“障害”はエンターテインメントに昇華できるのか? 丸山正樹『刑事何森』の挑戦

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2020年10月17日 11:01  リアルサウンド

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 「障害者を介護することがエンターテインメント小説になるのか!」。これは、9月に刊行された丸山正樹氏の最新刊『刑事何森(いずもり) 孤高の相貌』の「あとがき」に書かれた言葉である。ここで驚きの対象とされているのは、打海文三氏の『時には懺悔を』(角川文庫)。丸山氏はこの「探偵小説」に影響され、「いつかこういう作品を書きたい」と思うようになる。その思いから四半世紀もの歳月が流れ、2011年に作家デビューした丸山氏は、そこからさらに9年を経て、ここに自身の「探偵小説」である『刑事何森 孤高の相貌』を完成させた。


『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』(文春文庫)

 著者は本作に先立ち、「デフ・ヴォイス」シリーズを書き継いできた。デフ(deaf)とは、聴覚障害者のこと。第1作の『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』を皮切りに、第2弾『龍の耳を君に』、第3弾『慟哭は聴こえない』と、タイトルからしてすべて聴覚をめぐるドラマであることが明らかにされている。


 同シリーズは、デフの両親から生まれ、自身は聴こえる子(「コーダ」という)である荒井尚人が主人公。荒井は、ある出来事をきっかけに警察を辞め、手話通訳士になる。その生い立ちと自身の身体機能のため、「聴こえない人」と「聴こえるということ」の両方を知っている稀有の存在である。


 そして同シリーズ中の登場人物であり、人気キャラクターでもある刑事が、本作の主人公・何森稔(いずもりみのる)。また本作では、前述の荒井尚人の妻・荒井みゆきが何森の捜査上の重要なパートナーとして頻出する。みゆきもまた警察関係者なのだ。


 今回の1冊は荒井尚人が主人公ではないがゆえに「デフ・ヴォイス」シリーズの1冊としてはカウントされていない。これまた「あとがき」の表現を借りるなら「いわばスピン・オフ作品」ということになる。しかし以上のような経緯から、作家・丸山正樹氏が近年描き続けている大きな世界像の中の一部であることは間違いない。大きな世界像とは、冒頭に示したように「障害者×エンターテインメント」である。これを小説としてどう構築するか。丸山正樹氏はここに賭けている。


 『刑事何森 孤高の相貌』は3タイトルを収める。短編「二階の死体」「灰色でなく」の2編と、これら短編の3倍近い長さを持つ中編「ロスト」。それぞれ独立した作品で、それだけで完結しているが、3作とも刑事の何森稔が主役を張るのはむろん、その他の登場人物も共通した者が多く、連作短編と呼んで差し支えないだろう。


 「二階の死体」では、障害者の娘と母親の2人暮らしの家に何者かが押し入り、犯行に及ぶ。車椅子利用者の娘は、2階の大きな物音を聞いて恐怖におののくが、自力で2階へ駆け上ることは不可能。そこで、普段から頼りにしているケースワーカーに急いで連絡を取り、警察に通報してもらうが……。


 「灰色でなく」には、虚偽の自白をしてしまう癖のある男が登場する。やってもいない犯罪を自白してしまうのだからこれはあきらかな病理だが、そうした虚偽が通用してしまう背景には、警察の強引な取り調べの実態がある。容疑者は、自ら進んで警察に気に入られることで緊張から解放されようとするのだ。


 「ロスト」を成立させるのは記憶喪失である。無事に務めを終え、出所してきた男は、寡黙だが日常会話は無理なくこなし、思考能力も極めて高く、身を寄せる施設の中でも徹底して品行方正な模範入居者である。ただ彼には過去の記憶だけがない。事故の際の衝撃で記憶を失ってしまったのだ。それは自ら引き起こした犯罪なのだが……。


 3作に共通しているのは、何らかの欠損であり喪失である。皆、なにかが「ない」人ばかりだ。2階へ上がることが「ない」、嘘をついている自覚が「ない」、記憶が「ない」。すべて「ロスト」なのである。


 そして3作目の「ロスト」では、何森稔刑事の「ロスト」が明かされる。彼が失ったものの秘密がとうとう露わになるのだ。それは、それまで追ってきたストーリーとなんと近しいことか。


 警察組織の中では鼻つまみ者であり、ロクな捜査権限も与えられないこの初老の刑事こそ、彼が捕えようとしている者たちの思いを、誰よりも深く理解し得る存在だというその皮肉。刑事も犯罪者も、刑事であり犯罪者である前に生活者であり、生れ落ちてから現在にいたるまで、親と、兄弟姉妹と、子どもと、関わってきたはずである。「ロスト」は、読者の身心の最もやわらかい部分を、ボディブローのように連打してくる。


 もう一度、「あとがき」に戻ろう。著者はサラリと打ち明けている。「自身と愛息のことを克明に描いた打海さんに倣って身近なことに着想を得るとしたら、頚髄損傷という重い障害を抱える家人のことしかなかった」。丸山氏自身に、車椅子の家族がいるのだ。


 日本には「私小説」の伝統があり、不謹慎な表現をすればそこでは「病気」は欠かせないアイテムであり続けた。本作および「デフ・ヴォイス」シリーズを読み、私は考えてしまう。「病気」と「障害」はどう違うのか。


 「病気」とは、いつかはそうではなくなると希望したい仮の状態のことではないか。長い闘病であろうとそれは過渡期であり、いつかは解消したいネガティブな時間だ。「障害」には生まれつきのものと、事故などで後天的になるものとある。治療によって「障害」が無くなることもあるだろうが、多くは固定的なものだと考えられる。「病気」が過渡期であり、ある一つの状態であるなら、「障害」は不動の常態であり、属性に近いものだろう。


 無知なまま恥も顧みず私はこう考えたい。「病気」が「異常」だとすれば、「障害」は「普通」なのだと。むろん、「障害」ゆえに就けない職業はあるだろうし、外出がままならない、常に他人のサポートが必要、などなど、その苦労を、健常者と言われる側が勝手に心配することはある。しかし、どんな人でもできる仕事は限られ、今は新型コロナウイルスで外出もままならず、誰だって1人で生きていくことはできない。


 「病気」が「私小説」と親和的だとして、私は、丸山氏が「障害」の現場の傍らにいて、共にその「普通」を生きる人だからこそ、「エンターテインメント」を選んだと考えている。


 「私小説」はオチを付けない。成り行きのままに流れ、解釈せず、どうにもならないまま終わってしまい、あとは読者に委ねられる。「私小説」の多くは、「病気」を筆頭に、情痴沙汰や借金など、ネガティブな異常事態が長く続き、どうにもならない生の苦しみを得てはじめて執筆される。対して「エンターテインメント」には、最初から何も無い。現実の出来事に刺激されて始まったとしてもそれはゼロからの構築物に近い。ゼロから作り上げたものなのだから自分の責任として、物語のラストにはある種のオチを、オチと言って悪ければ、ケリをつける。そうか、あの人は、実はそういうことだったのか……。「エンターテインメント」は回収する。未解決のままにせず、そこでいったん、はい、おしまい、にする。健康なのだ。


 丸山正樹氏は、「私小説」ではなく「エンターテインメント」のほうに舵を切った。そして本作ではさらにそっちへアクセルを踏み込んでいる。そしてここでの「エンターテインメント」とは、端的に言って推理小説として面白いのか? という問いと答えのことである。3編は、果たして推理小説としてどれほどおもしろいのか。胸を熱くし、涙を誘われることがあって、しかしそれが乾いた時にもなお躍動する面白さが、考えることの楽しさがそこにあるのか。


 私は何度もドキドキした。推理した。その状態を存分に楽しんだ。それはもう、読んで判断してもらう以外にない。


文=北條一浩(@akaifusen


■書籍情報
『刑事何森 孤高の相貌』
著者:丸山正樹
出版社:東京創元社
価格:本体1,800円+税
出版社サイト


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