日本代表選手の意識は2000年アジアカップ優勝後に大きく変わった

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2020年10月27日 11:21  webスポルティーバ

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「史上最強」と称された日本代表
――第6回

2000年アジアカップ。日本は圧倒的な強さを見せて2度目のアジア制覇を遂げた。当時、その代表チームは「史上最強」と称された。20年の時を経て今、その強さの秘密に迫る――。

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 最も厳しかった試合――。2000年アジアカップを振り返り、誰もがそう語るのが、決勝のサウジアラビア戦である。

 すでにサウジとは、グループリーグ初戦で一度対戦していた。結果は4−1。前回大会王者を一蹴する、圧勝だった。

 しかしながら、苦杯をなめたサウジにしてみれば、このまま引き下がるわけにはいかなかった。当時の日本代表コーチ、山本昌邦が語る。

「サウジは伝統と歴史がある国だから、このまま黙っていられないって、すぐに監督をクビにしましたからね。監督を代えて修正してきたので、もう初戦とは違うチームになっていました」

 新しく就任した監督。目の色が変わった選手たち。事前にそうした情報が入っていたとはいえ、実際にピッチに立った日本の選手は、少なからず面食らっていた。

「(初戦を経て)日本は研究され、対策されているな」

 名波浩はそんなことを感じながら、ひたすら守備に追われていたことばかりが記憶に残っている。

「後半なんか、ずっと押されていましたね。トップ下の(テクニックがある)アルテミヤトが中央にいても、(日本から見て)左サイドの攻撃が嫌だったので、ボランチはそっちに引っ張られてしまう。それで、決定的なピンチを作られ始めた。(相手の)FWに深みを作られてDFラインは上げられないから、オレたちボランチも後ろにとどまるしかない。(左ウイングバックの中村)俊輔にも『今日はポジションを変えている場合じゃねぇぞ』って、もうずっと守っている感じでしたね」

 決勝の舞台で今大会初めて名波とコンビを組み、ダブルボランチを務めたのは、それまで右ウイングバックに入っていた明神智和だった。

 紅白戦などゲーム形式の練習を好まないフィリップ・トルシエは、試合前日に翌日の先発メンバーを想定した練習をすることがない。となると、その日の先発メンバーは試合開始のおよそ3時間前、ホテルを出発する直前のミーティングで伝えられるまで、当の選手にすら知らされない。

 それでも明神は、「イナ(稲本潤一)が決勝に(累積警告で)出られないので、自分がボランチに入るかもしれないっていうイメージは持ちながら練習していました。だから、すんなり入れましたね」。

 とはいえ、試合に関しては「本当に苦しかった」。少しばかり表情をこわばらせ、明神が振り返る。

「初戦とは違うチームっていうのは、もちろんわかっていましたし、そのうえ、決勝戦だったので、点差が開くことはないと覚悟はしていましたが、それでもサウジは強かった。危ないシーンはいっぱいありました」

 試合開始から10分と経たず、サウジにPKを与えてしまったことを除けば、前半の内容はそれほど悪いものではなかった。

 PKは、DFの森岡隆三とGKの川口能活のちょっとした呼吸の乱れが引き起こしたものだったが、幸いにして、これは相手が外してくれた。




 すると、日本は前半のうちに先制。今度もまた、中村俊輔のFKから、である。

 30分、左サイドで得たFKから中村が鋭く腰をひねりながら蹴ったボールは、きれいな弧を描き、ファーサイドへ。そこへ大外からフリーで走り込み、右足を合わせたのは、右ウイングバックで起用されていた望月重良だった。

 名波曰く、「セットプレーの練習でも、重良はあんなところにはいない。『勝手に入ってくんなよ』っていうポジションだった」が、望月は"そこ"にいた。山本もまた、「なぜか、望月が突っ込んできた。『おまえ、なんでそこにいるんだ?』って思った」と苦笑する位置に、である。

 誰もが首をひねる不思議なゴールではあったが、値千金だったことに違いはない。しかも、望月は先発メンバーを大幅に入れ替えたグループリーグ第3戦を除けば、この試合が今大会初先発。稲本の出場停止により、明神がボランチへ回ったことで巡ってきたチャンスを生かす、まさにラッキーボーイとなった。

 20年前を思い出し、名波の頬が緩む。

「俊輔はゴールとか、アシストとか、得点に絡みたいタイプなので、そういう意味では、あの決勝ゴールのアシストは俊輔を気分よくさせただろうし、点を取った重良も(清水商の1年後輩で)オレが高校時代からめっちゃ可愛がっていたヤツだから、自分が取るよりうれしかったしね(笑)。重良は結局、あれが国際Aマッチの最初で最後のゴールだから。なんかこう、テンションが上がる要素のあるゴールでした」

 しかしながら、ここから先は日本がただただ耐え忍ぶだけの、長く苦しい時間が続いた。

 1点をリードした日本はこれまでになく、つなぎのミスが多く、マイボールの時間を作れない。対照的にサウジはシンプルに前線へボールを入れ、ポイントを作り、アルジャバーら、スピードのある選手の突破力を生かしてきた。

 ボランチとして、サウジの攻撃をはね返し続けた明神が語る。

「決勝のサウジは、組織としてどうだっていうよりも、個々の力というか、ドリブルのうまさだったり、速さだったり、そういうものを全面的に出してきました。あとは、単純に戦うという部分でも、ボール際の激しさは初戦とは全然違いましたね」

 一度ははね返すも、セカンドボールを拾われ、防戦一方。ベンチの山本は、鬼神と化した背番号1が次々とサウジのシュートを弾き出す様を、アトランタ五輪の記憶と重ね合わせながら見つめるしかなかった。

「能活さまさま、でしたね。あいつに何回救われたか。あんなセーブを何本も......、でも、能活にとっては、あれが普通だったのかな(笑)」

 この大会、日本は必ずしも楽な試合ばかりを勝ち上がってきたわけではない。先制され、逆転され、苦しい展開もあったが、その都度、底知れぬ力を見せつけ、勝利をもぎ取ってきた。

 もはや負ける気がしない――。選手たちに、そんな自信が芽生えていたとしても不思議はなかった。

 しかし、名波は「若い選手たちはそうだったかもしれないけど、オレはやっぱり、あいつらに比べたら小心者だから」と言って笑い、「いつかひっくり返されるんじゃないかという気で、体を投げ出して(守備をして)いたよ」と、当時の心境を明かす。

 そして明神もまた、余計なことは考えず、ただ一点だけに集中していたという。

「とにかく守備ですね。ゼロで抑えていれば負けないし、ボランチの自分は攻撃の部分でどうこうよりも、ゼロで抑える。それだけを考えていました」

 はたして、ベイルートの夜空に試合終了を告げるホイッスルが鳴り響く。日本は追加点こそ奪うことができなかったが、無失点でしのぎ切った。

 1−0。日本が2大会ぶり2度目のアジア制覇を成し遂げた瞬間だった。




 遠い昔を懐かしむように、それでいて今でもどこか楽しげに、名波がアジアカップ優勝を振り返る。

「もともと、若い選手が持っている技術にプラスして、戦術眼や、トルシエのタクティクスの部分をうまく融合できましたよね。その点では、オレは1995年から日本代表に絡んでいますけど、(ワールドカップに初出場した)1998年より前の世代とはちょっとレベルが違ったなと思います。すげぇ〜ヤツらが出てきたな。そういう大会だったと思います」

 シドニー五輪から2カ月に及ぶ戦いをようやく終えた明神は、ホッと胸をなで下すとともに、「最後に優勝で、しかも、いい内容で終われた達成感は大きかった」という。

「日本がアジアのチャンピオンになって、もう目指すところはそこじゃない、世界だよ、と。この2000年を境に、そう変わっていったんじゃないかなと思いますね」

 長く育成年代に関わってきた山本にとっては、その積み重ねの成果を実感する瞬間だった。

「この世界はどんなにいいサッカーをしたって、結局は実績を積み上げることでしか自信にならない。そういう意味では、1996年大会がベスト8敗退だったところを、4年後のこの大会で優勝して上回った。そこで生まれた自信みたいなものが、一人ひとりの風格となり、ピッチに出たときにも1対1で自信満々にプレーできるようになる。結果を出すことで、やれるんだっていう自信を身につけていく。それが大きかったと思います」

 1956年の第1回大会に端を発するアジアカップ史において、中東開催の大会で中東勢以外の国が優勝するのは、これが初めてのことだった。

 平均年齢およそ24歳の若き日本代表がこじ開けた、新たな歴史の扉である。

(つづく)

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