認知症になった52歳の父、東日本大震災で避難所生活に――「でも父は、逆に生き生きとしていた」

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2020年09月20日 21:12  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

 “「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)。そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 三井麻美さん(仮名・31)は高校生のときに、まだ52歳だった父、義徳さん(仮名)が若年性アルツハイマー病と診断された。おかしな言動が多かったので、家族は「やはり」と思う気持ちもあった。

(前回はこちら:52歳の父が若年性アルツハイマーに……「まともな会話もできない」「無表情で無言」娘の感じた異変

元気だったので、デイサービスを断られた

 若年性アルツハイマー病と診断されて、義徳さんは仕事を辞めたが、三井さん家族の生活は大きく変わることはなかった。というのも、義徳さんは介護サービスを受けることもなく、毎日自宅で過ごしていたのだ。

「高校卒業後、私は就職し、母も兄も仕事に行っていたので、日中父は一人になります。デイサービスに見学には行ったのですが、体は元気で自由に動けるため、断られてしまいました。保健師さんに、障害者が働く農業関連の施設の見学を勧められて行ってみましたが、興味が持てなかったのか、帰りたがったようです」

 仕方なく、営業職だった典子さんが外回りのついでに自宅に寄って、義徳さんの様子をみていた。

 義徳さんが病気になって変わったことがあるとすれば、家族で出かけることが増えたことだと麻美さんはいう。

「父はとにかくラーメンが大好きで、毎日お昼には自転車でラーメン屋さんを巡っていました。家族誰かが休みの日には、一緒にラーメンを食べに行こうと誘われました。私は平日休み、母と兄は土日休みだったので、手分けして連れて行きましたね。私は内心、面倒だなと思いつつも、父は病気だし、普段は一緒にいてあげられないから、と自分に言い聞かせていました」

 というわけで、義徳さんとの思い出も、その頃たくさんできた。

「一番の思い出は、家族全員で温泉旅行に行ったことですかね。父はお風呂が好きだったので、楽しんでいたと思います。小さなぬいぐるみを持って歩いていて、温泉にもぬいぐるみを持って行こうとして、兄がダメだと怒ったと話していました」

 これが最後の家族旅行になった、と麻美さんはつぶやいた。

 在宅介護中、自然災害にも遭遇した。東日本大震災だ。

 麻美さんの家は、津波被害は受けなかったものの、原発事故により体育館に避難することになったのだ。認知症の義徳さんを連れての避難生活は、周囲に気を使うし、家族の心労も大きかったのではないだろうか――。ところが意外なことに、そうでもなかったという答えが返ってきた。

「父は、体育館内をウロウロと歩きまわっていましたが、特に周りに迷惑をかけることもなく、普段どおりおとなしかったですね。それどころか、逆に活躍してくれました。というのも、炊き出しの数時間前から並んでくれて、いつも一番に家族分のおにぎりやパンをもらってきてくれたんです。おそらく、家族のために並ぶというのではなく、無料で何かをもらえるということがうれしかったんだと思います。ほかにも、ボランティアの人にもらったぬいぐるみを上着に入れて持ち歩いていて、体育館では変なおじさんになっていたかもしれません(笑)」

 体育館での避難生活は1カ月に及んだ。慣れてきたころには、貸し出されていた自転車で毎日、朝から夕方まで出かけていたという。

「お風呂には週に数回しか入れなかったので、近くの温泉に行っていたんだと思います。1カ月で帰宅できたとはいえ、夜は眠れないし、ずっと咳は出るし、食べ物は3食白いご飯のおにぎりか菓子パンだったので、避難所生活は私たちにはつらいものでした。でも父は、逆に生き生きと動き回っていた気がします」

 生き生きとしていた父――想像すると、少し救われた気がした。

――続きは9月27日公開

 

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