吉田修一はなぜ実際に起こった事件を小説にするのか? 『逃亡小説集』が描く“生のほとばしり”

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2020年12月22日 22:31  リアルサウンド

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吉田修一『逃亡小説集』(KADOKAWA)

 収録されていた2つの短編──「青田Y字路」と「万屋善次郎」を原案とする、瀬々敬久監督の映画『楽園』が制作・公開されるなど、ここへきて再び吉田修一の短編集『犯罪小説集』(KADOKAWA)が注目を集めている。そんな中、その第二弾とも言うべき短編集『逃亡小説集』(KADOKAWA)が刊行された。収録されているのは、「逃げろ九州男児」、「逃げろ純愛」、「逃げろお嬢さん」、「逃げろミスター・ポストマン」という、いずれも“逃げろ”という言葉が冠せられた4つの物語だ。


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 『犯罪小説集』同様、実際に起こった事件にインスピレーションを得た物語──というか、実際に起こった事件をヒントにすることは、これまでの吉田修一の小説にも多々見られたことであり、もはやある種の“定番”と言っていいかもしれない(だからこそ、このシリーズを“ライフワーク”と称しているのだろう)。映画『楽園』の原案のひとつである「万屋善次郎」は、近年そのルポルタージュ『つけびの村』(晶文社)が話題を集めている、限界集落に住む老人たちの確執──「山口連続放火事件」がモチーフとなっているし、そもそも同じく映画化された吉田修一の代表作『怒り』(中央公論新社)のモチーフとなっているのは、整形手術を受けながら逃亡生活を送っていた市橋達也の事件──「リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件」なのだから。


 それにしてもなぜ、彼は実際に起こった“事件”に、ここまで惹きつけられるのだろう。名もなき人々がある日突然犯罪者となり、ニュースやワイドショーで取り上げられる。しかし、それらの報道を見ていても、その当事者たちの“本当の姿”を知ることはできない。であれば、自らの想像力を駆使して、彼らの生い立ちや暮らしぶり、さらにはその人生を描き出し、彼/彼女たちを追いつめた人間関係や情況──果ては、彼/彼女たち、そして私たちが生きるこの日本社会の“在り方”をあぶりだそうとしているのだろうか。声なき者に“声”を与えることによって、その“生”を浮き彫りにするように。無論、それもあるだろう。けれども、今回の短編集は、『犯罪小説集』の流れを汲むものではありながらも、その前面に“逃亡”というテーマを打ち出したことによって、彼が描こうとしているものが単なる“犯罪者”ではなく、彼/彼女たちの一瞬の“生のきらめき”であることを、改めて実感させるような一冊となっているのだった。


 年老いた母と暮らす中年男が、生活保護を申請した帰りに巻き起こす騒動を描いた「逃げろ九州男児」、道ならぬ恋の果てに、沖縄へと旅立った教師と元教え子の顛末を、ふたりの“交換日記”という形式で描いた「逃げろ純愛」、山荘を経営する中年男が、かつて自身も熱烈なファンであった、現在逃走中の元アイドルと遭遇する「逃げろお嬢さん」、そして配達中に消息を絶った郵便配達員を探す「逃げろミスター・ポストマン」。


 本作に収録された4つの物語の主人公は、逃亡の当事者であったり、逃亡者に遭遇するものであったり、その近親者であったりするなど、その“視点”はさまざまだ。しかし、ふとした出来事や些細な事件をきっかけに、その場から“逃げる”ことを選び取ったものがその物語の中心にいることは、いずれの作品にも共通している。これまでの生活や人間関係を捨てて、半ば衝動的に“逃げる”こと。その行為は、当事者である本人、あるいはその事実を知った周囲の人々(そこには、我々読者も含まれるのだろう)の心を、静かに揺り動かしていく。


 思えば、吉田修一の代表作のひとつである『悪人』(朝日新聞社)の後半部は明らかに“逃亡小説”であった。そして、『怒り』は、自分たちの住む町にやってきた男が“逃亡中の容疑者”ではないかと疑う人々の心理を描いた小説だった。そう、吉田修一が描く“犯罪小説”は、実はその多くが“逃亡”とセットになっているのだ。奇しくも、本作の最後に収録された「逃げろミスター・ポストマン」の中に、こんな一節がある。


幸大は春也に返す言葉を思いつけないでいた。春也の言っていることが子供じみていることも、甘ったれていることも分かっている。なのに、「俺、もしかしたらずっと逃げたかったのかも」と言った春也の言葉が耳にこびりついて離れなかった。(「逃げろミスター・ポストマン」)


 彼/彼女たちにとって“事件”とは、あくまでもひとつのきっかけに過ぎなかった。心の奥底でいつしか抱くようになっていた、すべてを捨てて、“ここから逃げ出したい”という思い。無論、それが叶わぬ夢であることは、本人たちも重々わかっている。そして、その“逃亡”の行き着く先に“楽園”などありはしないことも。けれども、心のどこかでそれを願わずにはいられない。彼/彼女たちを、そのように仕向けるものは何なのか。それは、人間の性なのか。それとも、彼/彼女たちを追い詰める、この社会の理不尽さなのか。


 長編小説とは異なり、本作に収録された短編小説の終わり方は、いずれも深い余韻を残しつつも、それぞれ読者の手に委ねられたものとなっている。その逃走の果てに、どんな結末が待っているのか。それは誰にもわからない。否、むしろそれは問題ではないのだろう。“ここから逃げ出したい”という思いを、やむにやまれぬ事情があったにせよ、実行に移してしまったものが、その瞬間に初めて感じることのできた“生のほとばしり”のようなもの。あるいは、それを目の当たりにしまったものの内に広がる、心のざわつき。吉田修一という作家は、“犯罪者”を入り口としながら、そんな“生のほとばしり”の瞬間を描き出そうとしているのだ。吉田修一の『逃亡小説集』──これは、期せずして彼の文字通りの“作家性”が浮き彫りになった、そんな短編集なのかもしれない。(麦倉正樹)


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