3試合連続サヨナラ本塁打を食らった男。「もう取り憑いちゃったね」

1

2020年09月28日 11:51  webスポルティーバ

  • 限定公開( 1 )

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

webスポルティーバ

写真写真

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第12回 佐藤道郎・後編 (前編から読む>>)

 平成の時代にあっても、どこかセピア色に映っていた「昭和」──。時代は令和に変わり、昭和は遠い昔となりつつある。しかし、そんな今だからこそ、当時の球場を沸かせた個性あふれる選手たちを忘れずにおきたい。

「昭和プロ野球人」の過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズの12人目は、プロ野球「初代セーブ王」の佐藤道郎(さとう みちお)さん。新人王を獲得した初年度からリリーフ、ときには先発とフル回転していた右腕は、なんと自分から「救援投手のタイトル創設」を訴え、その初代の栄誉を勝ち取っていたのだった──。





* * *

 そもそも、セーブがメジャーリーグの公式記録となったのは1969年。条文が整理され、野球規則に載るようになったのは73年。この情報を契機として、「アメリカではもうタイトルがあるじゃないか」と選手間で言われ始め、翌74年の導入につながったと推察できる。

「うん、それはそうだったね。あとは当時、リリーフだけの防御率1位ってのを作ってくれ、っていう願望もあったんですよ。かたや先発で200何イニング投げてて、こっちは130イニング。あの頃は130試合制だから、130投げたら防御率のタイトル獲れた。だけど、200何イニング投げてる人と自分が争うのもおかしいな、っていう気があって」

 セーブと防御率の同時受賞は当然、前例がなく、記録とタイトルを巡って戸惑いがあったのも仕方ないと思う。が、そこでリリーフ独自の防御率1位を提案するあたり、セーブ制度を望んだ佐藤さんならでは、という気がする。

「ただ、その74年は13セーブですよ。当初はね、セーブ付くの1イニングで2点だったから。今は3点だけどね。だから、3点差で行くと『ただ働き』って言ってたぐらいだからね。何もないなって。まあでも、今の抑えは9回、1イニング限定だもんね」

 タバコに火をつけ、軽く腕を組みつつ、声のトーンを下げて言った。当時の抑えは7回、8回から、それも走者がいる場面での登板がほとんどだった。「1イニング限定」を簡単に認めたくない、という気持ちがあるのかもしれない。

「あの頃、いつもランナーいるから、セットが当たり前。だから『ワインドアップで投げさせてくださいよ』って言いに行ったこともあるよ。イニングの先頭から投げたいということで。でも滅多にないんだよね。

 出番があるときはまずランナーがいて、出番がないときはボロ負けか完投でしょ? ここで打たれりゃ、オレ、出番あんのにな、とか思いながらブルペンで投げてたけどね、えっへっへ。出番がなきゃ、商売になんないですからねえ」

 出番といえば、佐藤さんは完全にリリーフに定着したわけではなかった。75年は先発起用があって、完投も3試合。翌76年にはまたもやリーグ最多登板を果たすと、2回目のセーブ王のタイトルを獲得する。

 ところが、同年に阪神から移籍した江夏豊の存在によって、翌77年の佐藤さんは先発に回ることになる。野村克也監督の方針で江夏が抑えになるわけだが、このとき、江夏には、『佐藤ミチが築いた分野を荒らすことになる』という気遣いもあったようだ。

「うん。まあでも、江夏は本当は先発したかったんだよね。それが体調の問題で、長いイニングは無理って考えが野村さんにあったんじゃないかな。それで野村さんに呼ばれて、『ミチ、おまえ、先発やりたかったよな? 言ってたよな?』『はい』って。で、『江夏を抑えにするから』っていうんで、オレは先発になった」

 なんともあっさりとした物言いだった。セーブ制度の導入を望んだ半面、「抑えの切り札」への強いこだわりはなく、じつは先発を望んでいたとは。

「今と違ってね、まだ先発のほうが給料よかったこともあった。また南海という球団はケチだったし。ましてオレの場合、最初からリリーフだから、給料、全然上がってない。タイトル獲ると上がるんだけど、オレ、1年置きだから上がって下がって上がって下がってだもん。ははっ。そうでしょ? 1年置きだよね?」

 佐藤さんはそう言うと、おもむろに僕の取材メモを手に取り、視線を落とした。A4の用紙2枚にプリントしたメモには各年の記録に加えてエピソード、質問事項を記してある。しばらく空調の音だけが聞こえていた。

「73年に優勝したんだっけ? 確かこの73年ね、オレ、3試合連続サヨナラホームラン打たれてんだけど、後半で4連勝してんだよね」

 沈黙が破られ、最も聞きたいけれど最も切り出しにくい話が、ご当人の口から出てきた。僕はとっさに、長池徳士さんに会って聞いた3本目のサヨナラホームランの話を持ち出した。唯一、右方向を狙って打った1本、ということを伝えると、佐藤さんは目を見開いた。

「狙ってたって言ってたあ? 違うよ、あっち向いてホイだったんだから。顔はレフト向いて、ライトポールに当たってんだからね。今でも憶えてるけど、ファウルと思ったヤツが当たっちゃったんだから」

 途端に勢いづいた口調。悔しさがありありと出ているように思う。

「ロッテ戦の1本目だってね、ツーアウトから右中間にフライが上がって、イージーフライ。よし、終わり、と思ってマウンドを降りていくとき、ワーッていうから何かな? と思えば、お見合いして二塁打になったの。

 それでカーッとなったら野村さんが来て、『ツーアウトだから、ミチ、な?』って言ってくれたんだけど、次、フォアボール。で、代打の榊(親一)さんに逆転サヨナラ3ラン。ナニあんなとこでお見合いしてんだと思ってさあ。マウンドに来た野村さんと握手しようと思ってたんだよ、こっちは」

 笑ってはいけない、と思いつつ、笑ってしまう。が、それはあくまで佐藤さんの話し方の面白さによるもので、中身は笑えない。やはり、記録に表れない守りのミスと四球は怖いと思う。さらに、1日置いて、今度は阪急戦、福本豊に打たれることになる。

「そうそうそう。あのときはノースリーになったから、もうフォアボールもヒットも一緒だと思って、ホームランなんて頭にないから。で、投げたら、カーンって。それでまたこいつが腹立つのはね、次の日に新聞で見た談話が、『プロ入ってノースリーから打ったの初めて』。うるせーや! って。あっはっはっは」

 思い切りの爆笑だった。僕も一気に吹き出してしまった。それにしても、福本に2本目を打たれたあと、さすがに意気消沈したのではないだろうか。

「いやもう全然。また行く気でいたよ。当然、切り替えなきゃ。野村さんには『お前、二度あることは三度あるから、まあ気にすんな!』って言われて。談話もね、『ミチで打たれりゃしょうがない』と。

 で、行ったら、延長でしょ? それでオレの出番があって成立しちゃったんだけど、運が悪かったのか、よかったのか......。ま、3試合連続なんて絵に描いたようだよね。だからギネスブックに申請しようかなって思ってるんだ。ふふっ」

 笑いの渦のなかで強く印象に残る野村監督の言葉。だが、3試合連続のあとは......。

「4試合目の前、野村さんのとこに行った。そしたら『ミチ、行けるか?』って言うわけね。オレ、『行ける』って言っちゃおうかなと思ったけど、さすがに『今日、投げたくないです』って言ったよ。だって、申し訳ないからね、チームに。そしたら結局、出番あるようなゲーム展開にならなくてね」

 2試合目のあとの「ミチで打たれりゃしょうがない」よりも、3試合目のあとの「行けるか?」のほうがずしりと心に響く。そして佐藤さん自身、結果的に出番がなかっただけで、野村監督からの打診を受けて、それでも内心はマウンドに上がろうとしていた。

 1973年の南海というチームにおいては、監督兼捕手と抑え投手との強い信頼関係が築かれていた。だからこそ翌74年、リリーフ専任の[初代セーブ王]が誕生し、のちの投手分業制の確立につながったのだと思える。

「1試合目はお見合いでしょ? 福本は初めてノースリーから打ったっていうじゃない? で、レフトしか飛ばない長池さんがライトポールだから。なんかもう、取り憑いちゃったね、あんときは。どれも信じられないことだもんなあ......。

 でもね、これがあったから、引退してコーチ稼業になったあと、サヨナラヒット打たれた奴に『ナニしょぼくれてんだあ、オレは3試合連続だよ』って言えた。まだ1試合だ、くよくよすんなって。それで少しは気が楽になったと思うんだよね」




 79年に横浜大洋(現・DeNA)に移籍後、右肩故障もあって80年に引退した佐藤さんは実働11年で通算500試合登板。太く短い投手人生だったが、84年、稲尾和久監督に請われてロッテの投手コーチに就任する。

 その後も中日、近鉄でコーチ、2004年からは3年間、中日の二軍監督を務めた。指導者としてのモットーを尋ねると、「一を大事にしろ。これを選手に伝えたね」という答えが返ってきた。

「バッターは初球から、甘い球がくるときに備えて心の準備、体の準備しなきゃいけないから『一スイング』。走るんでも『一歩目』が大事。そして、ピッチャーも初球、先頭打者の『一』を大事にしようぜと。

 これは自分も現役のときに心がけてた。ピッチャーやる以上は、勝ちたいんだったら先頭打者。それがフォアボールだと、守ってるほうもリズムが悪くなる。だから、先頭打者と相対するときに、ワンアウト満塁、ノーアウト満塁をイメージしろと」

 無死走者なしで、あえてピンチの状況をイメージする。これは過去に聞いたことがない意識の持ち方だ。

「満塁だったら、必死になってアウトを取りに行くでしょ? ということは、フォークピッチャーならば5球も6球も投げていいから、何せアウトを取れと。キャッチャーも、とりあえずココに真っすぐとか、とりあえずってのがよくない。先頭打者をきっちり取るピッチャー、オレにはたくましく見えるね」

「一」を大事にして二度のファーム日本一を達成した中日二軍監督時代、コーチ時代の思い出が長く語られたあと、手にしたままの僕の取材メモに再び視線が落とされていた。

「長池さんで思い出したけど、あの人はバッターボックスで肩にアゴを乗っけるでしょ? それがね、ずーっとセットポジションで制止してると、そういう姿勢は苦しいでしょ? アゴを外したときに投げるの。要は、牽制するかしないかのように見せかけて、長池さんがアゴを外さないかなって、ずーっと見てる。外せ、外せって。外して投げたらタイミング合わないんだよ」

 セットポジションのとき、じつは走者よりも打者を見て、タイミングを計るという駆け引き。佐藤さんは天井を見上げてから言った。

「そうだ、牽制っていえば、あのすごいランナーの福本が、『佐藤がいちばん走りづらかった』って言ってくれて。NHKの番組でね」

 その番組とは、73年のパ・リーグ優勝を決めるプレーオフを特集したものだった。同年から前期後期制が始まり、前期優勝の南海と後期優勝の阪急がぶつかり、3勝2敗で南海が勝った。勝因のひとつに南海バッテリーによる福本の盗塁阻止があり、とりわけ、踏み出す足を上げない佐藤さんのクイックモーションが有効だった、と伝えていた。

「すり足のクイックモーションね。あのときは面白かったよね。オレ、ホームに投げてるってのに、福本が一塁ベースに戻るんだから。かっかっか」

 ゆっくりと腰を上げ、佐藤さんはフロアの隅に立ってセットの構えに入った。一瞬にして、そこがマウンドになった。

「クイックはね、速く足を上げりゃクイックだと思ってたの、オレら。でも、速く上げてゆっくり下ろしたら一緒だった。ならばもう上げないほうがいいなと。こうやって、すり足にすりゃいいんだと。それでハマったんだよね。結構、難しいんだけどね、これ」

 前年の72年にはシーズン106盗塁を達成した[世界の盗塁王]福本。この盗塁を阻止すべく、73年、ヘッドコーチのドン・ブレイザーとともに野村監督がクイックモーションを考案、のちに球界全体に浸透した。そのなかで佐藤さんの"すり足"が特に効果的だったのだ。

「毎回、すり足にするわけじゃなくて、上げるときもある。そうするとバッターのほうは構え遅れしてくれる。ランナーとバッター、両方かけ持ちだったのよ。で、クイックはもともとね、野村さんがもう肩、ふやふやだったから。ミーティングで『お前ら、オレの肩弱いの、力落ちたの知ってるだろ? クイック覚えんと損やで』って言われてね。はっはっは」

 佐藤さんは笑いながらマウンドから降り、テーブルに置いてあった取材メモを手に取ると、「これ、もらってもいい?」と言ってカウンターへ向かった。インタビューした方に取材メモを進呈するのは初めてだ──。僕は即座に立ち上がって一礼し、プロ野球の歴史が散りばめられた店内をあらためて見渡した。

 取材後、NHK の番組録画を見直してみた。佐藤さんの"すり足"クイックについて問われた福本が、苦笑交じりながらも怒ったような表情で「スタート切ったら絶対アウトだもん」と語るのが印象的だった。

 通常のクイックとすり足クイックの違いが説明されるとき、佐藤さんのピッチング映像がスローモーションで流れた。二画面同時再生で比較され、"すり足"のほうが格段に速いことがわかった。そして、グラブを突き出す豪快な投球フォームを見ていると、4試合目に「行ける」と言おうとしたのは当然、と思えた。

(2011年7月22日・取材)

    ランキングスポーツ

    前日のランキングへ

    ニュース設定