日本の子どもの読解力は本当に下がっている? 『AIに負けない子どもを育てる』の是非を問う

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2020年12月16日 00:51  リアルサウンド

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新井紀子『AIに負けない子どもを育てる』

 「東ロボくん」のチャレンジと並行して、私は日本人の読解力についての大がかりな調査と分析を実施しました。そこでわかったのは驚愕すべき実態です。日本の中高校生の多くは、詰め込み教育の成果で英語の単語や世界史の年表、数学の計算などの表層的な知識は豊富かもしれませんが、中学校の歴史や理科の教科書程度の文章を正確に理解できないということがわかったのです。これは、とてもとても深刻な事態です。(新井紀子『AI Vs.教科書が読めない子どもたち』東洋経済新報社/2018年)


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 数学者でAI研究者である新井紀子が2018年に「日本の子どもは読解力が下がっている。教科書がロクに読めない」と言って教育界に一大論議を巻き起こしたことは記憶に新しい。


 さらに教育界・出版界で議論になったのは、新井が「読解力と本好きかどうか、あるいは読書量は関係がない」としたことだった。


 生活習慣、学習習慣、読書習慣などかなり網羅的なアンケートを実施しました。つまり、どのような習慣や学習が、読解力を育て、逆に損なう原因になっているかを調査したのです。


 まずは読書習慣。読書は好きか、苦手か。好きだと答えた場合にはいつごろから好きか、苦手な場合はいつごろから苦手になったか、直近の1ヵ月で何冊読んだか、好きな本のジャンルは文学かノンフィクションかなど、かなり細かく尋ねました。その結果、どの項目も能力値と相関が見当たらなかったのです。(新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)Kindle版より)


 しかし、実はこの「日本の子どもは読解力がない」ということが問題化される動きは、今に始まったことではない。


 2000年代から言われ、また、対策が採られてきたものだった。


 そして重要なことに、2000年代以来言われてきた「読解力がない」問題と、新井の言っている「読解力がない」問題はまるで違うものを指している――にもかかわらず、しばしば混同されて議論されている。


 本稿では日本の子どもの読解力は本当に下がっているのか? そもそもそこで言われている「読解力」とは何か? 読解力と読書は本当に関係ないのか? これらの問題を扱っていく。


■2000年代の「日本の子どもは読解力がない」問題


 2000年代以降の国語教育や子どもの読書政策に対して大きな影響を与えた出来事として、OECDの行うPISAの結果、特に2004年12月のPISAショック(2000年調査と比較しての 2003年調査での日本の子どもの読解力ランキングの大幅低下)がある。


 PISAとは、OECDが義務教育修了段階の15歳を対象に行う国際学力調査であり、実生活で直面する課題に知識や技能をどの程度活用できるかを評価するのが狙いとされている。


 まずはPISAの2000年の調査結果が2001年12月に公表されたあとの新聞や雑誌の記事を引こう。


 OECD(経済協力開発機構)が昨年末に発表した国際学習到達度調査。三十二か国の十五歳児(日本では高校一年生)を対象に、数学の能力や科学的知識のほか、「文章を理解し、利用し、熟考する能力」とされる「読解力」を調べた。


 読解力の総合得点では、日本はフィンランドに次いで二位グループ(順位は八位だが、二位のカナダと統計的な差はない)につけた。


 ただ、問題の中に、「落書き」について賛否両論の意見文を読ませ、その内容について論述形式で答えさせるものがあった。参加国全体の平均正答率は53%。これに対し、日本は42%と11ポイントも低かった。しかも、回答欄に何も書けない「無答率」が29%にものぼり、米(4%)、英(7%)、仏(9%)などと、大きな差がついてしまった。


 国立教育政策研究所の有元秀文・総括研究官は、「ものを考えない、表現できない」傾向の表れだと分析し、参加国中で最低だった「読書量」の少なさが背景にある、と見る。


 この調査で、日本の子どもは、55%が「趣味で読書することはない」と答えていた。高校生の二人に一人は、自ら望んで本を手に取ろうとしない。これは、参加国の平均32%を大きく上回る。(「読売新聞2002年10月11日東京朝刊「[読書していますか](1)文章書けない学生(連載)」」)


 これを受けて2002年8月に文科省が発表した「子どもの読書活動の推進に関する基本的な計画」の第1章では、PISAの結果を取り上げ「趣味としての読書をしない」と答えた生徒がOECD平均31.7%に対し日本は55%もおり、「どうしても読まなければならないときしか、本は読まない」と答えた生徒が、OECD平均12.6%に対し日本は21.5%であることから、読書離れを指摘し、


1.家庭、地域、学校における子どもの読書活動の推進


2.子どもの読書活動を推進するための施設、設備その他の諸条件の整備・充実


3.図書館間協力等の推進


 など多岐にわたって読書を推進した。


 ところが2004年12月にPISAの2003年調査の結果が公表され、日本の子どもは「読解力」で2000年調査の8位から2003年調査で12位に後退したことが明らかになる(いわゆる「PISAショック」)。こうした流れを汲んで文科省は2005年12月に「読解力向上プログラム」を発表する。


 2000年調査段階では「国際的に見て読書量が少ないのはまずい」くらいの話だったが、2003年調査段階では「読解力ランキングの低下はまずい。なんとかしなければ」ということで国は読書推進政策や教育カリキュラム変革にさらに力を入れ、2006年調査も2003年とほぼ同様の結果だったことから、その流れを加速させていった。


 こうした改革が功を奏してか、PISAの読解力ランキングは2006年に12位だったものが2009年には5位に上昇、2012年には1位となり、 2015年には5位に下がって再び問題視されたが、2003年、2006年と比べれば2000年代後半以降の読解力ランキングは上位で安定している。


 文科省は、このPISAの結果と読書推進活動とを関連付けて評価している。


 文科省は読解力が回復した要因の一つに「読書活動への支援」を挙げる。


 今回、生徒への質問紙による調査で「読書は大好きな趣味の一つ」と答えたのは42%と、前回より5.5ポイント増。「本の内容について人と話すのが好きだ」も43.6%で同7.1ポイント上がった。「読書は時間のムダだ」との回答は15.2%で、 4.5ポイント減った。


 読む本の種類などを2000年調査と比べると、小説や物語など「フィクション」が42%で14.5ポイント増え、伝記など「ノンフィクション」も11.1%で1.3ポイント増。コミックは72.4%で11.5ポイント減った。


 こうした点から、文科省は「すべて望ましい方向へ行っている」と結論づけた。


 ただ、「趣味で読書をすることはない」との回答は44.2%だった。00年調査よりも10.8ポイントも減った点では「改善」だが、OECD平均の37.4%と比べるとまだ多い。(「朝日新聞」2012年12月8日東京朝刊「経験の活用、日本の宿題 OECD国際学習到達度調査」)


 学校読書調査を見ても、2000年代を通じて小中学生の本離れは劇的に改善され、今や「若者の本離れ」などと言うのはデータを見ない知ったかぶりだけという状態になった。(全国学校図書館協議会「学校読書調査」より)


 「あれ?」と思っただろうか。


 そう、2000年代に「日本の子どもは読解力がない」ことは問題視され、対策として国語教育改革とともに読書推進政策がなされ、2009年以降は2003年、2006年と比べてOECD加盟国内の読解力ランキングは上昇したのである。しかもその理由のひとつには、読書推進活動の成功が挙げられている。


 なのにどうして新井紀子は「日本の子どもは読解力がない」とか「読解力と読書は関係ない」と言い、多くの教育関係者が「対策しなければ」と動いているのだろうか?


■2010年代末の「日本の子どもは読解力がない」問題


 たしかにPISAの2015年調査で日本の読解力はOECD加盟 35カ国中では6位となり、 2012年調査で1位だったことからランキングが低下、また、平均スコアが下がってはいる。しかし2003年、2006年が12位だったことに比べれば、十分に上位グループにいると言える。


 PISAの結果を受けて国立教育政策研究所は「読解力の向上に向けた対応策について」を発表している。これを見ると、読書に関する施策はひとつもなく、語彙力強化やコンピュータを活用した指導への対応が並ぶだけだ。


 一方で施策として、数学者の新井紀子が所長を務める「国立情報学研究所・教育のための科学研究所」と連携して高校生を対象とするリーディングスキルテスト(RST)を実施する、とある。


 筆者にはこれでは目的(ゴール)と手段が噛み合っていないように見える。


 PISAの測る「読解力」と新井のRSTで測る「読解力」は一部重なるものの、何を測ろうとしているものなのかが大きく異なるからである。


 ここまで触れてこなかったが、PISA型読解力とは以下のようなものである。


 経済協力開発機構(OECD)のいう「読解力」は物語を読んで主人公の気持ちを答えるようなものではない。「目標を達成し、知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、テキストを理解・利用・熟考し、取り組む能力」が定義だ。


 つまり、単に読んでわかるだけでなく、書き手の意図をくみ取った上で自分の知識と経験も活用して判断する力。日々の生活や実社会に出てから積極的に使える能力だ。「テキスト」にはグラフや図も含む。


 調査によって具体的に測ったのは、三つの側面だ。


(1)「情報へのアクセス・取り出し」。書かれたもの全体の中から、問いに答えるために使う部分や要素を見つけ、選び出し、集める力を指す。


(2)「統合・解釈」。設問例2の問1、問3のように、各文章の内容だけでなく、複数の文章群の関係を理解し、その違いや共通点まで理解できる能力だ。


(3)「熟考・評価」。設問例2の問2のように、書かれている内容にとどまらず、知識や経験と関連づけて判断し、説明する力をいう。(「朝日新聞」2010年12月8日東京朝刊「経験の活用、日本の宿題 OECD国際学習到達度調査」)


 根本彰は『教育改革のための学校図書館』(東京大学出版会、2019年)のなかで、以下のように整理している。


 PISAが言うリーディングリテラシー(これが行政用語として訳語が「読解力」となったことが混乱のもととなったため、根本は原語を用いている)とは、文章の内容を読み取ったあとでそれに対して自分の意見を述べたり、次の行動に結びつけたりする力を指す。


 従来の日本の国語力とは、他者に寄り添い、その表現意図を読み取る力のことだった。ところがリーディングリテラシーの前提は、著者の物語は絶対的な存在ではなく、読み方は多様なものがありえるし、読んでから採るべき行動も多様になる可能性がある。


 PISAでは日本の子どもたちが、自由記述欄の無答率が多いことが問題となった。それは日本では物語構造から逸脱する発想が許されていないためであり、他者の文章を元にして自分の考えを紡ぎ出すトレーニングが不足しているからである。


 二〇〇〇年代からの日本における読書と言語力に対する関心の高まりは、単に活字離れを食い止めることだけではなく、リテラシーそのものの定義の国際的変化を受けて読書の効用を再確認し、それをカリキュラムの基盤に置こうとしていることを意味している、と。(根本書、305ページ)


 さて一方、新井の著書で言われる「読解力」とは「文書の意味内容を理解する」「中学校の教科書の記述を正確に読み取ること」である。「行間を読む」といったものではなく、文章をリテラルに理解する能力のことである。


小説や、小林秀雄の評論文を読んで作者が訴えたいことや行間に隠されている本当の意味などを読み取ることという印象を持たれている方も多いと思いますが、私が疑問を抱いたのはそのような意味での読解力ではありません。辞書にあるとおり、文章の意味内容を理解するという、ごく当たり前の意味での読解力です。つまり、多くの大学生が数学基本調査の問題文が理解できていないのではないか、という疑問です。


■新井紀子『AIに負けない子どもを育てる』


 新井がなぜこの能力を重視するか? 新井の『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』や『AIに負けない子どもを育てる』のロジックはこうだ。


 今後AIを活用する社会が到来するにあたり、AIにはできないことを人間ができるようにならなければ、AIに労働力が代替されてしまう。


 たとえばAIは、図と文章を見て問題文に回答する、判断を下すといったことができない。だからそういう意味での読解力が必要になる。


 また、プログラミング能力も必須になるが、プログラミングをするにあたっても、文章を厳密にリテラルに解釈する能力や、誰が読んでも同じように解釈できるように表現する力が必要となる――ざっと言えばこういうものだ。


 読解力が劣る人を「自己責任」として放置すると、企業や社会全体の生産性が上がりません。その人々がAIに代替され低賃金の職を奪い合うようになったなら、格差が拡大し、人口減少がさらに進み、日本は持続可能ではなくなります。では、海外に逃げればよいかといえば、テクノロジーに対して人の読解力が追い付いていない状況は欧米ではさらに深刻です。OECDの調査でも、日本人は世界でもまれに見る「よく読める国民」であることがわかっています。


 あなたはきっとその優れた読解力で、現代の知識基盤社会の中で、力や富を得る機会に恵まれるに違いありません。(新井紀子『AIに負けない子どもを育てる』(東洋経済新報社、Kindle版より引用)


 新井の言う「読解力」は、旧来の国語教育で言う文学の鑑賞能力という意味でもなければ、活用を重視するPISA型読解力とも異なるものだ。


 そもそも「なぜその能力が必要なのか」という前提自体が異なる。


 だから国立教育政策研究所の「読解力の向上に向けた対応策について」が、PISAのスコアを問題にしながら、新井的な意味での読解力向上施策に取り組む、としているのは、どうにも気持ちが悪いわけである。


 新井はRSTで測る「読解力」は読書量と関係がない、としている。


 一方、OECDが32カ国の15歳の子どもの読解力と「夢中度」に関する調査を行い、2002年に公表した結果(OECD PISA database,2001)によると、読書の夢中度が高くなるほど読解力の点数は上がる。逆もしかりで、夢中度が低いと読解力の点は下がる。


 だからこそ、そしてPISAが今の社会の動向を踏まえて知識の活用を重視してきたからこそ、国はこれまで四度にわたり「子供の読書活動推進に関する基本計画」を策定し、90年代以来、調べ学習/総合的学習/探求型学習というかたちで小中高校教育におけるアウトプットの機会を従来よりも増やし、2020年から始まる新学習指導要領では「主体的・対話的で深い学び」を重視するとし、大学入試改革では記述式を増やす、としてきたわけである。


 つまり、新井の本がベストセラーになったからといって「本好きかどうかや読書量と読解力は関係ない」と結論付けるのはまったく早計である。


 ちなみに新井は「日本の子どもの読解力は下がっている(と感じる)」と言うが、RSTが始まったのはごく最近であり、新井の言う「読解力」が本当に過去と比べて下がったどうかはわからない。経年で比較できる過去のデータがないからである。


 また、今後RSTのスコアが上がったからといって、PISAおよび文科省が重視する知識の活用ができるようになるとも限らない。


 というより、人が「読解力」と言うとき、それは何を指し示しているのか、また、そこで言う「読書」で測られているのは量なのか熱中度なのか、といったことを注意深く見る必要がある。(飯田一史)


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