PCから"IBM"が外れるまで 「IBM PC」からただの「PC」へ

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2021年01月21日 11:52  ITmedia NEWS

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写真表1:IBM PCシリーズの出荷台数
表1:IBM PCシリーズの出荷台数

 IBM PCの一族、という言い方も変だが「IBM Model 5150」の派生型及び後継機種は、1981年から1987年の5年間で、およそ500万台出荷された。ミリンド・M・レレ氏の“Creating Strategic Leverage”によれば、この7年間の出荷台数は表1のようになっている。



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 これは多分に丸めた数字であるし、ここには「PCjr」が含まれていない(累積出荷台数は25万台という数字がWikipediaにある)から、これを加えれば500万台は超えている計算になるが、1987年が妙に尻すぼみになっている(さらにいえば1986年も前年割れしている)のが分かるかと思う。



 このうち1987年については理由は簡単で、4月にIBM PC系列の全製品の生産を終了したからだ。もちろん流通在庫があるから販売は5月以降も続いたが、売り上げに大きな影響を及ぼすほどではない。



 なんでこんな結果になったかといえば、1986年が落ち込んだ理由にもつながるのだが、1984年をピークにIBMのシェアが急速に落ち込んだからだ。表2の元データは“Total Share: Personal Computer Market Share 1975-2010”のものを使わせていただいたが、表1の出荷台数を、IBM PC+互換機全体の台数で割った、いわばIBMのマーケットシェアを求めたものだ。



 1983年が落ち込んでいるのはIBM PC/XTが期待外れだった(市場が80286搭載マシンを期待していたのに対し、8088の4.77MHzのままだった)ことへの失望もあるのだろうが、翌1984年は大きくリカバーしているから、ここまではまあ問題はない。問題は1985年以降、急速にAT互換機が市場に大量投入され、しかも性能的にIBM PC/ATより優れて価格が安いものが少なくなかったことに起因する(Compaqがその最右翼である)。



 IBM PC/XTは意外に健闘しているが、これは主に法人/政府機関向けに仕様が定められた(互換機メーカーが参入できなかった)マーケットをうまく取れたことに起因する。とはいえこのマーケットにも互換機が入り込んできており、それもあってIBM PCは急速に売り上げを落としている。



 これはIBM PCの、というかドン・エストリッジ氏によるオープン戦略の副作用である。BIOSを含めた全ての仕様を完全に公開したからこそ、IBM PCとその互換機はあり得ないスピードでマーケットを席巻することになったわけだが、そうなると本家のIBM PC(とその後継機)が、単に高くてパッとしないだけの存在になるのもまた必然である。これはESD(Entry Systems Division)として捨て置けない問題であった。



 加えてもう一つ、IBM PCの欠点は貧弱なバスであった。何しろXTバスとは要するに8088の外部バスそのものだし、ATバスは要するに80286のバス以上のものではなかった。そもそも8088にしても80286にしても、基板上の複数のチップを接続することは想定していても、カードエッジコネクター経由で複数のカードを装着することは想定していなかったし、バスの速度も基本的にはCPUの動作速度に準ずる構成だったから、CPUの動作速度が上がるとたちまち動かないケースが頻出した。



 この2つの問題を一気に解決しようとした結果が、MCA(MicroChannel Architecture)である。これを開発したのは“Wild Duck”というニックネームを持つチェット・ヒース氏である。構造的には共有バス方式であるが、Address、Data、Arbitrationの3種類から構成され、8/16/32bitのデータ転送(メモリアクセス時24bitもサポート)、複数のDMAチャネルと割込み共有(Interrupt Sharing)が実装されたMaster/Slave方式で、最大で15までのSlaveデバイスをサポートした。



※Master/Slaveというのは最近の政治的に正しい言い方ではないのだが、何しろ1987年の規格だからご容赦いただきたい。



 動作速度は20MHz版と40MHz版が用意され、PC向けには24bit Address/16bit Dataで20MHz駆動、Workstation向けは32bit Address/32bit Data、40MHz駆動のものが用意された。いろんな意味でATバスよりははるかにI/Oバスにふさわしい構造であった。これを搭載したのが1987年に登場したPS/2(Personal System/2)シリーズである。



 問題は、



・MCAはISAバスと全く互換性がなかった。このため、拡張カード類は全て買い直し(というか、MCA対応のものに買い替え)になった。



・MCAの仕様は一般公開されず、これを利用したいというベンダーには高額なライセンス料が請求された。



というところにある。



 要するにこれまではBIOSの著作権でIBM PCという「資産」の保護を行っていたが、リバースエンジニアリングによりこの保護の意味がなくなった。そこでI/Oバスにロイヤリティーを課することで新たな保護にしよう、と考えたわけだ。



 この決定はおそらくエストリッジ氏のものではない。エストリッジ氏は1984年にはIBMの副社長にまで昇進。IBMの全世界の製造部門の責任者にまで昇格しており、ESDも彼の掌握する一部になっていたが、そのエストリッジ氏は1985年8月の飛行機事故で逝去している。MCAの開発がその前から行われていたのは間違いないが、互換性はともかく(これを維持するとそこが足かせになる)仕様を非公開としたのはエストリッジ氏の考えではないだろう。



 では誰の決定だったかというと、恐らくはエストリッジ氏の元上司であり、エストリッジ氏の死後にPS/2のマーケティングの責任者となったビル・ロウ氏と思われる。



 もともとOpen Standardにするという方針はエストリッジ氏が決めたことであって、生え抜きのIBMマンであったロウ氏からすれば、MCAのように技術を囲いこむ方が普通だったことを考えれば、これは不思議ではない。



 その結果は直ちに結果に現れた。1987年と1988年、IBMは合計で200万台弱のMCAマシンを出荷した。実はPS/2のうちローエンドになるModel 30とか、その後に追加されたModel 25などはプロセッサは80286のままで、バスもATバスを引き継いでいた。



 このPS/2の出荷台数にはこれらのローエンドの台数も含まれているため、MCAマシンそのものは2年の合計で200万台をだいぶ割り込んでいるはずだ。まぁそれはともかくとして、問題はIBMの市場占有率が10%まで落ちたことである。これには2つの要因があった。



 一つは純粋にMCAが忌避されたことである。最終的にライセンスを取得したベンダーは、サーバ/ワークステーション向けなどの製品を手掛けていた一部のベンダー(国内だと三菱電機がライセンスを取得、同社のapricotの一部モデルに採用した程度)であり、拡張カードもこれに対応したものは少なかった。比較的早い時期にMicro Channelに対応した(というか、そもそもMicro Channelの開発に当たってどうも共同開発をしていたらしい)Chips and Technologiesの82C611/82C612というバスブリッジチップを使うことで既存のXTバス/ATバスをMCA対応にすることも可能だった。



 この場合、MCAのバスライセンスは82C611/82C612に含まれているから、追加のライセンス取得は必要ないという話であったが、その82C611/82C612にはMCAのライセンス料というかロイヤリティーが上乗せされているわけで、結局無駄にコストが上がるだけであり、性能が上がるはずもなかった。



 もう一つの問題は、ATバスを引き続き利用するAT互換機が前年比の倍も出荷されたことだろう。IBMは頑張って100万台近いMCAマシンを出荷したが、IBM PC/XT/ATはIBM以外のメーカーに広くコンポーネントの生産委託を行うことで生産量を確保したが、PS/2シリーズの場合はこれの主要部分をIBMの内製に切り替えた。



 これにはいくつか理由がある。IBM PCシリーズの急速な発展に合わせ、IBMのさまざまな製造拠点も製造能力を急速に引き上げており、彼らに仕事を出す必要があったということがまず一つ。もう一つは、MCAが当時としてはかなりレベルが高い(=実装の難易度が高い)規格であり、そうそう外部に生産委託できなかったということがある。



 ただ市場は、まだそうした高性能な拡張バスを必要としていなかった、というのが正直なところだ。市場が必要としたのは高性能なプロセッサで、メモリはこのプロセッサの足を引っ張らない程度の速度があれば十分だった。拡張バスがボトルネックになる、なんて使い方は全体のうちのほんのわずかでしかなく、大半のユーザーのニーズは「今まで使っているATバスのままでいいから、高性能なプロセッサ(=386ベース。できれば386DX)と大容量(当時だから100MBくらい?)のHDDを積んでいて安いマシンが欲しい」であり、AT互換機メーカーはそうしたユーザーニーズに沿ったマシンを大量に出荷していた。



 余談ながらその386のシステムアーキテクトが、2月からIntelにCEOとして復帰するパット・ゲルシンガー氏であり、高卒で入ったゲルシンガー氏がどんどん出世していく大きなきっかけになった。



※その後、氏は在職中に大学と大学院の修士課程まで済ませており、最終学歴はスタンフォード大のEE&CS(Electrical Engineering and Computer Science)の修士となっている。



 ついでに言えば、386は最初のYield(歩留まり:1枚のウエハーからどれだけ正常なダイが取れるか)が0.5個/枚だった(当初の話だからIntelの1.5μm CMOSプロセスで、6inchのウエハーを採用しており、このウエハー2枚かろうじて良品が1個取れるというレベルだった)とか、にも関わらず一度生産が軌道に乗ると、ドル札を印刷するより儲かった(らしい)とか、ろくでもない話をいろいろ聞いた覚えがある。



 実際この当時のIntelのNet Income(当期純利益)を見ると、



・1984年:1億9800万ドル



・1985年:200万ドル



・1986年:-1億7300万ドル



・1987年:2億4800万ドル



というすさまじい変動ぶりを見せている。



 80386の最初の出荷は1985年10月で、この386の開発にかなりの金額を突っ込んだものの、製造の難しさや386のバグ(32bit乗算が正しく行えないとか、そもそも32bitプログラムがちゃんと動作しないとか、初期の386はさまざまな問題があった)の修正などで1986年は大赤字になるが、こうした問題を克服するとともに、AT互換機(やPS/2)が一斉に386に乗り換えた1987年には記録的な黒字に転換したわけで、実際にドル札を刷るより「本当に」儲かったかどうかはともかく、かなりの大儲けになったことは間違いない。



 話をIBMに戻すと、この失敗の責任を取る形でロウ氏は1988年にIBMを辞し、Xeroxに転職。1991年には航空機製造のGulfstream AerospaceなどいくつかのメーカーのCEO職を歴任することになる。



 IBMはその後、MCA路線は継続しながらもATバスを搭載した製品ラインを拡充して失地回復に努めるが、一度失ったリーダーシップを取り戻す(単にマーケットシェアでトップを取るという意味ではなく、IBM PCやIBM PC/ATのように、自分で規格を定め、それをPC業界が受け入れるという意味)ことには、今日に至るまで一度も成功していない。



(大原雄介)


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