王者西武を牽引し、常勝ホークスの礎を築いた「メジャーに一番近い男」【秋山幸二・最後の1年】

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2020年12月24日 12:34  ベースボールキング

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引退セレモニーで球場内を一周、外野のファンからの声援に応えるダイエー・秋山
◆ 『男たちの挽歌』第25幕:秋山幸二

 あの頃、大リーグは遠かった。

 小学生が知ってる外国人はジャッキー・チェンとウィッキーさん。80年代から90年代初頭にかけてインターネットや動画配信は、『ドラえもん』のひみつ道具並のリアリティのなさで、衛星放送もまだそこまで身近ではない。11月の午後にやっていた日米野球と、『ファミスタ』の対戦時に使うと友達を失うレベルで強すぎる“メジャーリーガーズ”が大リーグの凄さに触れるほとんど唯一の機会だった。

 基本、海の向こうで超人たちがしのぎを削る未知のもの。だから、日本の野球ファンは、マイケル・ジャクソンやマドンナの来日公演を見に行く感覚で、神宮球場へ突然やって来たボブ・ホーナーの空高く舞うホームランを楽しんだものだ。そういう時代にNPBで「メジャーに一番近い男」と言われたのが、西武ライオンズの秋山幸二だった。

 西武黄金時代を支えた秋山は強くて速くて華があった。大学進学から一転プロ入りを表明し、80年ドラフト外で争奪戦を制した西武入り後に野手転向。田淵幸一の後継者として長距離砲の英才教育を受け(一方でそのセンスに惚れアベレージヒッターに育てようとするコーチもいたが)、田淵本人からバットを譲ってもらい使用していたこともある。

 アメリカ留学を経て、レギュラーに定着したプロ5年目の85年にいきなり40発を放ち、86年も41本、背番号を24番から1番へ変更した87年には43本塁打、38盗塁で初のホームラン王を獲得した。ちなみに3年連続40本塁打は、落合博満も松井秀喜も達成していない偉業である。

 86年から3年連続日本一の原動力となり、“AK砲”と称された相棒・清原和博をして、『北斗の拳』のケンシロウのようなバキバキの肉体で、「ネクストサークルにいて、空振りしてブンッて音したのは秋山さんと松井(秀喜)だけ」と言わしめる生粋のスラッガーだった(YouTube『片岡篤史チャンネル』より)。

 89年にはトリプルスリー達成、日本シリーズで巨人相手に4連勝した90年には35本塁打・51盗塁で盗塁王に輝く。この「30本・50盗塁」はNPBで秋山のみの偉業だ。三塁手から外野手転向後のセンターの守備は球界一と称され、87年から10年連続でゴールデングラブ賞を受賞している。


◆ ライオンズの象徴からホークスの支柱に

 来日した助っ人選手たちも「メジャーのどの球団でもレギュラーになれる」と驚愕するスピートとパワーを併せ持ち、打てて、走れて、守れて、ホームランを打ったらバク転までしてしまう。スーファミソフト『スーパーファミスタ2』ではホームランを放ちホームイン時にLRボタンを押すと、バク宙ホームインの再現ムーブができた(友達との対戦で連発すると挑発行為と見なされ友情にヒビが……)。

 そんな強い西武の象徴だった背番号1は、93年オフに恩師・根本陸夫が仕掛けた電撃トレードでダイエーホークスへ去り、翌年には石毛宏典や工藤公康も福岡へ。時を同じくして、10年間で9度のリーグ優勝、7度の日本一を成し遂げた西武ライオンズの黄金期も終わりを告げる。

 32歳での新天地、まだホームランテラスが設置されていない広大な福岡ドームの高いフェンスに阻まれ、94年は24本塁打に終わる(フェンス直撃でスタンドに入れ損ねた打球が覚えているだけで7本はあったという)。このオフには、セ・リーグの野球も一度経験してみたいと長嶋巨人へのFA移籍を考えたが、根本の説得もあり翌95年から王貞治が監督に就任するダイエー残留を選択する。

 しかし、世界の王が怒れば怒るほど萎縮してしまう若いチームをいかに強くするか。西武時代は石毛や辻発彦といった年上の選手に引っ張ってもらったが、今度は自分が若手を引っ張る立場だ。やがて本塁打王争いからは遠のき、守備位置はライトで起用されることも増えたが、個人記録よりも秋山はリーダーとしてチームを勝たせることに尽力するようになる。

 背番号1が初代主将に就任した99年、王ダイエーは初のリーグVと日本一を達成。秋山はペナントこそ打率.256、12本塁打と不本意な成績だったが、日本シリーズでは第1戦で右ふくらはぎに死球を受けながらも、攻守で若いチームを牽引しMVPを獲得する活躍をみせた(2球団でのシリーズMVPは史上初)。37歳となり、持病の腰痛は年々悪化していたが、短期決戦の経験と集中力は健在だった。

 シリーズ終了直後の日曜日、重圧から解放されたキャプテンはご機嫌に家電量販店で最新型のパソコンを買い、オフには趣味で写真に凝ったり、油絵を描く意外な一面も持っていた。

 2000年8月18日にはプロ20年目、自身2000試合目での通算2000安打を達成。ドラフト外選手では史上初の快挙だ。だが、01年はキャンプ中に右肩痛に襲われ、18年ぶりの開幕二軍スタート。一時代を築いた超人にも終わりは近づいていた。そして、プロ22年目の2002年、40歳の秋山幸二は「最後の1年」を迎えるのである。


◆ 無念の言葉と突然の引退発表

 オフ恒例のグアム自主トレで1日7時間のハードなトレーニングをやりきり、キャンプの声出しでは「もう一度、日本シリーズMVPを狙う」と宣言。02年オープン戦は35打数13安打の打率.371と、例年は花粉症に悩まされる苦手な春先から好調をキープした。初本塁打はチーム12試合目の4月15日の日本ハム戦、4月の月間打率.322と好スタートを切る。

 “ミスターメイ”と呼ばれた男は5月も3割キープ。しかし、6月になると不振に陥り、当時の『週刊ベースボール』名物コーナー「記録の手帳」では、秋山の4打席目以降の弱さが指摘されている。第3打席は57打数22安打の打率.386、しかし第4打席は32打数2安打の打率.063と急降下。あの王監督でさえ、現役最後の80年は3打席目まで打率.261、4打席目以降は打率.169と目に見えて体力と集中力が落ちていた。逃れようのない中年のリアルだ。

 6月8日のオリックス戦で放った第5号アーチを最後に本塁打は止まり、7月は月間打率.217までダウンした。打球は上がらなくなり、外野守備でもあと一歩が届かない。

 02年シーズンは、6月の日韓W杯サッカーの日本戦開催日はプロ野球も休みになる変則日程で、身体を休ませる時間はあった。それでも、去年までとは違い腰の状態は上がらず、下半身全体にしびれがくる。初めて妻に「もう、今年で終わりかな……」と告げたのもこの時期だ。最後と覚悟していたオールスター戦が行われた7月12日、秋山は東京ドームのスタンドに家族を招待した。

 球宴明けには誰よりも怪我に強かった男が、椎間板ヘルニアで4試合連続の欠場。そして、運命の8月20日を迎える。この日、西武ドームで首位を走る西武に連敗、残り試合を考えると絶望的な14.5ゲーム差まで広がった。もちろん当時はまだCS制度はない。

 自著『卒業』(西日本新聞社)によると、その夜のミーティングで王監督は「優勝はできないが、まだ2位の可能性はある。せめて一つでも順位を上げよう。個人成績をアップさせよう」と事実上のペナント終戦を口にする。あの勝つことに誰よりもこだわる王監督の無念の言葉を聞きながら、秋山は自身の中で張りつめていた糸が切れるのが分かった。

 これで終わりだ、と。

 その夜の内に、王監督の部屋を訪ね、現役引退の意志を告げる。当然、驚く世界の王から慰留されるが、秋山の意志は固かった。DHならまだやれたが、打って走って守ってこそ野球選手という己の美学を貫いたのだ。自分がそうだったように若い選手は先輩の生き様を見ている。貴重な出場機会も将来がある彼らに譲るべきだ。遠征から戻った8月26日、福岡ドームで引退記者会見に臨む背番号1。シーズン36試合を残しての突然の発表だった。


◆ 受け継がれていく常勝イズム

 02年10月5日、西武ドームでの西武戦に「1番センター」で出場。古巣選手会からの強い要望で実現したセレモニーは、バックスクリーンでの記念映像の上映に加え、始球式でかつての盟友・渡辺久信と伊東勤がバッテリーを組む豪華演出。試合後はレオナインによる胴上げで送り出された。

 翌6日は福岡ドームでのロッテ戦、前日と同じく「1番センター」で出場した秋山は、1回表の守備に就き、その裏の第1打席で清水直行の投じた3球目を打ち上げライトフライ。この9063打席目が現役最後のスイングとなった。

 こうして、秋山幸二は野球選手を卒業した。引退試合が終わり、腰椎分離症の手術に踏み切ると、医師から「普通の人なら車いすですよ」と言われる状態だったという。通算2157安打、437本塁打、1712三振。張本勲に次ぐ史上2人目の400本塁打・300盗塁を達成。9年連続30本塁打以上は王貞治の19年連続に次ぐ歴代2位。日本シリーズ通算15本塁打はONに次いで、清原と並ぶ3位タイだ。オールスター戦の18年連続ファン投票選出は日本記録でもある。

 記録にも記憶にも残るNPB史上最高の5ツールプレーヤー。あと10年遅く生まれていたら、イチローより早くメジャーリーグでスーパースターになっていただろう。その驚異的な身体能力だけでなく、タフなハートも併せ持つ。競争が厳しい西武時代に833試合連続出場を記録したように、とにかく多少の怪我では休もうとしない選手だった。

 ダイエー初優勝が懸かっていた99年シーズン、秋山は西武の松坂大輔から顔面に死球を受け病院へ直行。頬の骨折で全治2週間の診断も、なんとそのまま病院から球場へ戻り、試合終盤にはダグアウトで戦況を見つめる背番号1の姿があった。

 そして、すぐスポーツ用品メーカーの担当者を呼び、「腫れが引けば、すぐ試合に出るから左顔面を保護する特別仕様のヘルメットを準備してくれ」と頼むのである。もちろんすぐには戦列復帰できなかったが、王監督から「アキがベンチにいるだけでも、みんなは安心する」と頼まれ、チームには帯同し続けた。こういう不屈のリーダーの背中を見て育ったのが、若手時代の小久保裕紀だ。

 2020年日本シリーズで、ソフトバンクのベテラン長谷川勇也の一塁ヘッドスライディングが話題になったが、ああいう勝負への執念をホークスに植えつけたのは、秋山幸二の功績も大きいだろう。王者西武の遺伝子を福岡の地に持ち込んだ男は、初代主将と監督を務め、常勝ホークスの礎を築いたのである。

 さて、時計の針を少し戻そう。その秋山が全盛期の西武時代に2年連続のホームラン王を狙った88年、パ・リーグのキング争いで異変が起きる。40歳の大ベテランが、大本命・秋山を上回る44本塁打を放ってみせたのだ。その選手とは、“中年の星”と呼ばれた門田博光である。

(次回、門田博光編へ続く…)


文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)

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