沈黙の巨人、「写研」が動いた “愛のあるユニークで豊かな書体”がわれらの手に届くまでの100年を考える

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2021年01月21日 10:02  ITmedia NEWS

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写真モリサワと写研の共同開発宣言
モリサワと写研の共同開発宣言

 1月18日、日本のフォント市場に大きなニュースが流れた。モリサワと写研の両社が、写研の所有する書体をOpenTypeフォントとして共同開発することで正式に合意したのである。



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 プレスリリースでは資本関係や相互の開発リソースについてどのような動きになるのかは具体的に述べられておらず、現時点では共同開発の合意について、それぞれの代表である写研の笠原義隆氏とモリサワの森澤彰彦氏が開発の声明を簡潔に出した、という段階である。合併や経営統合という内容のニュースではないので誤解なきように。



 なぜこのタイミングでリリースされたのだろうか。文字と関わりの深い出版やデザイン業界にとっては、もっと早い時期にリリースされていればよかったのにとか、せめて10年前に写研の手で発売することはできなかったのかという思いが強いだろう。モリサワもフォントワークスもイワタも定額制のライセンス契約で豊富な書体を使えるし、タイプバンク、リョービといったベンダーの書体もかなり以前からPCで使える環境にある。つまり、ほとんどのユーザーにとって日本語フォントのバリエーションに不自由はない状況なのだ。



 酷な言い方かもしれないが、かつては写植時代の巨人であった写研というブランドも、前世紀の現役デザイナーや写植・版下技術者であれば誰でも知っていた「石井明朝体」「ゴナ」「ナール」といった書体名も忘れられはじめ、伝説の一つとして記憶の引き出しに埋もれつつあったといえる。



 写研書体のフォント開発については2011年に開催された「第15回国際電子出版EXPO」にまでさかのぼる。私はこのイベントと同時開催されていた「東京国際ブックフェア・ライセンシングジャパン2011」に出店社として参加していたので、ブースでのセミナーや展示の雰囲気はよく覚えている。



 OpenType化されたフォントをリリースするに当たってのユーザーアンケートや、iPadで閲覧できる電子書籍に写研フォントが使われたプロトタイプなどが紹介され、ユーザーの期待は高まっていた。これでようやくmacOSやWindows上で写研書体が使えることを楽しみにしていたのだ。ところがこの発表後、写研は一般向けのデジタルフォント市場に製品をリリースしなかった。



 写研の書体で最もよく使われたと思われる石井明朝体は、いってみれば「始まりの写植書体」である。これを一般に使われるデジタルデバイスに復活させることは、写研の技術者にとって悲願であったことだろう。写研を創業した石井茂吉氏と、モリサワの創業者として写真植字機の特許申請に共同であたった森澤信夫氏は、創業当時のビジネスパートナーでもあったのだ。



 しかし両者はその後、袂を分かつことになった。モリサワは大阪を、写研は東京を拠点にし、写植機も文字盤も異なる製品として市場も分断することになったのである。



●グラフィックデザイナーは写研の書体とともにあった



 1970年代〜80年代のグラフィックデザインや出版においては、高価な文字印字装置である写植機を駆使して、印刷用の「版下」と呼ばれる原稿をつくるプロフェッショナルの存在があった。



 デザイナーは写植機を使うことができないし、版下もデザイナーが手掛けるとは限らなかった。とくに広告や雑誌のデザインでは多くの媒体を抱えるデザイナーは版下まで手をかけられない場合が多く、デザイナーは「写植・版下指定紙」と呼ばれるガイドラインが印刷された薄い紙に、鉛筆やシャープペンシルで「12QMM-A-OKL行21H送り/両カナツメ箱組」と記したり、「Photo1/角版アタリケイマキ」などと赤や青のペンで書き込んで、写植印字と印刷用の台紙を作ったりしていただいた。この台紙や指定紙に文字や図版の色を指定して印刷会社に入稿というプロセスになる。



 このとき必須だったのは写研やモリサワの見本帳と、穴のあいた透明プラスチックの級数スケールと呼ばれるものだ。見本帳は写研の青本、モリサワの黄色本(写植文字割付帳)と呼ばれていた。級数スケールは使う大きさの書体が、レイアウトするスペースにどのくらい入るのかというガイドライン。この3つがデザイナーの机上にいつもあった。そんな制作環境が80年代末まで続いた後、AppleのMacintoshによるDTPとPostScriptの時代が始まる。



●DTPとPostScriptフォント



 1980年代後半から90年代にかけてのパーソナルコンピュータによるDTP草創期に、写研は積極的に参加しなかった。これに対してモリサワは1987年に米Adobeと共同開発・販売契約を結び、最初の日本語PostScriptフォントとして「リュウミンL-KL」と「中ゴシックBBB」をリリース。Appleの日本語PostScriptプリンタである「LaserWiter NTX-J」や独Linotypeのイメージセッターなどに搭載された。モリサワは電算写植時代も書体のデジタル化に積極的で、1980年にはLinotypeとの合弁事業も行っている。国際化を見据えた書体のデジタル化については写研よりも先んじていた。



 1990年代はデジタルフォントとして写研書体が渇望された時代でもあった。特にモリサワ書体を指定し慣れていないデザイナーにとっては「え?YSEG-L使えないの?」「リュウミンなんかで本文を組めるかよ」「MG-A-KLでなきゃキャプション指定したくない」などという声もあった。



 そんな心理的抵抗もあり、デザイナーの多くがPCでのデザインワークをためらっていた時代があった。マガジンハウスはSun MicrosystemsのSPARCstationをベースとしたデザイン・レイアウト専用システムを独自に構築した。技術・学術系ではソニーのUNIXワークステーションNEWSを使ったTeXによる組版を活用する事例も多く目にしている。デザインやプリプレスの道具として、1990年代前半までは日本語フォントの少なさと品質に疑問が抱かれていた時代でもある。



 写研は引き続き沈黙を続けた。太平洋戦争後の一時期にモリサワと共同事業を再開したものの、この時期に表立っての事業提携や共同開発は行われていない。



●写研抜きの日本語フォント百花繚乱



 今世紀に入ってからはPCによるデザインと電子出版が当たり前のこととなり、デザイナーや出版界からは次第に「写研」の名詞を耳目にすることが少なくなってきた。机にあった定規や鉛筆、ペンとともに立てかけられていた写植見本帳や級数スケールも捨てられていき、写研が2011年にOpenType書体開発の発表をする前まではデザイナーの記憶から忘れ去られつつあるブランドだった。



 2000年代初頭はOpenTypeの普及と日本語フォントの定額制によるモデルが普及し、写植・版下制作会社の多くがプリプレスの一環としてDTPの専門家にシフトした時代でもある。



 写研の写植機経験が長いベテラン技術者にとっては、SK(写研製写植機の独自規格コード)で豊富な文字を自由に打てたのに、PCでは再現困難な場面に突き当たる歯がゆさもあっただろう。それでもPCの画面に向かいつつ、日本の組版文化をメディアの世界に継承していくことになる。当初はマシンやソフトウェアのスペック不足でストレスの多かった文字組版も、Adobeが2001年にリリースしたInDesign日本語版のバージョンアップと普及によって改善していった。



 2010年ごろにはベテランプロフェッショナルからも写研の記憶が薄れ、若手にとっては見たこともない写研ブランドの書体を現場で体験すらできないでいた。そんな時、2011年の国際電子出版EXPOでの発表で写研フォントへの期待が再び高まったのだった。



●失われなかった日本語書体



 写研が沈黙してから10年後の2021年に、2024年に迎える100周年記念事業として写研とモリサワの共同宣言。これは何を意味するのだろうか。過去にも両者は共同開発で手を組んだこともあるが、書体の著作権を巡って係争になったこともある。今度もまた袂を分かつのではないか、という懸念を持たれる方もいるだろう。私もその点は少し心配ではあったが、今回についてはこれまでとは意味が異なるように思う。



 写研は市場から渇望されていた書体を数多く持ちながら、その市場を自らの経営方針によって限定的なものにしてしまった。モリサワが海外との提携事業も行い、書体だけではなくデジタルコンテンツのマーケットにも関与する企業となった現在、写研にとっては共同開発という形でモリサワと協力することが、いまのところ最適解だからだ。遅すぎたとは言わないが、写研ブランドとしてこれからを生き残るための臨時列車にどうにか間に合った、というところだろう。



●3年後、どんな書体がリリースされるのか



 新しいフォントとして発表から最初のリリースまで3年の歳月を要するということは、OpenType化したフォントを少し手直しするというレベルではないように思う。グリフ数もAdobe-Japan1-3や1-4(2000年に制定されたAdobeの日本語文字コレクション)では3年後にリリースする製品としては物足りない。どんな用途にも汎用的に使えてグリフ数も多く、幅広いユーザーに愛用されるもの――。ではどの書体がその役目を負うのだろう。



 これは多くの方が発売を期待している「石井明朝体」と「石井ゴシック体」のファミリーになる可能性が高いように思う。将来的にはAdobe-Japan1-6以上のグリフ数を実装して、Googleの「Noto Sans」やAdobeの「源ノ明朝」「源ノ角ゴシック」の使い勝手に匹敵する多言語対応フォントとなり、時代の解像度に合った、より美しい改刻がされるのかもしれない。



 欧文フォントの世界では使用頻度の高い書体が常に改良を続けられ、時代のニーズに合ったものへとバージョンアップされてきた。DTP以前の時代に愛用されていた写研の書体は、「Helvetica Now」や「Linotype Univers」「Adobe Garamond Premier Pro」のように、多くの場面で長く使い続けられることになるだろう。



●「育手」であった鈴木勉氏



 最後に「スーボ」「スーシャ」といったポップで個性的な書体をデザインし、「ゴナ」や「本蘭明朝体」のファミリーを展開し、macOSの標準書体となったヒラギノ明朝体のベースをつくった鈴木勉氏のことに触れたい。鈴木氏とは生前お目にかかったことがあるが、多くの書体デザイナーを育てた魅力的な人柄と風格を併せ持った方だった。



 鈴木氏は字游工房の創立メンバーである鳥海修氏と片田啓一氏とともに写研から独立して書体を作り続け、1998年に亡くなられた。鈴木氏から経営のバトンを受け取った鳥海氏は片田氏とともに字游工房で数多くの日本語フォントを手掛けている。



 その1998年には写研から藤田重信氏がフォントワークスにデザイナーとして招かれ、筑紫明朝や筑紫ゴシックファミリーを生み出した。藤田氏と鈴木氏の接点は、鳥海氏や片田氏ほどの深い関わりはなかったと以前に語られていたが、鈴木氏がこの世を去られた年にフォントワークスに移られたのは、日本語書体制作の流れがモリサワとフォントワークスの2社が中心となることを示唆していたように思えてならない。



 そういった意味で、写研で活躍していた鈴木氏は多くの書体デザイナーにとっての「育手」であり、今回の共同開発をあちらの世界でうれしく思われているのではないだろうか。鈴木氏の手がけれらた書体はおそらくPCやスマートフォンの画面で復活する。印刷物やサイネージ、映像作品にも。



 「始まりの写植書体」も100年の時代を経て、同じプラットフォームに帰るのである。



※参考文献:『鈴木勉の本』編:『鈴木本』制作委員会発行:字游工房



(菊池美範)


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