ヤマハOBキタさんの鈴鹿8耐追想録 1984年(後編):エンジンの非力さが幸いしたハンドリング性能

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2020年10月14日 01:11  AUTOSPORT web

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0U28の外装類を取り外してみると懐かしい空冷フィンが幾重にも付いたヤマハXJ750Eのエンジンが現れてくる。フレーム素材はアルミだが、様式はまだダブルクレードルだった。
レースで誰が勝ったか負けたかは瞬時に分かるこのご時世。でもレースの裏舞台、とりわけ技術的なことは機密性が高く、なかなか伝わってこない……。そんな二輪レースのウラ話やよもやま話を元ヤマハの『キタさん』こと北川成人さんが紹介します。なお、連載は不定期。あしからずご容赦ください。

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 1984年の鈴鹿8耐後に河崎裕之選手に直接聞いた話だが、エンジンの非力さが幸いして表の(編集部注:鈴鹿サーキットのコース前半部分を指す)S字から逆バンクに至るまでのハンドリングはまことに秀逸だったらしい。一度だけフロントタイヤがグリップを失って大きくイン側に切れ込んだ時も、「えいやっ」と膝で路面を押したら何事もなかったように立ち直ったと嬉しそうに話していた。当時フロントタイヤの交換は今ほど頻繁に行われなかったので、交換間近になるとこんな事も普通に起きていたらしい。

 同じような話は0W70('83YZR500)でも聞いた事がある。'83年の開幕戦・南アフリカGPでのこと。高地対策(編集部注:南アの開催地“キャラミ”は標高1500mを超える高地にあったために空気が薄く、特殊なセッティングが必要だった)が後手に回ってエンジン性能がスカスカでライバルのホンダNS500に全く歯が立たない。

 しかしそれが幸いしてスロットルワークに気を遣う必要がなく、コーナリングが自由自在だったという。結果、なんとか表彰台を確保することができたとはケニー・ロバーツ選手の弁。河崎選手も「500もコーナーだけスロットル開かんようにしたらもっと速く走れるんちゃうかな?」と、現在のトラクションコントロールの基本概念に通じるアイデアを語っていたのだが、残念ながら当時は筆者をはじめとして誰も耳を傾ける者がいなかった(汗)。

 これ以外にも、河崎選手にはいろいろと教えられることが多かった。筆者が耐久レーサーの開発の方向性について迷っているとみるやこんな話をしてくれたこともある。

「耐久レーサーだからといってもライディングポジションが楽で疲れないとかっていうのは違うと思うんだよね。速く走れるマシンがライダーにとっては一番楽で疲れないって事だよ」と言われた時にはまさに目からウロコの思いだった。後に8耐が「8時間のスプリントレース」と言われるようになり、GPライダーへの登竜門としてエスカレートしていった事を考えると、まことに慧眼だったと言えるだろう。

 さて8耐決勝では(予想外の)快走を続けたXJ750Rだったが、翌'85年のFZR750同様ゴール直前に息絶えてしまった(編集部注:それでもリザルトは5位入賞。ヤマハ勢トップだった)。原因はクランクシャフトが折れるというあまり前例のないトラブルだったが、なんとこのクランクシャフトには荒加工後に熱処理がされていないという驚愕の事実が隠されていたのだった。

 そもそも市販車のクランクシャフトは鋳造品が多い時代でもあり、強度的にも余裕があるので比較的入手しやすい“S45C”という炭素鋼の「調質材」を設計者は図面指定していた。調質は「ズブ焼き入れ」ともいわれ、素材時にまるごと熱処理されるので内部まで焼きは入らず、クランクシャフトに加工されたときには中央部の軸に該当する部分は「生材」のままという事に気付かなかったお粗末なミスだった。

 そんなトホホな8耐初挑戦だったが悔しさみたいなものはまるでなく、仲間内では「生材でもけっこう行けるもんだねえ」と笑い話で終わった。やはりこの時点では非力なマシンでの「小手調べ」の意識が強く、真剣味が足りなかったと言えるだろう。その後の伝説的な8耐人気の高まりに飲み込まれていくことなど全く想像がつかなかったし、ましてや翌年にも同じようなゴール30分前の劇的(!?)な出来事が待っていようとは誰も知る由もなかったのである。
(1985年の鈴鹿8耐編に続く)

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キタさん:北川成人(きたがわしげと)さん 1953年生まれ。1976年にヤマハ発動機に入社すると、その直後から車体設計のエンジニアとしてYZR500/750開発に携わる。以来、ヤマハのレース畑を歩く。途中1999年からは先進安全自動車開発の部門へ異動するも、2003年にはレース部門に復帰。2005年以降はレースを管掌する技術開発部のトップとして、役職定年を迎える2009年までMotoGPの最前線で指揮を執った。

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