55年前「浅草」を都電が独り占め? 古くは開通日に関東大震災が発生したことも…

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2020年09月26日 07:05  AERA dot.

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写真日曜日の早朝、ヘッドライトを灯して吾妻橋を渡る30系統寺島町二丁目行き。橋上の自動車は皆無で、都電の独断場だった。方向幕は向島寺島二を表示していた。浅草〜本所吾妻橋(撮影/諸河久:1965年2月14日)
日曜日の早朝、ヘッドライトを灯して吾妻橋を渡る30系統寺島町二丁目行き。橋上の自動車は皆無で、都電の独断場だった。方向幕は向島寺島二を表示していた。浅草〜本所吾妻橋(撮影/諸河久:1965年2月14日)
 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は吾妻橋と浅草の街を走る都電の話題だ。

【55年が経過した今は激変? 現在の浅草・吾妻橋や半世紀前の貴重な写真はこちら】

*  *  *
 浅草でこんなに静かな時期が続いたのは、もちろん記憶にない。

 観光都市・東京のシンボリックな存在だった浅草は、コロナの影響でひっそりと静まりかえった。ようやく人は戻りつつあるが、それでも近年の観光客から考えればかなり少ない。心なしか、隅田川も静かに流れているような気がする。

 江戸期の1774年、その隅田川に “最後の橋”として架橋されたのが「吾妻橋」で、隅田川の別名「大川」にちなんで大川橋と呼ばれていた。明治期の1887年、それまでの木橋に替り、墨田川最初の鉄橋としてスチールプラットトラス構造の「吾妻橋」が新たに架けられた。

 吾妻橋に東京市電が走るのは、大正期を待たなければならなかった。しかも前述のトラス橋は幅員が狭かったために、隅田川の上流側に敷設された専用橋を使って運行されていた。

■開通日に大震災に襲われた吾妻橋線

 市民待望の浅草雷門と本所を直通する吾妻橋線の吾妻橋西詰(後年浅草に改称)と吾妻橋東詰(後年廃止)が開通したのは、1923年9月1日だった。

 ご存知のように、この日の11時58分に関東大震災が発生した。

 吾妻橋線はたった半日で不通に。運転が再開されたのは翌1924年2月で、再び吾妻橋上流の専用橋で隅田川を渡るようになった。

 冒頭の写真は、1931年に架け替えられた吾妻橋を渡る30系統寺島町二丁目行き(約半年後の1965年9月に東向島三丁目に改称)の都電。日曜日の早朝に撮影したため、車や自転車に邪魔されることなく、吾妻橋を走る都電の独り舞台を記録することができた。

 画面右奥が花川戸に所在する東武鉄道の「浅草駅ビル」で、駅ビルのシンボルである時計塔や浅草松屋百貨店の屋上遊戯物などが写っている。いっぽう、画面左側「ハチブドー酒」の看板を掲げたビルが吾妻橋交差点の角に位置する「神谷ビル本館」で、浅草黄金期からデンキブランで名を馳せた「神谷バー」が盛業している。このシックな建物は1921年に竣工しているから、現在の吾妻橋が竣工する10年前になる勘定だ。

■今は林立するビル群

 記録によると、新たに吾妻橋の架け替えが始まった1929年12月、一つ下流の駒形橋を使って吾妻橋線の迂回運転が実施されている。迂回運転に使われる駒形橋仮線が敷設され、翌1930年12月の吾妻橋竣工まで運転された。

 吾妻橋の竣工時に隅田川を渡った市電は34系統(柳島〜万世橋)で、翌年に25系統(柳島〜須田町)となった。後年になると2系統(三田〜向島)が加わり、1944年に26系統(向島〜須田町)に改編された。戦後は24系統(福神橋〜須田町)と30系統(寺島町二丁目〜須田町)になり、30系統は1969年10月、24系統は1972年11月に廃止された。

 暑かった今年の夏、吾妻橋界隈を撮影したのが次のカットだ。

 旧景にも写る2013年に登録有形文化財に指定された神谷ビル本館と、道路の重なり具合を参考に定点を求めた。旧景の右側に大きく写る浅草駅ビルも隅田川沿いに林立するビル群に圧倒され、僅か右端に建物の一端が顔を覗かせている。ちょうどやって来た草24系統東大島駅行きの都バスを昔の都電に見立てて、シャッターを切った。

■吾妻橋の路面改修工事中、都電は単線運転

 筆者は1964年に始まった吾妻橋路面改修工事の過程で、都電が単線運転を実施した貴重なシーンを記録している。次のカットが単線の仮線で隅田川を渡り、吾妻橋西詰の浅草停留所に到着した30系統上野広小路行きの都電だ。

 浅草停留所は開業時吾妻橋西詰と呼称され、浅草に改称されたのは1944年だった。吾妻橋上の単線区間は、橋の東詰と西詰に写真に見られるようなトロリーコンタクターと信号機を設置して運転保安を計っていた。画面左隅に見られるように、橋板上のコンクリートやアスファルトを全て剥がし、橋梁の躯体も含めた改修工事が施工されていた。ちなみに、橋長150m、幅員20mの吾妻橋は3スパン・スチールソリッドリブタイドアーチ構造で架橋されている。

■浅草駅ビルに昔日の美しさ

 このカットは吾妻橋交差点の南側から撮った浅草駅ビルの近景だ。右側の江戸通り(国道6号線)には1971年3月まで千住線(駒形二丁目〜南千住)が敷設されており、22系統(南千住〜新橋)の都電が走っていた。

 浅草駅ビルは関東初の本格的な百貨店併設のターミナルビルとして1931年に開業している。東武伊勢崎線(現東武スカイツリーライン)がビルの2階の浅草雷門駅(現浅草駅)に乗入れ、地下1階から7階までは松屋浅草支店(現松屋浅草店)という、画期的な駅ビルとして東京の新名所になった。

 東京大空襲で罹災して戦後に復興を重ねてきたが、1974年に施工された改修工事で外壁がカバー材で覆われてしまい、旧景に写る外観が失われてしまった。

 2012年5月、「東京スカイツリー」の竣工にともない、同施設への玄関口にふさわしい駅として、竣工当時のネオ・ルネッサンス様式の外観を再現させるリニューアル工事が完成。フィンガーウインドーが連なる優雅な外壁面と時計塔が復活している。

■トロバスも走った浅草の街

 最後のカットが浅草停留所から千住線をクロスして雷門に向かう24系統須田町行きの都電だ。

 画面右端に浅草雷門と池袋駅を結ぶ104系統のトロリーバスが写っている。その左側が雷門停留所の安全地帯で、吾妻橋を渡って本所方面に向かう24・30系統の到着を待つ乗客で賑わっていた。雷門停留所と吾妻橋交差点を挟んだ東側(画面手前)に位置する浅草停留所とは僅か113mの距離で、都電の短距離停留所区間の一つだ。ちなみに、停留所間隔の最短区間は御茶ノ水線(飯田橋〜秋葉原駅東口)の万世橋〜秋葉原駅西口で80mの停留所距離だった。

 トロバスの奥に遠望されるのが、昔日の十二階「凌雲閣」を彷彿させる「仁丹塔」で、その実態は「東京名物仁丹広告塔」と側面に記された高さ45mの電飾広告塔だった。高層建築が皆無だった昭和期、浅草を代表するランドマークとなったが、使命を終えた1986年に解体されている。

 吾妻橋交差点から都電やトロバスが消えて半世紀。筆者の視界にはコロナ禍の影響で人影もまばらな浅草の街が展開した。早く災厄が過ぎ去り、再び浅草の街に賑わいが戻ることを祈念したい。

■撮影:1965年2月14日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。2019年11月に「モノクロームの軽便鉄道」をイカロス出版から上梓した。

※AERAオンライン限定記事

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