がするからです。

 超おしゃべりな三女が、絵を描いている間だけは、口もきかず、部屋はひっそりとしています。誰が一番うまいかと見れば、わが絵もふくめて小学生並みというところでしょう。

 でも、今度気がついたのですが、文章を書くより絵の方がわかり易(やす)くて観(み)る方も楽ですね。絵は一目見た瞬間、好きか嫌いか、自分の感覚が動きますので、観る者の観賞感覚によって、その場で、その絵の魅力度が決まります。具体的な絵ばかり描いてきた我々の祖先たちの前に、突然、シュールな絵が現れた時の愕(おどろ)きはどうだったのでしょう。人物の絵にしたって、写楽の首が現れた時の浮世絵の世界のびっくり仰天さは想像しても愉(たの)しくなります。写楽は、私と同じ徳島の出だそうです。

 私は小説家になりたかった若い頃、ひそかに写楽を小説で描こうとして、なけなしのお金で資料の本を集めていました。そこへ小田仁二郎が現れて、私の下宿の部屋に来るなり、みかん箱をつみ重ねた本棚の写楽の資料に目をとめ、貸してくれと、すっかり家に持って帰りました。

 そして生まれたのが小田仁二郎の「写楽」です。

「触手」という前衛的な小説で、世に認められた小田仁二郎は、その後、人々の期待にそうような作品は書けずにくすぶっていました。新潮社の名物編集長の齋藤十一氏が、私たちの同人誌に書かれた「写楽」に目をつけ、全く仕事のなかった小田仁二郎に仕事を与えました。

 それが何とまあ、週刊新潮の連載小説で時代物という条件でした。断るだろうと私は思っていましたが、彼はそれを引き受けました。一人娘が、大学へ行く年頃になっていたのです。それまで無収入の彼の家庭は、夫人のミシンの内職で、どうにかつないできていました。

 週刊誌の小説の原稿料は、想像を絶する莫大(ばくだい)なものでした。

 一度その路(みち)を歩きだせば、帰ることができません。

 およそ性に合わない時代物小説に連日うなされながら、彼の地獄の日がつづきました。

 私に小説を書くすべを教えてくれた恩人の彼との仲を破ったのは私でした。

 彼に逢(あ)わなければ、私は小説家になれていなかったと思います。

 彼の娘は父と同じ大学を出て、雑誌社に勤め、有能な記者になりました。私の連載エッセイの記事を毎月取りに来るようになりました。

 彼とわかれたあとも、彼女は表情を変えず、私の原稿を取り続けに来ていました。

 彼は舌ガンで死にました。一切の本や原稿は、いつの間にかすべて焼き捨てられていたそうです。

 ヨコオさん、今日は思いかけない話になりましたね。

では、また。

※週刊朝日  2020年9月25日号

このニュースに関するつぶやき

  • さっさと逝けよ!糞生臭左翼坊主!お前の講釈など左翼以外の誰が聞くか!。
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  • さっさと死ね、欲ボケ反日ババァ。
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