ジダンの特異性とトルシエジャパン惨敗。欧州スポーツの聖地で見た事件

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2020年09月22日 11:41  webスポルティーバ

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スタッド・ドゥ・フランス(サンドニ)

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 パリの主要駅のひとつである北駅から、RERという停車駅の少ない急行のような鉄道でひとつ目。地上から20メートルほど高い位置に設置されたスタジアム駅(ラ・プレーヌ・スタッド・ドゥ・フランス)のプラットホームに到着すると、スタッド・ドゥ・フランスの外観がハッキリと目に飛び込んでくる。

 ロンドンのウェンブリー・パーク駅に降り立った瞬間と似ている。ウェンブリーはそこから500〜600メートル歩くと到着するが、スタッド・ドゥ・フランスはそれより少し遠い、1キロ弱の道のりだ。スタジアムを仰ぎ見ながら歩を進めると、観戦気分はいやが上にも盛り上がる。

 最初に訪れたのはフランス対スペイン。1998年1月28日に行なわれた、こけら落としのイベントだった。




 パリの冬は寒い。緯度は樺太とほぼ同じだ。試合開始時刻である20時50分の気温は、氷点下の世界だった。隣で観戦していた痩せ型のライターは、居ても立ってもいられないという感じで、試合中、身体をずっと揺らしていた。同行カメラマンに至っては発熱。ホテルで寝込んでしまった。筆者の肉厚な小太り体型の利点を身をもって実感した一戦だった。

 当時のフランスは、スペインがそうであったように、代表チームを熱烈に応援する習慣がなかった。この半年前にフランス各地で行なわれたプレW杯(トルノワ・ドゥ・フランス)の際には、ブラジル戦でもスタンドは埋まらなかった。15分に一度程度、湧き起こる「アレー・アレー・ブルー」の合唱にしても、威圧感に欠けることおびただしかった。

 1998年6月10日に開幕したフランスW杯期間中も、当初は盛り上がっていなかった。たとえば、筆者が1カ月間投宿したパリのプチホテルのご主人は、フランス戦当日になると、必ず「今日は負ける」と言い出す。勝てば勝ったで「退屈な試合だった」とか「相手が弱すぎた」とか、皮肉的な言葉を吐いた。理由を尋ねれば「フランス人だからさ」と言って笑った。

 パリっ子の様子が変わってきたのは準々決勝(イタリア戦)あたりからだ。フランスが勝利すると、夜の街は上気した若者たちで溢れるようになった。ホテルのご主人はそれでも態度を頑なに変えなかったが、ブラジルと戦うことになった決勝戦の当日だけは違った。これからスタッド・ドゥ・フランスに向かおうとする筆者に、懇願するような目でこう言った。

「今日だけは勝たせてくれ」

 スタッド・ドゥ・フランスは、フランスW杯の18年後にもユーロ2016というビッグイベントを開催している。W杯とユーロの決勝を、両方開催したスタジアムといえば、ウェンブリー(1966年W杯と1996年欧州選手権)と、ミュンヘン五輪スタジアム(1974年W杯と1988年欧州選手権)も該当する。しかし、前者はその後、新スタジアムにリニューアルされ、後者は現在、サッカースタジアムとしての機能を果たしていない。

 一方、スタッド・ドゥ・フランスは、チャンピオンズリーグ(CL)決勝も2度開催している。1999−00シーズンのレアル・マドリード対バレンシア、2005−06シーズンのバルセロナ対アーセナルだ。

 さらに2003年には世界陸上を開催。また2023年には、2007年に続き、ラグビーW杯決勝の舞台になることが決まっている。そして、2024年パリ五輪だ。1998年の開場以来26年間に、W杯、CL決勝、世界陸上、ラグビーW杯、ユーロ、五輪と、世界のスポーツ界6大イベントのメイン会場を任されたスタジアムは他にない。スタッド・ドゥ・フランスは現代におけるスポーツの聖地として存分に機能している。

 サッカー、ラグビーと陸上を共に開催できるのは、スタンドが可動式だからだ。サッカーやラグビーで使用する時に存在するスタンドの1階部分は、陸上競技で使用される時は格納され、そこがトラックとして使用される。東京の(新)国立競技場は、なぜこの方式を見習わなかったのか。東洋のスタッド・ドゥ・フランスを目指してほしかった。

 それはともかく、筆者は1度、このスタジアムでなんとも言えぬ体験をしている。2001年10月6日。それは、トルシエジャパンがサウサンプトンでナイジェリアと親善試合を行なった前日に起きた出来事だった。

 フランス対アルジェリア。いつもの通り、スタッド・ドゥ・フランスの報道受付に向かえば「あなたの取材申請は受け取っていないので、今日は入場できません」と、係員は冷たく言い放ってきた。こちらが、そんなはずはないと抗議すると、面倒くさそうに「だったらこれで見て下さい」と、一般席のチケットをさし出した。せわしなく、心ここにあらずといった対応だった。

 なんか変だな。この違和感は一般席に着くと一段と深まった。スタジアムは普通ではない異様な空気に包まれていた。アルジェリアが1962年にフランスから独立して以来、初めて行なわれる対戦だという事実は知っていた。しかし、それが具体的にどんな意味を持っているのかまでは心得ていなかった。

 フランスホームなのに客席にブルーが少ない。スタンドはアルジェリアのグリーンによって8割方占められていた。試合前、フランス国歌が流れると、スタンドは大ブーイングに包まれた。

 フランスに暮らすアルジェリア人、あるいはアルジェリア系フランス人すべてがスタッド・ドゥ・フランスに大集合したという感じだった。フランス代表のレプリカユニフォームを着ている人もアルジェリア系だった。そのほとんどが、ジネディーヌ・ジダンのユニフォームを着ていたからだ。グリーンを身に纏っているファンも、インナーにたいていがジダンのフランス代表のユニフォーム、またはレアル・マドリード(当時ジダンが所属していた)のユニフォームを、まさに隠すように着ていた。フランス代表のエースであるジダンは、同時にアルジェリア系の人たちにとっての英雄でもあるのだ。

 試合は後半30分過ぎた段階で4−1と、フランスが実力の違いを見せつけていた。ジダンもすでにベンチに引っ込んでいた。アルジェリア系の女性が、アルジェリア国旗を掲げピッチに乱入したのはこのタイミングだった。係員はその侵入を制止できたはずなのに止めなかった。係員にもアルジェリア系が多くいたものと考えられる。

 すると、スタンドからピッチに観衆が次々に乱入。その数は気がつけば何百人、何千人に達していた。スタジアム全体が無法地帯と化していた。

 試合はそこで打ち切りになった。これまで様々な試合を見てきたが、このフランス対アルジェリア戦は忘れられない一戦となっている。その背景に潜むテーマの重さ、複雑さ、さらにはジダンという選手の特殊性を垣間見た気がした。

 そのジダン率いるフランス代表と日本代表(トルシエジャパン)はその半年前、スタッド・ドゥ・フランスで対戦していた。

 結果は0−5。ラグビーにたとえれば100点差負けと言ってもいい大敗だった。フランスはそれでも手を抜いていた。5点目を奪った(後半23分)直後だった。フランスの7番、ロベール・ピレスが自軍ベンチ前でボールを受け、前に進もうとした瞬間だった。ベンチの誰かがピレスの背後から指示を出した。

「もう点を取りに行くのは止めておけ」。指示の中身はたぶんそうだったに違いない。なぜなら、前に進む気満々だったピレスが、突然、方向転換し、後方で構えるバックラインに向けて、パスを戻したからだ。

「国際試合で5−0以上のスコアで勝つことは、親善試合のコンセプトから逸脱した愚行。マナー違反だから」と、馴染みのフランス人記者は言った。

 スタッド・ドゥ・フランスで日本がフランスと対戦した2度目は、ザックジャパンの時代。2014年10月12日だった。結果は1−0で日本。だがザッケローニは親善試合であるにもかかわらず、メンバーを3人しか変えなかった。6人という交代枠をフルに活用したフランス代表のディディエ・デシャン監督とは大きく異なっていた。

 スタッド・ドゥ・フランスで学んだことは数知れず。いい思い出が詰まったスタジアムと言いたくなる。

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  • 大敗した試合は覚えている。ピッチが最悪な状態で日本の選手は皆転けてた。中田以外。 フランスの選手は余裕顔。 この時点で負けてた。
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