無名でも実力ある選手を獲りにいく。 「根本陸夫の右腕」が貫いた信念

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2020年12月02日 12:12  webスポルティーバ

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根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第20回
証言者・浦田直治(2)

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 西武のスカウト部長として新人補強に尽力し、「根本陸夫の右腕」と呼ばれた男がいる。西鉄での現役時代は控え捕手だったが、引退後、スカウトとして手腕を発揮した浦田直治。球団が太平洋クラブ、クラウンライターと変遷したなかでもライオンズを陰で支え、西武では球団管理部長=実質GMの根本に絶大な信頼を置かれた。

 縁あって、浦田が根本と出会ったのは中学時代。1950年、根本が法政大でプレーしていた時のことだ。それから7年後、今度はお互いプロの選手として再会。そして次に会ったのは69年。浦田は西鉄のバッテリーコーチ兼スコアラー、根本は広島の監督になっていた。面会の経緯を浦田に聞く。




「僕は当時、コーチとスコアラーと、契約更改の時の査定も担当していました。ある日、球団の上の人が『広島は大リーグの査定システムを採り入れているらしい。誰か、広島で知ってる人がいたら聞いてもらえないか』って言う。それで僕が『広島なら根本さん、知ってますよ』と。『え? おまえ、根本さん知ってるの?』となって会いに行くことになったんです」

 当時、広島のオーナーだった松田恒次の長男、松田耕平がオーナー代理を務めていた。耕平はアメリカ式の球団経営をよく研究しており、監督とGMとの権限を分けた運営をすべき、という点で根本と意見が一致していた。査定システムの導入も研究の一環だったと思われる。その日、浦田が広島市民球場内の球団事務所を訪ねると、根本が待っていた。

「朝早くに行ったら、あれはオープン戦だったか、呉でゲームがあるってことでバスが停まってて。『おまえ、一緒に乗ってけ。ゲーム一緒に見ろ。ここに座れ』って言われて、根本さんの横に座らされて。呉まで連れて行かれて......。査定の書類の話なんてひと言も出ないんです(笑)」

 広島市に隣接する呉市とはいえ、バスに揺られて1時間強。想定外の"遠征"に浦田は辟易しかけたが、初対面から尊敬の念を抱く先輩にお願いする立場なのだから何事も従うしかない。それでも試合が終わって戻るとすぐ、根本が無言で書類を持ってきた。

「なかには関係ない書類もあって、『査定のとこだけでいいんです』と言ったら、『いやいい。全部持ってけ』って。ちゃんと球団の上のほうに話を通してくれてたんですね。おかげさまで、西鉄も同じように査定をし始めたんですが、それがずっと伝わって、今も西武はそれを使っていると思います。査定の方法って、そんなに新しく考えたりできないものですから」
 
 ライオンズの本拠地が福岡から所沢に移転してからしばらく、前身球団である西鉄と西武の関係はファンには見えづらかった。そのなかでも浦田が明かすとおり、球団内部においては、西鉄から西武に継承されたものもあったのだ。

 だが2008年、西武が球団史を振り返るイベントを開催するまで、西鉄とのつながりは断たれていたも同然だった。球界を襲った八百長騒ぎの"黒い霧"事件が1969年の西鉄に端を発していたため、球団オーナーの堤義明がその汚(けが)れたイメージを嫌ったのだ。

 事件当時、影響を受けて西鉄球団は弱体化し、浦田の人生も変わることになる。70年、八百長に絡んだとされる6選手が出場できなくなり、戦力ダウンした西鉄は4月末から最下位に低迷。同年の浦田は先乗りスコアラーになっていたが、どれだけ相手のデータを集めて分析したところでチーム浮上の見通しが立たない。夏場になった頃、監督の稲尾和久に相談した。

「稲尾にね、『もう先乗りいらんやろ?』と言ったら、『そうやなあ......』と。それで球団に理由言って『辞めます』と伝えたら、すぐスカウト部長から電話がかかってきて『手伝ってくれ』と。夏からスカウトを手伝ったんです」

 翌71年、正式にスカウト部の一員になると、球団専務から部署全員に「12球団の練習を見て来い」と指令が飛んだ。手分けしてキャンプを視察することになった。

「僕は南海と広島を見に行くことになりました。広島は根本さんがいますからね。で、宮崎の日南まで行ったら、『おまえ、オレんとこへ一緒に泊まれ』って(笑)。『いや、いいですよ、自分でホテル取ってますから』って言ったんですが、本当にいつも歓待ぶりがすごかったんですよ」

 順調に始動したつもりの浦田だったが、71年のドラフトは無残な結果に終わる。1位指名の吉田好伸(投手/丸善石油下津)、2位指名の柳俊之(投手/電電北海道)、3位指名の永尾泰憲(内野手/いすゞ自動車)と、上位3人が揃って入団拒否となったのだ。

「八百長問題の影響もあったと思います。ただ、僕が担当した1位指名の選手については、調査不足がいちばんの原因でした。その選手が小児麻痺で股関節を痛めていたこと、股関節を治してくれた医者が最後までプロ入りに反対していたことを、僕は知らなかったんです」

 入団拒否した吉田は、69年ドラフトでもロッテに7位指名されながら断っている(和歌山工高時代)。その理由を浦田は調べ上げていなかった。医者がプロ野球界をよく知らず、「プロの練習で股関節を無理に広げられたら再発する」と吉田に助言していたことも知らずにいた。

「それからはもう、調査不足だったのが頭にこびりつけておいて、絶対、不足がないように。この選手を獲りたいと思ったら、徹底的に調査しました。だから僕はその後、担当した選手を獲り逃したことが一度もなかった。後々、根本さんが僕を信頼してくれたのは、それがあったんだと思います」

 失敗の経験が「根本陸夫の右腕」を誕生させる契機となった。ただ浦田はこの年、ドラフト外で加藤初を担当して獲得している。浦田も在籍した大昭和製紙のエースで、ドラフト1位候補だったが、同社のチーム事情によってどの球団も指名を回避するしかなかった。だが加藤本人にはプロ入りへの強い意志があることを浦田が確認し、両親を説得して契約となった。

「加藤は獲れたけど、ドラフトには失敗したわけです。僕は球団社長に辞表を出しました。そしたらすぐ呼ばれて。『おまえ、これ、辞表じゃないか』と社長が言ったと思ったら、『ここで破るぞ』って目の前でビャッと封筒を破った。『1位で指名しようとした選手が入ったんだから、辞表なんか出す必要ないし、絶対、受け取らない』と言われて残ったんです」

 72年、加藤が1年目で17勝を挙げて新人王に輝くと、球団内で浦田の評価が一気に高まった。シーズンオフに西鉄の身売りが決まり、球団が太平洋クラブライオンズに変わった後も、浦田が担当して獲った選手が次々に一軍で活躍していく。

 太平洋クラブとはスポンサー契約した企業名で、親会社を持たない球団。財政難がネックだったが、無名でも実力ある選手を獲りにいく新人補強、その中心に浦田がいた。すると、スポンサーがクラウンライターに変わった77年、浦田はチーフスカウト就任を要請される。

「最初、球団には『嫌だ』と断ったんです。スカウト連中はみんな年上で、コーチ経験ある人ばっかりで、当時41歳の僕より下はひとりしかいなかったですから。そうしたらオーナーに呼ばれて、『おまえな、代表やら専務がやれって言ってるんじゃないんだ。オレが浦田にさせろって言ってるんだ』と。そこまで言われたら断り切れないですよ」

 会議という名目で全スカウトを呼び寄せた浦田は、球団からのチーフ就任要請を断っていることを伝えた。「僕は皆さんより年下だから」と言うと、「いや、そんなことはない。おまえが適任だ。オレら応援してやるからチーフをやれ」と返す者がいた。すぐに全員が賛同した。

 実際、浦田のスカウト経験は丸6年と誰よりも長く、実績も積み上げているから球団の評価も高い。反対する理由はなかった。それでも浦田自身、年齢の違いは気になるため、仕事以外では先輩として立てることを条件に引き受けた。そして、その年のオフだった。浦田が尊敬する先輩、根本の監督就任が決まったのである。

「びっくりしましたよ。それでとっさに、『うわー、悪いのが監督になるんだ』って(笑)。いや、悪いっていうのは、人が悪いとか、柄が悪いっていうんじゃない。根本さんが僕のことをよく知ってるから、『うわっ、これはもうこき使われるわ』と思ったんです」 

つづく

(=敬称略)

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