ドラ1候補なのに指名拒否。杉浦正則と志村亮が会社員の道を選んだ理由

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2020年10月26日 06:32  webスポルティーバ

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【プロ野球選手ではなくサラリーマンになった男】

 今年もドラフト会議が近づき、"10年にひとりの逸材"といった言葉に彩られてドラフト1位候補の名前が挙がる季節が到来した。そんな中で思い出すのは、かつて騒がれながらもプロ野球の指名を拒否した男たちだ。




 筆者が「その後」を追い、『プロ野球を選ばなかった怪物たち』(イースト・プレス)を執筆したのは2年前。「成功間違いなし」と高く評価されながら、プロ野球に進む道を選ばなかったアマチュア選手たちの「決断の理由」に迫った。今回はその取材時のコメントから、2人のスーパーエースを紹介する。

 ひとりは、慶應義塾大学野球部で通算31勝をマークした志村亮だ。

 桐蔭学園(神奈川)で2度甲子園を経験し、大学進学後は1年時から勝利を積み重ねていく。5試合連続完封、53イニング連続無失点といった輝かしい記録を達成するなど、複数球団が獲得を狙う選手になった。

 しかし1988年秋のリーグ戦を締めくくる慶早戦で投球を終えたあと、当時4年生の志村は試合後のキャッチボールをしなかった。「もうこの左腕を使うことはない」と決めていたからだ。志村はこう言う。

「プロ野球に対して悪い印象を持っていたわけではありません。ただ、プロ野球はアマチュアとは違うところだという認識がありました。肉体的な強さも、ピッチャーとしての技術も、バッターとの駆け引きも。プロ野球を仕事として選ぶことができなかった。覚悟のない選手が足を踏み入れちゃいけない世界だと思っていて、そういう意味では思い切ることができなかった」

 プロ野球のチームからの誘いは、4年生の春の時点で断っている。そして志村は、野球部がない三井不動産への就職を選んだ。

「僕の場合、社会人野球でプレーするつもりは初めからありませんでした。大学を出てからも野球を続けるとしたら『プロ野球で』とは思っていましたが、その可能性は5%くらい。最終的な決断を下す段階では迷いはありませんでした。

『通用するかしないかわからないけど、自分の力を試したい』と言って入る世界ではないと思っていました。プロ野球は本当に厳しい世界で、体を壊したり、実力が足りないと判断されたりするとすぐに戦力外通告を受けますから。それでもいいから、一生を捧げるつもりで入るかと考えたら、そうではなかった」

 ユニフォームを脱いだドラフト1位候補は、スーツ姿で通勤電車に揺られるサラリーマンになった。

「いろいろな業種の中から三井不動産という会社を選んだのは、不動産の仕事と、三井不動産が好きだったから。それならば頑張れるはずだし結果も出せるはずだと、前向きなプレッシャーを自分にかけました」

【プロ野球よりもオリンピックを選んだ男】

 もうひとりは、バルセロナ大会からシドニー大会まで、3大会連続でオリンピックに出場した杉浦正則。橋本高校(和歌山)時代は甲子園に出場できなかったものの、名門・同志社大学のエースとして関西学生野球リーグで通算23勝。1990年秋の明治神宮大会では日本一に輝いた。

 大学卒業後は社会人野球の名門・日本生命に進み、チームのエースとして、そして全日本のエースとして投げ続けた。オリンピックに出場する全日本メンバーが完全にアマチュア選手(大学、社会人)で構成されていたのは1996年のアトランタ大会までだが、杉浦はプロ野球の選手が参加するようになった2000年のシドニー五輪で主将を務めた。

 オリンピックかプロ野球か――。第一線で活躍している間、ずっとその去就が注目されたピッチャーだった。それでも「プロでも確実にふたケタは勝てる」と評価された男は、一度もプロのマウンドに立つことなくユニフォームを脱いだ。"ミスターアマチュア野球"と言われたままで。

「どうしてプロ野球に行かなかったんですか?」

 杉浦は、何回この質問を受けただろうか。

 1990年代に、最強を誇ったキューバ打線を相手に真っ向勝負を繰り広げた杉浦の実力を疑う者はいない。同じ1968年生まれの野球人には、野茂英雄(近鉄→ドジャースなど)、長谷川滋利(オリックス→エンゼルスなど)、高津臣吾(ヤクルト→カブスなど。現ヤクルト監督)といった、日本球界とメジャーリーグで活躍したピッチャーがたくさんいる。そんな選手たちに一目置かれていたのが杉浦だった。

 1997年には、当時メッツの監督だったボビー・バレンタインから直々の誘いを受けたが、入団には至らなかった。杉浦が最後まで社会人野球でプレーしたのは、心の真ん中にオリンピックがあったからに他ならない。社会人野球を代表する投手として、日本のアマチュア球界のために世界の舞台で勝たなければならなかった。杉浦はプライドと責任を抱えながら、日本代表のエースとして戦い続けた。

 書籍『プロ野球を選ばなかった怪物たち』の取材時、杉浦は「こういう形でよく取り上げていただきますが、特別な人生を歩んできたとは思っていません」と語った。

「タイミングとか縁とか、そういうものもあってプロに行かなかった。僕がプロ野球に行かなかったのは、オリンピックにはアマチュア選手しか出られなかったというのが大きな理由です。もともと『プロ野球選手がオリンピックに行ける』というルールだったなら、また違った選択をした可能性もあります」

 プロ選手の出場が解禁されるまでは、プロに進む=オリンピック出場を諦めるということだった。だから杉浦は、1996年アトランタ五輪決勝でキューバに敗れたあと、2000年シドニー五輪を目指した。そして、初めてプロとアマチュア選手で構成されたチームの中心にいた。

「オリンピックは、一度出たらまた行きたくなるところです。野球ファン以外の方にも応援していただけます。決勝で負けてアトランタから帰った時、『おめでとう』と言われるかと思ったら、みなさんから返ってきた言葉は『ありがとう』だったんです。僕たちは感動を与えるためにプレーしているわけではありませんが、一生懸命にやってそう言ってもらえることはうれしかった。プレッシャーは他の大会とは比べものになりません。それでも、『もう一回!』と思いました」

 プロアマ合同チームで臨んだシドニー五輪では、準決勝でキューバに0−3で敗れ、3位決定戦でも韓国に1−3で競り負けた。杉浦は自身最後のオリンピックでメダルを獲得することができなかった。

 もし杉浦のプロ入りに適したタイミングがあったとするならば、1992年のバルセロナ五輪を終えたあとの、24歳の時だったかしれない。

「その時はヒジを痛めていて、痛み止めを打ちながら投げていました。結果は銅メダルに終わったので、『金メダルを獲りたい』と思い、アトランタにかけました」

【プロ野球を選ばなかった人生、それぞれの結論】

 あの決断に後悔はないのか?――ふたりに同じ質問をぶつけた。

 今も三井不動産に勤務する志村は言う。

「自分が不動産の仕事に合っていたのかどうか、他の仕事をしたことがないので比較はできません。でも、向いてないと思ったことは一度もありません。野球を続けなかったことを後悔したこともありません」

 オリンピック3大会に出場して、銀メダルと銅メダルを獲得した杉浦は、20000年シーズンを最後に32歳で現役を引退。その後は日本生命で投手コーチ、監督を務めるなどしてチームを支え、現在は日本生命の営業部長を務めている。

 彼はこう語った。

「最後と決めたオリンピックが終わって、自分の中に目標がなくなってしまいました。後悔は誰にもあるものだと思いますが、僕は後悔のない決断をさせてもらいました」

 彼らがプレーした1980年代、1990年代とは、プロとアマチュアの関係性は大きく変わった。プロ経験者が高校や大学、社会人の指導者になることも増えた。だが、志村が言ったように、「覚悟のない選手が足を踏み入れちゃいけない世界」であることに変わりはない。

 今年も、プロ野球選手になることを夢見た選手たちがドラフト指名に顔をほころばせることになるだろう。しかし問われるのは、100人の新人の代わりに100人がクビを切られるシビアな世界に乗り込む覚悟だ。次の戦いはその日、ドラフト会議から始まる。

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