これぞ脚本家・北川悦吏子の真骨頂! 『半分、青い。』からさらにパワーアップした『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』をホメゴロス!

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2021年01月27日 23:32  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

テレビ・芸能ウォッチャー界のはみ出し者、佃野デボラが「下から目線」であらゆる「人」「もの」「こと」をホメゴロシます。

【今回のホメゴロシ!】日テレ水10ドラマ『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』における「シェフの気まぐれサラダ」っぷり

 脚本家はしばしば、料理人に喩えられることがある。まず描こうとする題材や、作品を通じて訴えたいメッセージがあり、これが「メイン食材」だ。そしてその“食材”を生かすために創意工夫を凝らし、出来上がった作品が「料理」にあたる。だから、同じような題材を扱うドラマでも“料理人”のセンスによって、その味(内容)はまったく異なってくるし、“食材”をどう料理するかが料理人の技術であり、腕の見せどころというわけだ。

 現在、水曜10時枠で放送中の連続ドラマ『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』(日本テレビ系)が何かと話題だ。北川悦吏子脚本のドラマといえば、2018年放送の連続テレビ小説『半分、青い。』(NHK総合)が前作にあたるが、その作品性と作家性について書いた拙稿において、筆者は脚本家・北川悦吏子氏を「神」と呼んだ。ところで、聖書における「天地創造」は言ってみれば「素粒子という最小単位の素材をどう組み立て、形にするか」という神の創意工夫であり、アダムとイブに最初の選択を迫るツールも木の実だけに、極論すれば、神とは偉大なる“料理人”である……そんなやや強引なこじつけで、本稿では北川神のことを気持ち新たに「北川大シェフ」と呼ばせていただく。

『半分、青い。』を“凌駕する”出来栄えの最新作

 さて、『半分、青い。』から3年、今作『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』はどんな進化を遂げているのか。『半分〜』では自らの病気、子育て、母娘関係など、脚本家の半生をヒロイン・鈴愛(永野芽郁)と、その母・晴(松雪泰子)の姿に色濃く投影してポエティックにつづった「半分、自伝。」ともいうべき構造になっていた。『ウチ彼』もまた、どの登場人物も大シェフがしゃべっているように聞こえるという“北川テイスト”たっぷりだが、前作よりも主要人物の「依り代」感がパワーアップしている。

 というのも、Wヒロインの一人、母・水無瀬碧(菅野美穂)の職業を小説家に設定してあるものの、「物書き」という括りでは大シェフに同じ。もう一人のヒロインである娘の空(浜辺美波)は、漫画やアニメに造詣が深いいわゆる「オタク」で、これまた自身の娘と同じ。娘のことを「君」と呼ぶ“トモダチ母娘”の関係性、港区住まい、娘の自転車のサドルが高いetc.……大シェフがTwitterやインタビューで語る、自らの状況とそっくりなのである。いよいよこれは「半分」どころの話ではなく、「9割、自伝。」ではないか。

 当然『半分、青い。』との共通点も多い。まず、片言・ぶつ切りの話し方や「〜だ」「〜なのか?」など、吹き替え版『E.T.』のような台詞使い。『半分〜』では鈴愛だけだったが、『ウチ彼』では碧と空、母娘揃ってこの口調である。大シェフの日常ツイートを見れば、これらは北川母娘の普段の会話を色濃く反映させたものであることがわかる。プライムタイムのテレビという大舞台で日記を書く軽やかさ。さすがトレンディドラマで大天下をとった大シェフである。

 『半分〜』では律(佐藤健)が、『ウチ彼』ではゴンちゃん(沢村一樹)が担う、ヒロインの幼なじみであり「お助けおじさん」的キャラクターが存在するのも同じだ。大シェフが中学生の頃から大ファンだといい、『半分〜』に鈴愛の祖父・仙吉役で出演した中村雅俊はゴンちゃんの父・俊一郎役で続投。息子に次いで「お助けおじさん・その2」的な存在だ。つまり大シェフの依り代である碧は、(大シェフが思う)“イケメン”父子二代から「褒めて支えて慰めて」をやってもらっているという格好である。また、『半分〜』では律の実家、『ウチ彼』では碧の実家について、「昔は皇室御用達の写真館だった」という設定が2作連続でお目見えする。よっぽど大シェフお気に入りの小ネタなのだろう。

「お母ちゃんの中には3つのあんたも、5つのあんたも、13歳のあんたも、全部いる」

 これは『半分〜』で晴が鈴愛に向けた台詞。

「ここには、この家には、3つのあんたも、9つのあんたも、みんないるから」

 こちらは『ウチ彼』で碧が空に向けた台詞だ。おそらく大シェフが実の娘に抱く思いをストレートに書き表したのだろう。普通の脚本家なら、「思い」や「体験」という“原料”があるなら、それを技術で加工しアレンジを加えて、普遍化ないしは登場人物の言葉として成立させるだろう。だから元は同じ“原料”だったとしても、まったく違う一皿(シーン)となって視聴者に供されるものだが、「普通とは違うのだよ、普通とは」とばかりに、灰汁抜きしていない素材の味わいをそのまま出す大シェフの潔さに痺れる。

 大シェフによる恒例のイニシエーションも両作品で行っている。『半分〜』ではカエル柄のワンピースを永野芽郁に授け、『ウチ彼』では大シェフ大のお気に入りのブランド、TOGAのニットを浜辺美波に授けた(こちらは《あげたわけではない。衣装貸し出し。》とのこと)。おいでやす小田なら「断れるか〜〜〜ッ!!!!」とマンキンのツッコミを入れるところだろう。ちなみにこれに絡めて、碧が空に向けた「そのニット、永野芽衣が紅白で着てたTOGAだよね」という、内輪ノリの最たる台詞がある。テレビのこちら側は「それ必要あります?」という気持ちでいっぱいになるが、私物を貸し出してまでこの台詞が書きたくてしょうがなかったようだ。

 このように、『半分、青い。』と『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』では、場所を移転して店内の雰囲気は変われど、相変わらず同じ“食材”をネタケースに並べてあるといった風情だ。大シェフが90年代前半以前の感性で集めた大ネタ・小ネタに、調理も加工もほぼ施さず、ワイルドに盛り付けて「うちはこだわりの食材使ってるんで、塩(食卓塩)だけでいってください」とばかりにドーンと客前に出す「大シェフの気まぐれサラダ」。この自信と大胆さは賛仰に値する。

 さらに今作では、これらの「おなじみネタ」に加え、「えっとねえ、あのねえ、ヒロイン(≒私)はねえ、菅野美穂でねえ、麻布十番の商店街に生まれ育ってねえ、老舗写真館を畳んだ両親はスイスに行って山の写真を撮って暮らしててねえ、仕事でもプライベートでもイケメンに囲まれてねえ」と、大シェフの気分がアガるトッピングをメガ盛りにしてあり、いつまでも少女の心を忘れない大シェフによる夢小説のような味わいが、より強まっている。

 北川大シェフといえば、

《私はリサーチしないよ。極力。しても一回。なぜなら、想像の翼を折るから。》
《過剰な取材や、人と話すことは、しないようにした。その時、自分の感じることに集中しようとした。そこが、起爆装置。》
《いつもドラマや映画を作るために、リサーチをしているだろう、情報にアンテナを張るだろう、と言われますが、皆無です。てか、徹底して、一切、入れない。》

 とTwitterで語るように、取材をせず、関連資料も調べずに、内から湧き出るインスピレーションとフィーリングだけでホン(脚本)を書くことでおなじみだ。いやー天才ですよね。そして、他者の意見を多少参考にする場合も、

《ママ友に連絡しまくる私。生きた情報が欲しい!持つべきものは、ママ友!》
《ママ友情報、すごいっ。ありがたい。生きた情報。》

 と、ママ友や近しい友人知人、岩井俊二、家族の話にだけ耳を傾けるようだ。半径数メートル領域内でのヒアリングと、あとは、もはや常態化しているTwitterでのファンからのリプライによる“ネタ集め”。これらが大シェフの“気まぐれ下ごしらえ”の全てだ。

 「時流にキャッチアップしないわ調べないわ作劇」の結果として、第2話で、空が大学の同級生で隠れオタクの光(岡田健史)に言った「何で(カラオケで)米津玄師歌うの? 『ジャパリパーク』(『けものフレンズ』の主題歌)歌えばいいじゃん」という台詞が登場した。この「米津玄師=ウェイ系が歌うもの」と決めてかかった台詞に、SNSやネットでは総ツッコミが上がった。周知の通り、米津はかつて「ハチ」という名義で初音ミクを用いた楽曲を多数制作し、ニコニコ動画に投稿してその才能が知れ渡った逸材だ。つまり、オタク票を稼いでのキャリアスタートだったのだ。数多のタイアップをこなし、大メジャーとなった現在でも、彼を「オタクの星」のようにとらえているファンは少なくない。

 米津はその顕著な例だが、文化・芸術・芸能においてメインとサブの境目がシームレスになって久しい。というか、メインカルチャー/サブカルチャーという区別すら、すでに機能していないのかもしれない。多様化した今日では、人も物も「いずれの要素も兼ね備える」というケースが増えている。まあしかし、「根明」と「根暗」の二元論が支配していた80年代前半にキャンパスライフを謳歌し、脚本家として“華々しい”キャリアを積み、「恋愛の神様」と呼ばれて長年“万能感”にひたり続けてきた大シェフとしては、「オタク問題がデリケート? 知るかよ」ぐらいのノリなのだろう。常人ならば、こんなにツッコミの入りやすいテーマ、 よほど入念に調べる気概がなければ扱わないところ、娘と岩井俊二へのヒアリングだけで挑む “ベテラン”の風格。いやはや、あっぱれというほかない。

《私、新聞を三日分、一度も開かず捨てました、この前。暗に新聞取るのやめたい、と思ってます。》
《私は、恐ろしいものはあまり見られないです。テレビ。ニュースとかでも。》
《次から次へと情報が。流れるプールで溺れ死にしたくないので、ある時から、ショッタアウトするようになった。》(※原文ママ)

 今年で還暦を迎える大シェフは、いっさい社会に目を向けていないことを折に触れ吐露している。たいがいの脚本家や作家は、たとえ若い頃に「君と僕、あなたと私の世界」といった内向きの作品を書いていたとしても、年齢と経験を重ねるにつれ、視点と書きたいテーマが外へ、社会へ、マクロへと拡がっていくものだ。年を追うごとにこれだけ作品が私小説化、というか日記化する脚本家は他に類を見ない。

 内に向くなら向くで、自己との対峙の結果生まれるものを作品に昇華しているのかと思いきや、大シェフの場合、視点がミクロ化すればするほど脳内がそのまま転写されたような作品内容になるわけで、『半分、青い。』同様、『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』は心理学のテキストとしても非常に有用だ。『ウチ彼』を見ていると、大シェフが何に興味があり、何に無関心か、他者とどう関わり、何を羨望し、何を見下し、どうやって自己肯定感を保持しているかがよくわかる。この険しい時代、多くの脚本家が「見た人が、ひいては世の中が少しでも前向きになる一助となれば」という願いを込めてドラマを作っている中、徹頭徹尾「私がこうされたい! こう見られたい!」を書く脚本家も稀有だ。

 しかし、言ってみればこれが大シェフの“作家性”であり、こういったテイストを好む視聴者も少なからずいるのだろう。多様性、多様性。まさしくワン&オンリー、稀代の大シェフの、ますます“気まぐれサラダ”化するドラマ作りに、今後も着目したい。

※《 》内はTwitterでの北川氏本人の発言。原文ママ。

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