50年以上前とは思えない「銀座」の美しさ! およそ10年で消えた都電の高性能車両

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2020年11月28日 07:00  AERA dot.

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写真銀座四丁目交差点を走る最大車体長の5500型。写真の1系統品川駅前行き5502は、1953年のデビュー当初MSN車と呼ばれ、翌年登場予定のPCC車の先陣として喧伝された。銀座二丁目〜銀座四丁目(撮影/諸河久:1967年10月21日)
銀座四丁目交差点を走る最大車体長の5500型。写真の1系統品川駅前行き5502は、1953年のデビュー当初MSN車と呼ばれ、翌年登場予定のPCC車の先陣として喧伝された。銀座二丁目〜銀座四丁目(撮影/諸河久:1967年10月21日)
 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回も「都電ナンバーワン」の視点で展望した車両編として、都心の街並みを振り返りつつ、最大車体長と最小車体長、それに最大重量と最小重量の都電を紹介しよう。

【都電が走る半世紀前の東京都内の写真はこちら(計5枚)】

*  *  *
 年の瀬になると、東京はいつも以上ににぎやかになる。だが、これは例年の話。コロナ禍の今年は、きらびやかな銀座の街を歩く人も少ない。

 冒頭の写真は、いまから53年前、銀座の中心地でもある銀座四丁目交差点を行く1系統品川駅前行きの都電車両5502だ。カラーポジフィルムで撮影した貴重な一コマで、フィルムはブローニーサイズのコダック・エクタクロームXを用いている。このエクタクロームXフィルムは半世紀以上経過しても退色を免れ、銀座四丁目を走る都電の彩(いろどり)を今に伝えてくれる。

 この5502は、都電の中で最大の車体の長さ14.3mを誇っていた。PCC車のライセンス製造である5501と国産高性能車5502〜5507の7両がこの車体長となる。車両限界による制約で、運転線区が品川駅前〜上野駅前を走る1系統に限定された。他線区に転用できないことから、1967年12月の銀座線廃止時に命運を共にしている。10年余の車齢で廃車されたのは、あまりにも残念だった。

 5502は斬新なデザインの車体に高性能機器と台車を艤装(ぎそう)し、PCC車の嚆矢として1953年に就役した。本来のPCC車とは異なるため、登場時はメーカーの頭文字を取ってMSN車(M=三菱電機/電気品・S=住友金属/台車・N=ナニワ工機/車体)の呼称でメディアに喧伝された。

■最小車体長は戦前の鋼体化改造車

 都電で最小車体長だったのは、1933年から1936年にかけて、旧来の木造市電を鋼体化改造した1000・1100型だ。この鋼体化シリーズの車体長は10mで、後続の増備車は流線形編でも取り上げた1200型になるが、こちらは僅か300mm車体長が長いので、最小車体長の選から漏れている。

 当初1000・1100型は、製造順で通し番号を付番されていたが、1936年製の車体からは前面に傾斜が付けられ、ややスマートな形態になった。戦後の改番時に、このグループが新たに1100型として別形式になった経緯がある。

 2枚目の写真は1000・1100型が主力として配置された神明町車庫前の撮影で、20系統江戸川橋行きとして発車を待つ1100型。この神明町車庫は大塚車庫などと同様、大正期に建てられた煉瓦造り3階建の重厚な外観で、戦前生れの1000・1100型と良く調和した。

 この1126は5両在籍した1100型戦災復旧車の一両で、屋根上の通風器が省かれていた。撮影時はブリルKB76Aを履いていたが、目黒車庫に転属した最晩年にはD10台車と交換されている。

■最大重量は王子電軌の引継ぎ車

 自重17.5tの5500型が都電のヘビー級チャンピオンと思っていたが、最古の都電に引き続き、この項目でも旧王子電軌160・170型の18.3tがトップとなった。昭和初期の1927年に製造された両形式は、鋼体リベット止めの堅牢な車体構造だった。車齢40年に達した最晩年になっても、荒川車庫を拠点にかくしゃくとして稼働した。

 次の写真は北本通り(国道122号線)に敷設された赤羽線を走る27系統赤羽行き170型。東京と川口・浦和を結ぶ北本通りは交通の要衝で、都電は軌道上に溢れたクルマを掻き分けながら運行していた。

 170型は川崎造船所で8両が製造され、王子電軌時代は200型(216〜223)の付番だった。都電になってから170型に改番された。後年、川崎市電への譲渡や3000型への改造で3両が廃車され、5両が1968年まで残存した。

■最小重量だった仲間たち

 都電の軽量車で忘れられないのが、1942年に登場した700型だ。1930年に製造された5000型以来の新造車で、新型台車を履いた半流線形の軽量車体はファンを魅了した。20両が木南車輛で製造され、自重は12tだった。ちなみに、同規模の鋼体化改造車1000型の自重は13.5tあるから、1.5tも軽量化されていた。

 写真の3系統品川駅前行きの700型も紹介しよう。ウイングバネ式のD13台車は乗り心地が良かったことを記憶している。5両を戦災で失ったが、15両全車が三田車庫に配置され3系統(品川駅前〜飯田橋)専用で運行されていた。軽量構造が災いして車体の傷みが顕著になり、乗降扉の交換などの更新修繕を経て1966年まで使われた。

 いっぽう、1956年から耐用年数を短く設計された8000型が登場した。翌年までに日本車輛(本店・東京支店)、日立製作所、ナニワ工機で131両が製造された。工作方法を簡易化してコストの低減を図った経済車で、軽量構造の車体や台車はそれまでの概念を打ち破るものだった。7000型(自重15.5t)と同等の車体寸法で、自重は12tに収まっている。
軸バネを省略したD21台車は騒音と振動が激しく、乗客の評判はイマイチだった。

 最後の写真は王子駅前停留所でバス車体構造の2500型と顔を合わせた32系統荒川車庫前行き8000型。この8046は1957年ナニワ工機の製造で、1972年に廃車されるまで荒川車庫を離れなかった。

 左側の2500型は、杉並線の木造車の鋼体化改造車で8両が製造された。写真の2505は都電で初めての試みであるバス車体メーカー/富士自動車伊勢崎工場の製造で、就役は1959年3月だった。

 2500型も自重12tの軽量車で、杉並線の廃止後は改軌改造を受けて1964年4月から荒川車庫で再起した。1968年に再転属した早稲田車庫で廃車されている。

■撮影:1967年10月21日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。2019年11月に「モノクロームの軽便鉄道」をイカロス出版から上梓した。

※AERAオンライン限定記事

このニュースに関するつぶやき

  • 50年前のフィルムとは思えない綺麗な写真で驚きますね!木造フレームの路面電車に乗ってみたかったですねɽ���ʴ򤷤�����
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