浦和サポに土下座した清水の守護神。今も愛され続ける「クモ男」

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2021年01月25日 06:42  webスポルティーバ

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 Jリーグ28年の歴史のなかでサポーターによる署名活動はたびたび行なわれ、社長交代、監督交代、クラブ存続......さまざまな要望が出されてきた。

 そのなかで、一度は退団会見まで行なった選手の復帰を求め、そして実際にクラブが復帰へと舵を切ったケースとなると、この選手をおいてほかにはいないだろう。




 シジマール・アントニオ・マルチンス。

 Jリーグ創成期の清水エスパルスでプレーし、長い手足を伸ばしてシュートストップする姿から、『クモ男』のニックネームがつけられたGKだ。

 1962年6月13日生まれのシジマールは17歳でグアラニからプロデビューし、19歳だった1981年にU−20ブラジル代表に選出。20代は国内のクラブを転々とするキャリアを送ったが、31歳になった1993年に来日を果たし、2ndステージから清水の一員となった。

 Jリーグ開幕年の清水は1stステージ10勝8敗で4位ながらも、総失点25は10チームで下から4番目の多さ。2ndステージに向けた課題は守備の立て直しにあったなか、元日本代表DFの加藤久を獲得するなどしたが、課題解消の決定打になったのがシジマールだった。

 立役者の入団の経緯は、当時の清水の監督であり、ブラジル代表GKとしては1970年、1974年、1978年、1986年の4大会でW杯を戦ったエメルソン・レオンの誘いがあったから。当時のJリーグに来るブラジル選手にありがちなパターンだ。

 ブラジルのキンゼ・デ・ノベンブロから7カ月間のレンタル契約で、契約金は700万円。ゲイリー・リネカーやジーコなど、億を超える金額をもらう外国人選手と比べたら格安だ。

 しかも、この時点でシジマールに与えられた役割はGKコーチだった。ただ、シジマールが「僕は試合に出場するために日本に来たんだ」と直訴したことで選手登録され、コーチ兼任で正GK真田雅則の控えGKの役割を手にした。

 Jリーグデビューの機会は、思いのほか早く訪れる。2ndステージ第2節でゴールマウスを守ると、第3節からは6試合連続無失点を記録。正守護神の座をガッチリと掴み取り、選手一本に専念することになった。

 シジマールが守護神となった清水は、2ndステージ14勝4敗で26得点9失点。2ndステージの総失点はリーグ最少を記録し、優勝争いを演じて2位になった。

 このシーズンのシジマールと清水DF陣の鉄壁ぶりを物語る記録が、連続無失点時間記録だ。

 シジマールのJリーグデビューとなったサンフレッチェ広島戦で前半9分に失点して以降、第9節のガンバ大阪戦で53分に礒貝洋光にゴールを決められるまで、無失点時間は足掛け8試合731分に及んだ。これはJ1でいまだトップに君臨している記録だ。

 ちなみに、Jリーグ全体でシジマールの記録を上回ったのは、2006年にJ2で横浜FCのGK菅野孝憲が記録した770分。菅野は2008年から柏レイソルに移籍し、2009年に柏のGKコーチにシジマールが就任すると、そのシーズンに菅野は日本代表に初選出されている。

シジマールは身長183cmと、GKとして決して大きい選手ではない。だが、両腕を横に広げたウイングスパンは195cm。手のひらも縦22cm、横24cmと大きく、サッカーボールを片手で掴めるほど。この長い手足と大きな手を伸ばした姿がクモっぽいことから『クモ男』と呼ばれたが、同時にPK戦に強い『PK男』でもあった。

 PK戦で大きなインパクトを残したのが、1993年2ndシーズンで優勝争いするライバル・ヴェルディ川崎との一戦だ。この試合ではPK戦でカズ(三浦知良)と石川康のシュートを防いで白星を掴み取っているが、石川のPKは1度目で止めたものの、審判が「シジマールが早くに動いた」とやり直しの判定。それでも2度目もしっかりコースを読み切ってシュートを防いだ。

 1994年の1stステージでも清水は優勝争いに加わり、シジマールは不可欠な存在だった。だが、2ndステージからレオン監督に代わってロベルト・リベリーノ監督が就任すると、風向きが変わる。

 1970年W杯メキシコ大会から3大会連続で出場し、1974年W杯西ドイツ大会ではペレに代わってブラジル代表の背番号10をつけたブラジルの英雄は、3つの外国人枠をすべて攻撃的なフィールドプレイヤーに使うことを決断する。

 このあおりを受けて構想外となったシジマールは、シーズン途中の10月に退団会見を行なった。スポーツ新聞各紙は「GKシジマールを支えてくれた日本人に『ありがとう』と言いたい。誘いがあれば、再びエスパルスでプレーしたい」と、シジマールの未練を伝えている。

 すると事態は、ここから意外な展開を見せる。

 シジマール退団会見直後からサポーターが「シジマール復帰署名運動」を展開、そして12月になって2万6000人分の署名をクラブ事務所に持参した。2ndシーズン6位だったリベリーノ監督の手腕が疑問視されていたこととも重なって、クラブは監督を解任してシジマール再獲得へと舵を切った。

 退団会見から数カ月で清水に戻ってきたシジマールは、1995年シーズンは宮本征勝監督の意向もあって再びGKコーチ兼任で復帰。リーグ戦では14試合でゴールマウスを守り、シーズン終了後に引退した。

 Jリーグ3年間・61試合に出場したなかで、とりわけ印象深いのが『シジマール土下座事件』が起きた1995年4月26日の浦和レッズ戦(清水が3−2で勝利)だろう。

 試合中からシジマールと浦和サポーターは互いに挑発し合っていたが、決定打となったのは試合終了後にシジマールが浦和ゴールにボールを蹴り込んだ行為。シジマールは「5連敗がストップした喜び」と釈明したが、浦和サポーターには侮辱行為に映った。

 ヒートアップした浦和サポーターはパイプ椅子やペットボトルを投げ込み、50人を超すサポーターがシジマールめがけてピッチになだれ込んだ。この試合で3−2で勝利した清水の立役者としてマン・オブ・ザ・マッチに選ばれていたシジマールは、この騒動収拾のために土下座して謝罪したというもの。

 ただ、この話には続きがある。後年に浦和レッズのイベントに参加したシジマールは、土下座パフォーマンスを披露して浦和サポを沸かせた。こうした側面が現役引退後もシジマールが日本のサッカーファンに愛されている理由なのだろう。

 引退後のシジマールは、日本でさまざまなカテゴリーの指導ポストを歴任してきた。

 2003年4月から2006年3月までは静岡にある国際開洋第一高(現・菊川南陵高)でサッカー部監督兼職員を務め、2007年からは大阪学院大で特別GKコーチに就任。指導者としての経験を積むと、2009年〜2012年は柏レイソルで、2013年〜2014年はヴィッセル神戸でGKコーチを担った。その後、浜松開誠館高やタイ・プレミアリーグのタイ・ポートFCでも同職を歴任し、2017年からはJ3の藤枝MYFCのコーチを務めている。

 藤枝MYFCのコーチ就任1年目の開幕直後はチームのGKが手薄になったことで、54歳のシジマールが選手登録されて一時的に現役復帰となったことが話題となった。「もしも」に備えた約1カ月ほどの現役生活は、背番号44のユニフォームで1試合ベンチ入りしたものの、幸か不幸か出番は訪れずに終わっている。

◆CMにも登場した人気者ブラジル人FW。親子2代で鹿島に所属>>

「静岡のチームには特別の思いがある。自分より優れたGKを育てたい」

 これは藤枝MYFCのコーチ就任会見の際のシジマールの意気込みだが、こうした浪花節があるからこそ、シジマールは現役引退後も長く日本で必要とされているのだろう。

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  • サッカーでは珍しく超守備チームが強かった当時の清水エスパルス
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