野村克也の打撃に門田博光は一目惚れした「ほんまもんのプロの打球や」

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2020年09月24日 11:21  webスポルティーバ

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ホームランに憑かれた男〜孤高の奇才・門田博光伝
第3回

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 春季キャンプが進む一方で、新型コロナウイルスが静かに広がり始めた2月、野村克也の訃報が流れた。すぐに門田博光のもとへ連絡を入れたが、通院中だったため、翌日会ってゆっくり話を聞くことになった。

「ベッドでうとうとしながらテレビを見とったらピンポンピンポン(速報の通知音)鳴るからなにかいなと思ったらノムさんのことやった。少し前にカネさん(金田正一)が亡くなって、今度はノムさん。ああいう人たちは"永遠の命"というイメージがあったけど、これが現実。オレももうすぐというこっちゃ」




 持参したスポーツ紙は追悼のコメントで埋まり、なかには3番・門田、4番・野村が1枚に収まった当時の写真を添えた記事もあった。

「昨日、オレのところに連絡が来たのはここ(日刊スポーツ)だけや。最近は山にこもっとるから誰も連絡先を知らんのや。それにしても、おっさん(野村克也)は弟子もようけおって大したもんやな。ミスター(長嶋茂雄)がひまわりで自分は月見草やと言うてたけど、東京行ってからはおっさんもひまわりや。講演ブームで生き返って、しゃべるうちに理論が広まって、信者も増えた。ヤクルトの監督になってからは完全にひまわり。それに比べて関西の山奥に引っ込んでるオレは......ノアザミやな(笑)」

 門田の打撃論も波に乗って広がれば......。

「20年遅いわ。少し前までは『家康待っとけ、家康待っとけ』と思うとったんやけどな。わからんか? 家康は60歳で天下取りしとるやろ。家康から遅れて3年、5年、10年......。『オレもなんかないか』と思う時もあったけど、もう家康にはなれんわ」

 門田が野村を語る時の名称は「ノムさん」「おっさん」「19番」「あの人」の4つ。会話のなかで呼び名が変わるように、野村への感情もその時々で変わってきた。

 門田が南海へ入団した1970年、野村がプレーイングマネージャーとなり、ここからふたりの物語が始まった。

「もう50年か......わしらが見てきたのは東京に行ってからの柔らかいノムさんやなくて、もっとダイレクトに喜怒哀楽を出してた頃の激しいノムさん。あの当時を一番知っていて、あの人に一番厳しくされたのはオレやろうな。あの人はピッチャーには優しくて野手にはきつかったんやけど、オレにはとくにや。

 ほかの選手ならしょぼくれるのに、オレは反論するから余計に理論で封じ込めにくる。23、24歳の若手があれだけ実績のある、まして監督に反論するなんて普通では考えられん。オレもよう言ったなと思うけど、ようやり込められたわ(笑)」

 ある時、野村が門田にボソッとこう言ったという。「○○におまえと同じように言ったら潰れる。飴をぶらつかせて働かせるのも大変なんや。わかるやろ?」と。

「『わかりますよ』と言うたらニヤッとしとったけど、そういう会話もできたんや。オレに飴は必要ないと思われたんやろうけど、今になってみたら面白い時代やった。"鶴岡丸(鶴岡一人監督)"の余韻が残っているなか、新しく"野村丸"をつくり上げていこうという時期。厳しかったけど、オレら選手の話も聞いて自分の知識力を上げていこうというところもあった。

 オレが南海に入ったのは22歳で向こうは34歳で監督。こっちもリーダーに臆することなく入っていく性格やったし、ノムさんも駆け引きなしでしゃべってきた。ようぶつかったけど、長男と末っ子みたいな感覚の面白さがあったわ」

 振り返って門田が自身の打撃を語る時、もっとも多く名前の挙がる打者は圧倒的に野村だ。「この世界で生きていく」と、覚悟を決めた門田がまず出会ったのがその5年前に戦後初の三冠王に輝いた野村だったのだ。

「入団が決まって、所属事務所に行ったらえらい恰幅のええ人がおって近くの人に聞いたら『野村監督や』と。それまで顔も知らんかったけど、あの時目にした胸板の厚さが強烈やった。『プロには(ホームラン)5本には5本の、20本は20本の、40本には40本の胸板の厚さがあるんかと知ったんや』

 さらに春季キャンプで、初めて打撃練習を見た時の衝撃は今でも鮮明に残っている。

「ショートの頭を越えてそのままフェンスも越えていくライナーがとにかく強烈。これが『ほんまもんのプロの打球や』と一目惚れしたんや」

 門田が現役時代にこだわった「お客さんをうならせるプロの打球」----トップモデルは野村の弾道だった。

 年齢はちょうどひと回り違いで、血液型も同じB型。

「だから、なんか似てるところがあるんや。パッと言えばパッと返してくるサッチー(野村沙知代)みたいなタイプが好きやというのもようわかる」

 そう言って笑ったが、相手が言わんとすることもわかるだけに、何度も衝突を繰り返した。

「そんな下から振ってどうするんや! 何回言うたらわかるんや!」
「そこまで振らんでも飛んでいくと言うとるやろ!」

 打席での門田は相手だけではなく、ネクストの声とも戦わなければならなかった。野村にしてみれば、尻もちをつくほどの空振りを繰り返し見せられては、なにか言わずにはいられなかったのだろう。

 テーブル上でスポーツ紙をめくると野村の現役時代のバッティングフォームの連続写真が載っていた。門田はそこへ視線を落としながら、「そもそも違うんや」と解説を始めた。

「あの人の打ち方は、今で言うたら西武の中村(剛也)と同じ。極端に言えば、体重移動は20〜30センチで、きれいな二等辺三角形をつくって相手のボールの力を利用して、ええポイントで打ったら飛ぶという理論。だからオレみたいに大きく足を上げて、ステップも広いスイングを見せられたら気持ち悪うてしゃあなかったやろう。『オレは上背がないからきれいに打っても飛ばんのです』と言っても、三冠王の理論で封じ込めにきよる。『うどんの食べ方も、山の登り方もいろいろあるじゃないですか』と何回言うてもあかんかった」

 1970年の入団から8年、野村のもとでプレーしたが、門田の記憶によれば5年目あたりから風当たりは弱まったという。門田がホームランアーチストとして本格化するのはまだ先のこと。打線の軸として成長するなかで扱いも変わっていったのかと思ったが、門田はまったく別の理由を挙げた。

「たしか4年目が終わったオフにノムさんの住んでいたマンションに選手が奥さん同伴で集まったんや。決起集会みたいなもんやったけど、そこで初めてサッチーと話して、それが関係したんやないかな」

 部屋に入ると、まだ野村と結婚前ながら公然の中であった沙知代が「カレーあるけど食べる?」と聞いてきた。門田は「誰がつくったんですか? コックがつくったなら美味しいのはわかっているのでいりません。でも、あなたのつくったカレーならいただきます」と返した。すると沙知代は「こんなええ子がパパとケンカするの?」と言ったとか......。

 門田はこのやり取りに「自分がどのくらいの男か計られて、結果、お墨付きをもらった気がした」と振り返った。

◆野村克也が仕掛けた「インハイの幻影」。イチローを封じた配球の真髄>>

 門田特有の感性による推測だが、そこまで想像させる空気感が日常的に野村側にもあったのだ。門田が打点王を獲った2年目のオフ、野球選手をゲストに招くテレビ番組でこんなことがあった。

「王(貞治)さんを育てた荒川博 さんとふたりで呼ばれたんやけど、荒川さんが『私の指導ならいつでも30本くらいは打たせますよ』と言うたのをオレは表情を変えんと聞いとった。そしたら、その番組をノムさんが見ていたらしく、ある練習の時に『おまえもええとこあるやないか』と言ってくるからなんのことかと思ったら、そのテレビのことやった。

 つまり、あそこでオレが愛想笑いのひとつでもして頷いていたら、『こいつも大した男やないな』でアウトやったわけや。ところが、そうせんかったからセーフ。あの時はあらためて怖い世界やと思ったわ。そこまでオレらはいつもタキシードを着とかなあかんのか、パンツ一丁にはなれんのかと思い知らされたんや」

 ふたりの繊細さと思考力溢れるエピソード。だからこそ、怪物揃いの世界でともにその名を深く刻むことができたのだろう。

 門田が野村と最後に会ったのは昨年6月。東京で学生野球資格回復の講習会を受けた時だ。東京ドーム内の野球博物館で集合し、杉下茂、福本豊、堀内恒夫らとの写真撮影後、車いすに乗って移動する野村に門田が声をかけた。

「元気づけようと思って『そんなん乗ってたらあきませんよ』と言うたんやけど、いつもみたいに反論してこんかった。ただ、ちょっと元気ないなとは思ったけど、そのあともテレビで見かけていたから、まだしばらくは......と思ってたんやけどな」

"ID野球"で花開く前の野村と、稀代のホームランアーチストとして輝く前の門田がもがきながら大阪で過ごした8年。振り返れば、門田は前年に阪急ブレーブスからの指名を断っての南海入りだった。

 もし南海に入っていなければ......とは、つまりはもし野村克也と出会っていなければ......と同意である。

「まったく違う野球人生になっていたのは間違いない。というか、おそらくすぐクビになって辞めとったやろうな。170センチの72キロ、誰が見てもわかるような一段上の力を持っていたわけでもないし、性格も周りからしたら変わり者。そんな人間が頂点を極めるまでいけたというのは、南海でノムさんやったからや。まあ、そういうことになるんやろうな。鬱になるぐらいしんどかったけど、一番思い出すのはあの頃のころ。ほんまに、まあ、よう鍛えてもろうたわ」

つづく

(=敬称略)

プロフィール
門田博光(かどた・ひろみつ)/1948年2月26日生まれ。天理高からクラレ岡山を経て、1970年にドラフト2位で南海に入団。2年目の71年に打点王を獲得。79年のキャンプでアキレス腱を断裂するも、翌年に復帰。81年には44本塁打を放ち、初の本塁打王に輝く。40歳の88年に本塁打王、打点王の二冠を獲得。その後、89年にオリックス、91年にダイエーでプレーし、92年限りで現役を引退。2006年に野球殿堂入りを果たした。通算成績は2571試合、2566安打、567本塁打、1678打点。

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