ゴン中山、野人・岡野だけじゃない。輝きを放った「スーパーサブ」10人

1

2021年01月19日 06:11  webスポルティーバ

  • 限定公開( 1 )

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

webスポルティーバ

写真写真

 一般的に、サッカーの試合でスタメンに名を連ねる11人は、そのチームが勝利するために選ばれたベストメンバーとされる。しかし1試合を通して見た場合、選手交代カードが与えられる指揮官にとっては、スタメン以外のサブメンバーをいかに有効に使えるかが、チームを勝利に導くためのキーポイントとなる。




 なかでも試合の後半、「ここぞ」というシチュエーションとタイミングでピッチに送り出される控え選手は、いわば監督にとっての切り札的存在。だからこそ、彼らはサブのなかでも特別な戦力として、周囲から"スーパーサブ"と呼ばれる。

 日本サッカー界において、スーパーサブという用語を世間に浸透させたのは、ハンス・オフト監督が率いた日本代表でその役割を果たしていた中山雅史だった。

 きっかけは、1992年に北京で行なわれたダイナスティカップ決勝戦でのこと。

 韓国に1点のリードを許すなかで迎えた後半78分、あとがないオフト監督は福田正博に代えて前線に中山を起用。するとその5分後、その中山が値千金の同点ゴールを決めたのだった。結局、試合は延長戦で両チームが1ゴールずつを決め、PK戦により日本がダイナスティカップ初優勝を飾ることに成功している。

 以降、中山のジョーカー起用が定番化すると、日本が初優勝を飾った1992年アジアカップ広島大会でも、グループステージの北朝鮮戦の同点ゴールと準決勝の中国戦の決勝ゴールを途中出場でゲットして、その地位を確立。高木琢也、三浦カズ、福田ら前線に豊富なタレントを擁していたオフトジャパンにおいて、中山は勝負をかけるタイミングで起用されるスーパーサブとして、世間から注目を浴びるようになった。

 続いて日本代表のスーパーサブを継承したのが、岡野雅行だ。

 加茂周監督時代に代表デビューを果たした岡野は、俊足を最大の武器としていたことで試合終盤に起用されるパターンが定着。ところが、途中出場7試合目となった1996年8月のウルグアイ戦で初ゴールを決めてからはしばらくゴールから遠ざかり、次第に出場機会も減少する。

 面目躍如の舞台は、1998年フランスW杯アジア最終予選の第3代表決定戦、対イラン戦だった。予選途中で加茂監督からバトンを受けた岡田武史監督が、それまで最終予選での出場がなかった岡野を、2−2で迎えた延長戦で抜擢。すると岡野は、何度もチャンスを逃した末に、延長後半118分、W杯初出場につながるゴールデンゴールを決めたのである。

 結局、岡野が代表で決めたゴールはこれが最後となったわけだが、それでも多くのファンの間で「岡野=スーパーサブ」というイメージが定着しているのは、日本列島が熱狂した歴史的名勝負で劇的なゴールを決めたからにほかならない。

 日本が初めてW杯のピッチに立った1998年フランス大会では、その前年にブラジルから帰化して代表に加わった呂比須ワグナーが、スーパーサブとして全3試合に出場した。

 そもそも代表デビューを果たした最終予選のホームでの韓国戦以降、呂比須はレギュラーの座を獲得していた。だが、本大会に向けたチーム作りのなかで、岡田監督は城彰二をFWのファーストチョイスとして固定。それによってフランスでは控えに回ることになった呂比須だが、3戦目のジャマイカ戦では中山のゴールをアシストするなど、スーパーサブとして爪痕を残している。

 フィリップ・トルシエ監督時代のスーパーサブといえば、本山雅志の存在が浮上する。

 本山がスーパーサブとして最初にクローズアップされたのは、U−23日本代表。高原直泰、柳沢敦、中村俊輔、中田英寿といった錚々たる攻撃陣を擁するチームで、トルシエ監督は本山をスーパーサブとして起用。シドニーで行なわれた五輪本大会でも、得意のドリブルを武器に試合の流れを変える役割を託され、グループリーグ3試合に途中出場した。

 その後、所属の鹿島アントラーズでもスーパーサブとしてタイトル獲得に貢献した本山は、なかなか定着できなかったA代表でも、ジーコ監督時代の2004年アジアカップでスーパーサブとして活躍。大会連覇に貢献している。

 そのジーコ監督時代のスーパーサブといえば、大黒将志をおいてほかにいないだろう。

 とりわけ2006年ドイツW杯アジア最終予選の北朝鮮戦で決めた代表初ゴールは、見る者に強烈なインパクトを与えた。1−1で迎えた後半の79分に登場した大黒は、アディショナルタイムに値千金の決勝ゴールをゲット。翌日のスポーツ紙の一面には「神様、仏様、大黒様」の見出しが飾られるなど、一躍救世主として脚光を浴びたのである。

 その後、「大黒=スーパーサブ」が定着し、その年に途中出場で計4ゴールをマーク。翌年以降、代表での得点はストップしたが、2006年ドイツW杯でもスーパーサブとしてグループリーグ全3試合に出場を果たすなど、代表史においては中山に匹敵するほどの印象を残したスーパーサブだった。

 一方、Jリーグに目を向けても、スーパーサブとして輝いた日本人選手がいる。

 まずJリーグ初期の時代で印象深い選手を挙げるなら、名古屋グランパスエイトの森山泰行だろう。

 アーセン・ベンゲル監督が率いた時代を筆頭に、途中出場で数々のゴールを量産した森山が途中出場で決めた通算23得点はJ1歴代2位。帝京高校の後輩にあたる松波正信も、途中出場で通算14得点を記録するなど、のちにガンバ大阪を代表するスーパーサブとして活躍したが、数字も含め、森山が残したインパクトには敵わない。

 ほぼ同時時代に鹿島の黄金期を支えた眞中靖夫は、まさにスーパーサブが天職といえたアタッカーだった。

 宴会部長としてチームの盛り上げ役も買っていた眞中は、ピッチでも途中出場でチームにエネルギーを注入し、とくにトレードマークとなっていたキャノンシュートで重要なゴールを量産。途中出場でキャリア通算15得点を記録した。

 1990年代後半から2000年代にかけて活躍したのが、Jリーグ史における"キング・オブ・スーパーサブ"として知られる播戸竜二だ。

 1999年ワールドユースで準優勝に輝いた黄金世代のひとりである播戸は、ガンバ大阪、コンサドーレ札幌、ヴィッセル神戸、セレッソ大阪、サガン鳥栖、大宮アルディージャ、FC琉球と、21年にわたってプレー。ゴール前で何度も動き直し、ボックス内で決定的な仕事をするストライカーとして、途中出場でJ1通算27得点をマーク。この記録は、いまだに破られていない。

 その播戸がプロデビューした翌年にプロ入りした林丈統も、忘れがたいスーパーサブだった。

 ジェフユナイテッド市原でデビューした林は、とくにイビツァ・オシム監督が率いたチームにおいて途中出場でゴールを量産したことにより、スーパーサブとして定着。決して大きくはない体格ながら、勝負強さを武器に途中出場で通算18得点を記録した。

 林と同世代には、阿部吉朗というスーパーサブもいた。

◆CMにも登場した人気者ブラジル人FW。親子2代で鹿島に所属>>

 FC東京でプロデビューした2002年以降、大分トリニータ、柏レイソル、湘南ベルマーレ、ヴァンフォーレ甲府、ジュビロ磐田、松本山雅でプレーし、途中出場で林に並ぶ通算18得点を記録。純粋なストライカーというよりも、サイドMFもこなす万能型アタッカーとして活躍した。

 ここでは、思い出深い日本人10人を挙げたが、そのほかにもファンに強烈なインパクトを残したスーパーサブは多い。スタメン出場が叶わないなか、短時間で一撃必殺を見せるスーパーサブには、ある種、独特の魅力と輝きがある。

 果たして播戸をしのぐ選手は現れるのか、今後もスーパーサブの存在に注目したい。

    ランキングスポーツ

    ニュース設定