カズの父親のひと言が心に残る。W杯開幕前日に完成した「殿堂」

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2020年10月27日 11:21  webスポルティーバ

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スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ(ミラノ)

 ジュゼッペ・メアッツァ(=サンシーロ)に向かう際、地下鉄5番線が開通するまでは、トラムを利用するのが一般的だった。街の中心地であるドゥオーモ広場からガタゴトと2両編成の黄色い車両に揺られること20〜30分。車窓の眺めは商店街から、緑に囲まれた閑静な住宅地へと切り替わる。しかし、穏やかな気分に誘われるのも束の間、緑と家々の合間に、その巨大な建造物が姿を現わす。

 スタジアム脇の終点駅で下車するや、そのあまりの大きさに威圧される。その全容は首を真上に向けて曲げない限り、把握することはできない。掘り下げ式ではないので、スタンドの嵩が外観のスケールにそのまま反映された、収容人員(8万18人)より大きく見える巨大建築物だ。

 フォルムも秀逸である。観客を上階へと運ぶ計12本の螺旋状の誘導路は、スタジアムを四方から支えるスプリングをイメージさせる。広い屋根を支えるために、スタンド天辺の淵と淵とを橋渡しするように這う、長く太い朱色の鉄骨も印象的だ。モダンで、斬新で、荘厳。デザインの国イタリアに相応しい独創的な味わいだ。入場する以前に、これほど気持ちが高ぶるスタジアムも珍しい。

 現在のジュゼッペ・メアッツァは、1990年イタリアW杯のために改築された。2層式のスタジアムから3層式のスタジアムへと生まれ変わった。




 その時は開幕戦(アルゼンチン対カメルーン)を含む6試合を開催しているが、開幕戦の2日前に訪れれば、スタジアムはまだ完成していなかった。工員さんたちがペンキ塗りに勤しんでいた。開幕前日もしかり。まだ終わっていなかった。とても切羽詰まっているように見えない工員さんに「間に合うのか」と尋ねれば、「開幕戦は明日だろ。今日中に終わればいいんでしょ」と、涼しい顔で返してきた。

 ピッチでは、その傍らでオープニングセレモニーのリハーサルが行なわれていた。こちらの目を釘付けにしたのは、裸の上半身にテープをぐるぐる巻いた、超絶美人のモデルさんたちだった。

 そのファッションショーを彷彿させるような行進を、例の工員さんたちまで一緒になって、作業の手を休めて見入ってしまう始末だ。工事は完了するのかと危惧されたが、翌日のジュゼッペ・メアッツァに工員さんたちの姿を見かけることはなかった。好天も手伝い、塗り立てのペンキの表面もしっかり乾いていた。

 スタジアムの完成が開幕戦前日にまでズレ込んだケースは、五輪などを含め、過去にあっただろうか。東京五輪の開会式前日まで、国立競技場の建設工事が終わっていなかったら、大問題になっているに違いない。

 一方、完成した建造物は、デザイン的に凝りに凝った斬新でビジュアリックな見事な出来映えだった。それがイタリアらしさなのかどうか定かではないが、非日本的であることは確かだ。

 メディアセンターで提供されるドリンクの中で、真っ先にハマったのがカフェだ。カプチーノとエスプレッソは30年前、東京では浸透していなかったので、新しいもの好き兼コーヒー好きにとっては、感激もひとしおだった。エスプレッソ・ドッピオを飲むと、けっこうな頻度でトイレに行きたくなったものである。

 それはともかく、ジュゼッペ・メアッツァで行なわれた6試合の中でハイライトになったのは、決勝トーナメント1回戦の西ドイツ(当時)対オランダだ。その2年前、西ドイツで開催された1988年欧州選手権で、名勝負と言われた準決勝戦と同一カードが、1990年6月24日、決勝トーナメント1回戦で実現した。

 事件が起きたのは前半22分。フランク・ライカールトがルディ・フェラーに向かって唾を吐いた一件だ。世界中の何億人というファンが注目している大一番であることは、ライカールトも知っていたはずだ。後にインタビューをした時に知ることになるが、物静かで温厚な性格の持ち主である。にもかかわらず、彼は育ちの悪そうな真似に走った。

 頭に血が上りカッとしたというより、冷静に敢えてそうした愚行に出たという印象だ。ピッチ脇を抜け、W杯の舞台から去って行くその姿を眺めながら、言葉を失った記憶がある。

 チャンピオンズリーグ(CL)では試合前、両軍が正面スタンドに向かって横隊すると、場内からテーマソングが流れる。通常は40〜50秒程度のバージョンだが、ジュゼッペ・メアッツァで最初に行なわれたCL決勝戦、2000−01シーズンのバイエルン対バレンシア戦では違った。数分間にわたるフルバージョンの演奏が、オペラの合唱とともに生で披露されたのだ。

 このCL決勝には、題して「オペラ・デル・カルチョ」という別名がつけられていた。ミラノにはオペラの殿堂として知られるスカラ座があるが、カルチョの殿堂=ジュゼッペ・メアッツァで行なわれたCL決勝には、このもうひとつのミラノ名物であるオペラの要素を取り入れた、格調高い芸術的演出が施されていた。

 決勝戦前、ドゥオーモ広場界隈で見られた騒ぎとは対照的だった。バレンシアサポーターが地元の「火祭り」で使用する名物の爆竹を、広場のあちこちで炸裂させ、危なっかしいムードを煽っていた。

 下世話さと芸術性。この振り幅の広さこそが、欧州サッカーの魅力だ。カルチョの殿堂界隈も通常はかなり下世話だ。

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 あるときの試合後、スタジアム脇からトラムに乗り込み、荷物の多い同行カメラマンのために席を確保しようとしていると、不意に「危ない!」とそのカメラマンが声を発した。気がつけば、筆者のバッグの中に、背後に立つ男の手が侵入していたのだ。奴は慌てて手を引っ込め、ノーノーと言い訳のポーズを取りながら、逃げるようにトラムを降り、群衆の中に消えていった。

 電車、トラム、バスの中は泥棒だらけ。スタジアム周辺もかなり危ない。ミラノの街中で、ルーマニア人の少女グループ6人組に襲われたこともある。もっと驚いたのは、彼女たちが筆者の財布を盗んだ瞬間、近くにいた複数の男性がサッと飛び出してきて、彼女たちを一網打尽という感じで羽交い締めにしたことだ。こちらは一瞬、なんのことか事態が掴めなかったほどだ。その男性たちは私服警官で、後で話を聞けば、筆者が彼女たちに狙われていることを察知し、警戒していたのだという。緊張感に欠ける日本人とはこのことである。

 カルチョの殿堂に、日本人として初めて降り立ったのはカズこと三浦知良だった。1993年12月29日。(クリスマススターズ)世界選抜対ミランのチャリティーマッチに世界選抜の一員として出場。レアル・マドリードにも所属したメキシコ代表CFウーゴ・サンチェスに、クロスボールを送りアシストを記録している。

 翌1994−95シーズン、ジェノアに移籍したカズは、ミランとのアウェー戦に2トップの一員として先発出場。再びジュゼッペ・メアッツァの土を踏んだ。しかし、ご承知のように前半28分、空中戦でフランコ・バレージと激突。鼻骨骨折の重傷を負った。

 カズが届きそうもない空中戦を無理に挑んだため。こちらにはそう見えた。カズは目も腫らしていた。それでもカズは前半、最後までピッチに立ち続けた。頑張って立とうとするボクサーのごとく。

 翌朝、同じホテルに泊まっていたカズの父親が、隣のテーブルで朝食をとっていた筆者にこう言った。「知良はイタリアのサッカーに合っていない」。ジーンとさせられるひと言だった。

 遠い26年前の話になるが、この試合をジュゼッペ・メアッツァの現場で観戦していた日本人は、いまでは考えられないほど多くいた。折からのイタリアブームと重なり、ミラノでサッカー観戦をすることは、一般的なファンにとって、それほど大仰な話ではなかった。そういう時代だった。

 ミラノは世界のサッカーの中心地であり、発信源であった。ジュゼッペ・メアッツァはカルチョの殿堂と言うより、世界サッカーの殿堂だった。最新の欧州クラブランキングではインテルが25位で、ミランは61位。欧州最高峰のカテゴリー4の称号を維持するホームスタジアムに、両チームは大きく劣っている状態にある。ミラノ勢の復活を祈っているのは、ジュゼッペ・メアッツァに他ならない。

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