皇族身分を失い、没落した“宮家”の地獄――悲しき妃殿下の「アアこれで万事休す」告白

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2021年01月09日 20:02  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

前回まで――「美しすぎる宮妃」として戦前に人気を博した梨本宮伊都子さん。妃殿下の職務として「看護婦業務」に並々ならぬ情熱であたり、子育てのほうもプリンセスが2人お誕生になられました。そのプリンセス、方子女王は朝鮮王朝へと嫁ぎ、規子女王は結納を交わしたお相手から婚約破棄されるという憂き目に遭ったものの、名家へ嫁がれました。しかし、その後、第二次世界大戦の訪れにより、梨本宮家は崩壊を免れず……。

梨本宮家の没落

堀江宏樹氏(以下、堀江) 第二次世界大戦中(1939−45)の梨本宮伊都子さまは、還暦前後のご年齢ながら、婦人雑誌のグラビアに生活のご様子が取り上げられたり、愛国婦人たちから人気者でした。とくに戦争初期は、東京での生活にさほど大きな影響はなく、充実した日々を過ごしておられたご様子です。梨本宮様も軍人としての活動に邁進されておられました。

 しかし……次第に戦局は日本に不利なように傾きはじめ、やがて敗戦の時を迎えることになってしまいました。ここから梨本宮家の地獄がはじまるのです。

――地獄、ですか……。

堀江 東京は空襲が相次ぎ、梨本宮邸はもちろん、各宮家の屋敷(東京の李王家の屋敷を含む)はすべて全焼という惨事に見舞われるのです。戦前にはあれだけ潤っていた梨本宮家ですが、終戦の頃には食べる物にさえ事欠くようになっています。

 梨本宮家は富士山ちかくの河口湖畔に別邸があったので、そこに疎開するのですが、なんとその周辺にも空襲警報が多発、強気な伊都子さまもついに「老人になってからこんな目にあふとは」と、嘆き節を日記に書きつけることになりました。

――庶民の625倍の生活費を持っていても、戦争で苦しむことになるんですね……。

堀江 1945年(昭和20年)8月15日、日本は運命の敗戦を迎えますが、昭和天皇による「玉音放送」を聞いた感想を伊都子さまは衝撃的な言葉で日記に記しました。

「アアこれで万事休す。(敗戦に打ちひしがれているだけでは)昔の小さな日本になってしまふ。これから化学を発達させ、より以上の立派な日本になさねばならぬ」というあたりは前向きでよろしいのですが、生命をかけて戦ってきたのに敗北した兵士の方々、その家族の無念を思うと、「どうしてもこのうらみは はらさねばならぬ アアアアーーーー(読みやすいように調節したが、だいたい原文ママ)」。

――なかなかに過激なお言葉ですが、リアルですね。

堀江 こういう率直なところが伊都子さまの魅力であると同時に、彼女の日記全文が活字として刊行されていない理由ではないかな、と思ったりもしますが。

 おまけに梨本宮さまは戦後すぐに、GHQから巣鴨勾留所まで出頭命令が出されていますし、ようやく戻ってこられたと思ったら、今度は皇族の身分を失う「臣籍降下」が待っていました。極めつけは巨額の財産税を課されたことですね。だいたい全財産の4分の3くらいの額を現金で納入せねばならなくなるのですが、このために焼け残った河口湖の別邸などの不動産や、蔵を埋め尽くしていた財宝や文物のほとんどすべてを売り払うハメになりました。

 戦前、庶民の625倍の豊かさで生きてこられた梨本宮家です。老齢になってから、いわゆる戦後成金に財産を買い叩かれるのは、これまでの人生を否定されるに等しく、屈辱以外の何者でもなく、ついつい日記にも過激な表現が並ぶようになります。

「ここにも敗戦のみぢめさをひしひしとこたへる(1946年/昭和21年7月29日)」
「(買い叩きに来た戦後成金の夫婦の姿を確かめようと)私はそっと窓のところからみていたら、主人は大きい人、妻はやせた小さい人にて(肺病でも出そうな形)(略)あんな人が富士の別荘に入るのかとおもふと(略)いまにバチがあたる(同年7月31日)」。

――悔しいのはわかりますが、「バチがあたる」かぁ(苦笑)。

堀江 「貧すれば鈍す」などとも言いますが、あれほど仲がよかった夫の(元)宮さまとの夫婦関係も悪化したまま、老老介護の様相まで呈して来ます。

「御湯なども、そばについていないと、あぶなくてならない。何かにつけて、それはそれはやかましい(1947年/昭和22年1月12日)」とか。痛ましいことですが。

――伊都子さまが老老介護かあ。使用人の数も足りなくなっているのでしょうね。美輪明宏さんが、人生は「正負の法則」に貫かれている、すごく幸せなことがあると、それと同じだけ不幸なことがあることも覚悟しなさい、って言ってたのを思い出しました。

堀江 そう。「早く死に度(た)い(1947年/昭和22年1月16日)」との言葉も飛び出していますね。この年の3月、財産税を梨本宮家では納め終えたのですが、同年10月には「臣籍降下」、つまり皇族としての身分を失う大事件が起き、さらにその翌日、蔵に残ったわずかな品物までが盗まれるという事件も起きました。

 それも、伊都子さまの夫である(元)宮さまの「背広」などだけでなく、毛糸で編まれた冬用の下着、靴下、シャツ、パジャマなどがまるごと盗まれるという悪質なものでした。憐れに思った昭和天皇が、自分の下着を届けてくれるなどして急場をしのぎましたが……。

――昭和天皇から下着の差し入れですか!? 皇族の身分を失い、毛糸のパンツすらも失って、まさに没落ですね……。

堀江 非常に寒々しい(笑)。まさに「斜陽族」ですよ。1950年(昭和25年)のお正月には伊都子さまの目前で(元)宮さまが昏倒なさいます。お正月、それも早朝のことで医者を呼んでも来てくれないまま、静かに亡くなってしまうという悲劇でした。梨本の(元)宮さまは、明治以降の皇族ではじめて火葬になった方としても知られますね。

 また、伊都子さまのお名前は、1958年(昭和33年)に巻きおこった「ミッチーブーム」の熱心すぎる「アンチ」として一部には有名かもしれません。

 皇太子殿下(現・上皇さま)と、美智子さま(現・上皇后さま)のご結婚に真正面から伊都子さまは反対なさっていた有力者の一人なわけですが、彼らがご結婚を批判した理由の一つが、は身分云々の問題より、実際のところ、「嫉妬」ではないかと僕は思ったりするのです。

――美智子さまに嫉妬ですか。面白くなってきました(笑)。

堀江 昭和天皇の皇后だった良子(ながこ)さまが、ミッチーに激怒した理由のひとつとして伊都子さまが記したお言葉があります。まとめると「私(=良子さま)の結婚の時に使われた馬車は四頭立てだったのに、彼女(美智子さま)が使う馬車は六頭立て」というお言葉なんですが、ここに「すべて」が現れていると思うのですね。

 美智子さまのご実家である正田家は「日清製粉」の経営者一族です。戦後、ますます成功しつつあった大実業家です。そんな実家を持つ美智子さまのお姿は、戦後、財産も名誉もほとんどすべてを失い、存在を否定されたに等しい旧皇族・旧華族にとっては、あまりに妬ましく見えたのではないかな、と。

 「皇后になる可能性まで、あなたは我々の手の中から奪っていくのか」という恨みですね。

――良子さまのご実家・久邇宮家も戦後、臣籍降下させられ、巨額の財産税で身ぐるみを剥がれてしまったお家でしたよね。

堀江 そうなんです。昭和天皇が美智子さまとの結婚を肯定して以来、伊都子さまは美智子さまへの批判をやめたとされますが、自分のミッチー批判の奥底に眠る感情が嫉妬であると気づいたからではないかな……。もしくは、そう他人に思われても仕方ないと思ったからかな、などとも考えてしまうのですね。

 また、こうした女の嫉妬以上に、ミッチー批判の理由として重大だったのは、日本が戦争に敗れ、かつての身分制もひっくり返ったのは、「神の怒り」ではないかという恐れだったのかもしれません。これについてはまた次回以降、お話ししていきたいと思います。

 さて、美貌と知性、そして強気な態度で、世界中の王室にもその存在を知られた梨本宮伊都子さまの足あとをたどってきました。

 戦後の伊都子さまの零落ぶりはたしかに悲しいものでした。あれだけ大邸宅に暮らしていたというのに、娘の方子さま曰く「池のほとりの小さな家」で晩年を生活することになっても、自分の幸せを趣味の和歌の世界などに求めつづけ、1976年(昭和51年)に数え年で95歳で亡くなるまでの長い時間を、それなり以上に元気に過ごされました。

 そういう伊都子さまを筆者はやはり素敵な方だと思うのです。

――次回からは「女官」をテーマに始まります!

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