『左ききのエレン』が描く、“凡人”として生きるための覚悟 「お仕事漫画」としての魅力を考察

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2020年12月26日 10:01  リアルサウンド

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『左ききのエレン 1』

「天才になれなかったすべての人へ」


参考:『裸一貫!つづ井さん』に学ぶ、腐女子の幸せな生き方 “自虐をしない”作風に込められた決意


 このキャッチに惹かれて本書を手に取った人の中には、“何者か”になることを夢見、それが叶わなかった経験のある人が多いことと思う。または今もその途上にあり、先を行く背中に圧倒的な力の差を感じ、呆然と佇んでいる人だろうか。自らを“天才”と自覚できる人がどれだけがいるのかわからないが、確実にこの世は天才になれなかった人であふれている。そういう意味で漫画『左ききのエレン』は、とても普遍的な物語だと言うことができる。


 本作は2016年より『cakes』上に発表しているかっぴーによる同名のwebコミックが原作。『フェイスブックポリス』に代表されるユルめのテイストで知られた同氏が、長編ストーリーに挑むとあって、当時大きな話題になったことを覚えている。連載は同年9月にはいったん完結したものの(現在は第2部が連載中)、10月からは『少年ジャンプ+』にてnifuniによるリメイクが開始。原作をなぞりながら、新キャラやストーリーを補完するエピソードもまとめられており、いわば完全版という位置付けだ。


 主人公は大手広告代理店に勤める駆け出しのデザイナー、朝倉光一。業界にその名を轟かすような有名クリエイターに憧れ、日々仕事に打ち込む毎日を送っている。だが、仕事も社内の評価も自分が思うほどには向上しない。焦る光一が思い出すのは、高校時代のクラスメイト、山岸エレンの存在だ。天賦の絵の才能を持つ彼女が、美術館の壁に描いたグラフィティアート。その絵は光一の心を動かし、エレンに勝手にライバル宣言をしていたのだ。物語はそんな光一とエレン、ふたりの歩む道を行き来しながら、クリエイティブな業界で必死にもがく人々の姿を描いていく。


 冒頭のキャッチコピーになぞらえるなら、“天才になれなかった”のが光一で、“天才”がエレンということになる。自分は特別と思い込み、いずれは誰もが認めるクリエイターになれると信じてやまない光一と、本能のまま絵を描くことしかできない自分に、コンプレックスを感じるエレン。ふたりの対比は持つ者と持たざる者、それぞれの苦悩を克明にあぶり出していく。そこで見えてくるのは「“天才”とは」「“才能”とは」という問いだ。本作を読んで感じたのは、“天才”とはいわばゲームで言うチートみたいなもの。生まれついての特性ゆえ、誰とも分かち合えない苦悩がつきまとう。他方、“才能”は後天的には発現してくるもの。努力や運、そのほかさまざまな外的要因によって伸ばしていくことができる。その証拠に、エレンはひとりでは不完全な人間だが、アートプロデューサーの加藤さゆりやデザイナーの岸あやのらと組むことで新進気鋭のアーティストとしての立ち位置を獲得していくし、光一は何度もくじけながら、自分に何もないがゆえの貪欲さで仕事のスキルを研ぎ澄ませ、結果を出していく。作中ではあやのがエレンを「突き抜けた天才」、光一を「立ち上がった凡人」と評する場面がある。つまりはアプローチこそ違えど両者は同列という意味だろう。単なる優劣ではない、陰と陽のような対比がそこにはある。“天才”と呼ばれる稀有な存在にはなりえなかったけれど、凡人として大成するなら、それもまぎれもない実力だ。『左ききのエレン』は“天才になれなかった”からこそ見える世界があることを教えてくれる。


 原作のかっぴー氏は広告代理店出身とのこと。特に光一のパートで描かれる業界のエピソードが生々しいのはそのためだろう。「入稿直前にクライアントからダメ出し」「万全を期したはずのはずのカタログに誤植」など、現場を知る人には胃が痛くなるような出来事の描き方が、本作を「お仕事漫画」としても楽しめるものにしている。そして、このリアルさが“凡人”たる光一のドラマを輝かせている。NYで覆面アーティストとして華やかな活躍を見せるエレンはもはやファンタジーだ。泥臭く仕事に食らいつく光一に、多くの読者が共感を覚えるのも、彼が私たちと同じ場所にいるからだろう。彼は“凡人”として生きる覚悟の体現者なのだ。(渡部あきこ)


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