「森・野村」のハイブリッド野球で優勝。辻発彦と渡辺久信が両監督から学んだこと

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2020年11月23日 07:22  webスポルティーバ

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黄金時代の西武ナインから見た野村克也
第4回 「薫陶」

【「森野球」と「野村野球」を知る辻発彦と渡辺久信】

 1980年代後半から1990年代にかけて、西武黄金期を築いたメンバーは、1994(平成6)年限りでチームを去った森祇晶監督と軌を一にするように、次々とチームを離れていった。




 森が西武を去る前年、ヤクルトとの激闘を終えた直後の1993年オフには、ダイエーホークスに転じていた根本陸夫の画策により、渡辺智男、内山智之、そして秋山幸二の3人と、佐々木誠、村田勝喜、橋本武広の3人による大型トレードが実現する。さらに、この年限りで戦力外通告を受けた平野謙は千葉ロッテマリーンズに移籍した。

 1995年にはFAで工藤公康、石毛宏典がダイエーに移籍。1996年には辻発彦(「辻」は本来1点しんにょう)が自由契約となり、ヤクルトに入団する。また、1997年には清原和博がFAで、憧れ続けた巨人への入団を決めた。

 さらにこの年限りで郭泰源、鹿取義隆は現役を引退。1998年には渡辺久信が戦力外通告を受けてヤクルトへ、石井丈裕は日本ハムへ、それぞれが新天地を求めた。そして2000年には田辺徳雄も巨人のユニフォームに袖を通すことになる。

 わずか数年で、黄金時代のメンバーは散り散りとなり、わずかに、伊東勤、潮崎哲也にあの時代の痕跡が残るだけとなった。前述したように、西武を離れて新天地としてヤクルトを選んだのが渡辺久信と辻発彦だった。このとき、ヤクルトを率いていたのは野村克也だ。つまり、渡辺と辻は「森野球」と「野村野球」を経験した稀有な選手となった。

「西武を自由契約になったとき、いくつかの球団から誘いがありました。それでも、ヤクルトを選んだのは『野村さんの下で野球をやってみたい』と思ったからです」(渡辺)

「西武を自由契約になって、僕は『もう1年、現役で勝負したい』と思い、森さんに相談をしました。そして、森さんから野村さんに話を持ちかけてくれて、ヤクルトへの移籍が決まり、結果的に4年間も現役生活を続けることになりました」(辻)

 西武・森監督の下で黄金時代を謳歌し、現役晩年をヤクルトで過ごした渡辺と辻による、「野村評」とはどんなものなのだろうか。

【渡辺久信「野村さんは言葉で納得させてくれる監督」】




「森監督は選手の性格をよく把握されている監督でした。僕とか工藤(公康)さんはボロカスに怒られましたよ。それは、『コイツなら叱っても大丈夫だろう』と見極めていたからです。でも、『コイツは叱ってはダメだ』という選手には何も言わなかった。おだてたり、叱ったり、選手ごとに対応の仕方を変えることができる監督でした」

 そう森監督の印象について語る渡辺に、今度は「野村評」を聞いた。

「野村さんと森さんは、よく『似た者同士だ』と言われるけど、両チームでプレーした自分から見たら、全然別の監督ですよ。野村さんはしっかりと言葉で納得させてくれる監督でした。カウント別の投手心理、打者心理をきちんと言葉で説明してくれました。僕だってプロ野球選手だから、ある程度は理解していますよ。でも、あらためて言葉で説明されると、『あぁ、この人すごいな』って素直に思えましたね」

 続いて、辻に森監督、野村監督についての印象を尋ねてみた。

「森さんは勝負に対してはとても厳しい半面、選手に対する気配りが上手な監督でした。どういう環境だと選手が野球に集中できるのか、気持ちよくプレーできるのかを常に考え、それを実行してくれました」

ある試合のサヨナラのチャンスで、辻はバントを失敗する。結果的にチームはサヨナラ勝ちをしたものの、彼は「もしも負けていたら、取り返しのつかないことになっていた......」と恐怖心を抱いていた。するとその夜、森監督から辻に電話が入る。

「お前のおかげで何試合勝たせてもらったと思っている。たとえ今日負けたとしても、お前に文句をいうヤツは誰もいないぞ」

「監督からのひと言で一気に気がラクになりました。当時の西武があれだけの結束力を誇っていたのは、森さんの下にいたからこそだと、僕は今でも思っています」(辻)

 一方の野村に対してはどのような印象を持っているのか?

「"ID(Import Data)野球"というのは、結局は確率の問題だと思いますね。そこに、バッター心理、ピッチャー心理、キャッチャー心理を加味したもの。野村さんの野球は、確率であり、統計の野球だと思います」

 さらに、辻は続ける。

「野村さんはあれだけの大打者だから、打つことに関していろいろ考えていた印象で、森さんはピッチャーを含めたディフェンスのチームという感覚でしたね。僕は西武時代に、『とにかく一点を守り抜け』という野球を学んできました。

 でも、野村さんの場合は『スリーボールからでも打っていい』という大胆な考えの持ち主でした。古田(敦也)や池山(隆寛)が、ここぞという場面でヤマを張ってヒットを打っているのを見たときは、『これがID野球か』と驚きました」

【「野村の教え」を加味したことで、ともに優勝監督に】

 新天地で迎えた1998年シーズン。渡辺久信は3年ぶりの完投勝利をマークする。「野村再生工場の本領発揮だ」と期待が募ったものの、結局1998年はこの1勝だけに終わり、この年限りでチームを去る野村とともに、渡辺は台湾球界に転身する。渡辺は言う。

「ヤクルトでは成績を残すことはできなかったけれど、現役晩年に野村さんの野球を学ぶことができたのは自分にとっての大きな財産になりました」




 一方の辻は、ヤクルトに移籍した1996年にキャリアハイとなる打率.333を記録。まさに「野村再生工場」の面目躍如だった。その後、若松勉監督時代の1999年まで、充実した現役生活を送った。ヤクルトに移籍した直後、野村は辻にこう言ったという。

「1992年日本シリーズは、お前のプレーでヤクルトは負けたんだ」

 野村の言う「お前のプレー」とは、優勝がかかった1992年日本シリーズの第7戦でのこと。1−1で迎えた7回裏、ヤクルトの攻撃。一死満塁の場面で代打・杉浦享の放ったセカンドゴロを好捕した辻が、三塁走者の広沢克己をホームでアウトにした場面のことだった。この場面で辻はあえて半身で捕球して勢いよく回転することで、ホームへ力強いボールを投げて走者を封殺した。

「野村さんの下で野球を学ぶことができ、ヤクルトでの4年間は自分の人生において、ものすごく貴重な時間となりました」

 西武で森野球を、そしてヤクルトでは野村野球を学んだ渡辺久信は、2008年に西武の監督に就任すると、すぐに日本一の栄冠をつかみ取った。一方の辻も2017年に西武の監督に就任。翌2018年、2019年と2年連続でリーグ優勝を成し遂げた。そこには、森の教えだけではなく、野村の教えも加味されていたのは疑いようのない事実だろう。

(第5回につづく)

このニュースに関するつぶやき

  • 森から野村に話をしていたと聞いて納得。ホークスのいるパ・リーグで2連覇したナベQ−辻ラインは強固だ。今年だって前半は合併球団のライバルだったのに、いつの間にかAクラス。
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