40歳で44発を放った不惑の大砲、ラストダンスは通算1520個目の三振」【門田博光・最後の1年】

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2021年02月02日 17:40  ベースボールキング

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思い出の球場でスタメン登場、1回裏一死二塁から空振り三振してファンに別れを告げた門田
◆ 『男たちの挽歌』第26幕:門田博光

「年食っても、ハンデもらえるわけでもシルバーシートに座れるわけでもない(笑)。40歳になっても4番打ってますからね。失敗は許されんのですよ。倒れたくても倒れられない。今日打てなかったら、明日のことが気になる。だから、40過ぎても夜中素振りしてから寝ようかな、と考えたりする。まあ、因果な商売ですよ。40にして惑わずどころじゃない」(『週刊ベースボール』88年6月13日号より)

 打率.311、44本塁打、125打点、OPS.1.062。かつて、これだけ打ちまくった「40歳のスラッガー」がいた。1988年の門田博光である。この年、門田は長嶋茂雄の通算444本塁打、王貞治の40歳時の30本塁打、野村克也の40歳時の92打点といった大打者たちの記録をことごとく更新する。

 昭和最後のシーズン、疲れたら800円のユンケルを飲んで気合いを入れた門田のように、サラリーマンたちも24時間戦おうと猛烈に働いて飲んで遊んで、当時の日本は未曾有の好景気へ突き進んでいた。『週刊ポスト』88年3月11日号の「竹村健一のジャパニーズ・ドリーム論」では、「この好景気現象はなんだ! 内需革命―これは明治維新以来の大快挙や!」というやたらとテンションが高い特集が組まれている。

 トヨタのクラウンは目標販売台数1万4000台に対して1カ月で5万台の注文が殺到。家電製品も好調でホーム・ベーカリーは松下電器だけで50万台が売れる大ヒット商品に。一番高いもので76万5000円もするパナソニック・オーダーシステム自転車は、月間500台の予想が1300台も売れた。今となっては現実感がない話だが、金が余っていたのだ。全国各地に豪華リゾート地が続々とオープンして、将来的にレジャー産業は100兆円に成長するだろうとまで言われた。

 そんな華やかな時代に「野球は打率じゃない。ホームランこそロマンだ」と無骨なフルスイングを繰り返し、弾丸ライナーを連発したのが背番号60だったのである。天理高時代は練習試合を含め本塁打ゼロだった外野手が、背筋とリストの強さを武器に社会人野球のクラレ岡山で猛練習を積み開花。当たりクジ付きのランプが回る自動販売機では百円あれば二、三本は飲めた驚異的な動体視力を誇り、身長は170cm弱と小柄だが、体重81kgのどっしりとした下半身から放たれる打球は凄まじかった。

全盛時には1キロの重いバットを振り回し重いボールで打撃練習という、『ドラゴンボール』の孫悟空の重い道着のような訓練を己に課し、相手チームの元三冠王ブーマー(阪急)も、「打球の速さは当時の日本では別格。一塁を守っていて、正直怖かったほどだ」と恐れていた。

 プロ2年目の71年に一本足打法で打点王を獲得、その後は度々確執が報じられたノムさんとクリーンナップを組み南海の主軸を張るが、30歳のキャンプ中に右アキレス腱を断裂してしまう。一時は再起不能と言われながらも、「ホームランなら歩いて帰って来られる」なんて不屈の闘志で、翌80年に自己最多の41本塁打を放ちカムバック賞を獲得。主にDHを主戦場とし、81年と83年にホームランキングに輝き、87年に通算2000安打を達成した。


◆ オリックスでの2年と変わりゆく時代

 関西の球場へは奈良の自宅から電車通勤。酒はほとんど飲まず、自宅に陶芸小屋を持ち、休日には油絵の絵筆を握る。ひとり旅を愛し、読書や家庭菜園をのんびり楽しむ異端のプロ野球選手。そんな寡黙な求道者は、88年に本塁打王、打点王、最高出塁率、MVP、正力賞と賞レースを総なめにする。門田はスポットライトを浴びにくかった当時のパ・リーグの南海ホークスにおいて、一躍“中年の星”と呼ばれ時の人となった。

 しかし、だ。皮肉なことに門田の野球人生の絶頂期に、南海はダイエーに身売りをする。88年10月15日、大阪球場での南海ラストゲームで門田も思わず涙。プロ入り以来19年間もプレーしたホークスにもちろん愛着はある。だが、九州は遠すぎた。子供が高校生で福岡に連れて行くなら転校させなければならない。自著『門田博光の本塁打一閃―ホームランに魅せられた男』(ベースボール・マガジン社)によると、一時は引退すら考えたが、迷った末にオリックスの上田利治監督に「関西にいなければならない状況にあるから、とってくれないか」と相談する。上田監督は「本当か」と念を押したうえで、すぐ獲得に手を尽くしてくれた。そのあとに近鉄からの打診もあったが、先に動いていたオリックスへの移籍が決まる。

 この時、南海側の決断が遅れ時間が掛かってしまい、門田は“中年のヒーロー”から一転、マスコミに叩かれてしまう。時はバブル絶頂だ。男は家庭を犠牲にして働くのが当たり前という昭和の価値観がまだ根強く残っていた。「ベテランのワガママ」「単身赴任しないのか」という理不尽な非難もあった。そんな雑音をオリックスで背番号78をつけた門田は己のバットで振り払う。

 松永浩美、ブーマー、石嶺和彦、藤井康雄らと破壊力抜群の“ブルーサンダー打線”を形成。もちろん『サタデー・ナイト・フィーバー』を撮ったジョン・バダム監督のアメリカ映画『ブルーサンダー』や、プロレスラー天龍源一郎の入場曲『サンダーストーム』とは何の関係もない。1970年代に大リーグ最強と謳われたシンシナティ・レッズの打線“ビッグレッドマシン”を参考に、新生オリックスの紺と黄色のユニフォーム=ブルーサンダーという発想だった。

 89年のオリックスは開幕8連勝とペナント序盤から走り、8月には一時2位に転落するが、そこから盛り返し121試合目にマジック9が点灯。近鉄とともに黄金時代の西武をあと一歩まで追い詰めるが、勝負どころでホームランを打った門田が出迎えた巨漢ブーマーとハイタッチして、右肩を脱臼するというまさかのアクシデントにも見舞われる。新人時代、ヘッドスライディングをしたときに外して以来、抜けグセがついてしまい頬杖をついてくしゃみをすると肩が外れてしまうほどだった。これ以降、門田は左手でハイタッチをするように心掛けた。

 最後は近鉄のブライアントの神がかった爆発力に優勝をさらわれ、ゲーム差「0」の2位に終わるが、移籍初年度の41歳・門田は打率.305、33本塁打、93打点という堂々たる成績を残した。翌90年も31本塁打を放ったが、オリックスは翌年からチーム名をブレーブスからブルーウェーブへと変更し、本拠地も西宮球場からグリーンスタジアム神戸へと移転することが決定。阪急ブレーブス時代から延べ15年に渡りチームを率いた上田監督は、「ブレーブスの名は消えるが、勇者魂を忘れないでくれ」という言葉を残し辞任する。昭和は終わり、平成の新時代が始まっていた。

 鈴木啓示、山田久志、村田兆治、東尾修ら同時代にしのぎを削ったエースたちはすでにユニフォームを脱いだ。あとどれだけ現役生活を送れるかは分からないが、最後は生まれ育ったホークスで終わりたい――。門田はそう熱望する。もう子供も大きくなり単身赴任でも問題ない。首位西武と40ゲーム差のぶっちぎりの最下位に沈んだ、ダイエー田淵幸一監督からのラブコールもあった。

球界を代表する42歳の主砲にもかかわらず、トレードではなく、異例の自由契約による同一リーグ球団への譲渡が発表されたのは90年10月15日のことだ。これにはオリックス内部からも「一選手のワガママに負けた」という厳しい声が挙がったのは事実だが、門田は「オレの人生、オレが主役」と九州へ渡った。ちなみに門田とほぼ入れ違いの形で、翌91年秋のドラフト4位指名を受け、ブルーウェーブに入団したのが、愛工大名電高の鈴木一朗である。


◆ 悲鳴をあげた身体

 猛スピードで時代は変わろうとしていた。好景気に陰りが見え始め、門田の1億2900万円とも言われる高額年俸と、ほぼDH専任の大ベテランを受け入れられるチームはダイエーしかなかったのも事実だ。新たに背番号53をつけた現役最年長の43歳は、91年6月7日に史上3人目の通算550号アーチを達成。オープン戦で左太ももを肉離れ、平和台球場の堅く老朽化した人工芝で何度も故障を再発させながら、18本塁打を放ってみせた。

 若手時代から「強振しすぎるな」とどれだけ注意されようが、耳を貸さず限界まで体をねじり強振した。世渡り下手な職人気質を持つ頑固者は、新興球団のダイエーで4500塁打を達成した際、花束が用意されていないことに腹を立てベンチから姿を消し、後日、球団社長が謝罪する騒ぎもあった。50歳まで現役という夢もこの男なら可能かと思われたが、迎えた92年シーズン、門田博光は「最後の1年」を迎えることになる。

 プロ23年目、キャンプでは重さ1.2キロのバットを振り5時間近く打ちこむ激しい練習を自分に課したが、開幕直前に右足のふくらはぎを痛め出遅れる。さらに追い打ちをかけるように、糖尿病からくる網膜症で2メートル先の字がかすみ出す。夏場までにわずか7本塁打。フルスイングを支えてきた44歳の肉体は悲鳴を上げていた。92年8月22日の近鉄戦、雨でノーゲームになったこの試合、左打席に入った門田はマウンドにいる投手の顔がぼやけて、ストライクのコースを見分けることもできやしない。

 睡眠不足にも悩まされ、すでに血糖値が危険な領域にまで跳ね上がり、田淵監督からは「カドよ、野球と自分の命とどっちが大切なんだ!」なんて心配されるほどの状態だった。8月30日、福島での日本ハム戦をついに「全身倦怠」の理由で欠場。その夜、門田は監督に引退の意志を伝え、翌日の帰りの福島駅ホームで「野球選手の老衰や。もう悔しさもない」とコメント。そして9月1日、精密検査のため福岡の病院に入院。4日には「カラダがボロボロになった」と現役引退を表明したのである。

 92年10月1日の近鉄戦、門田は「3番DH」でスタメン出場を果たす。この日は本拠地のシーズンラストゲームであると同時に、翌年から福岡ドームが完成するため、43年間の歴史を刻んできた平和台球場の公式戦最終戦でもあった。自身2571試合、1万304打席目、生涯最後の対戦相手は当時24歳の野茂英雄である。ちなみに新人時代の野茂に公式戦初アーチを浴びせたのは、オフから話題のトルネード投法に照準を合わせ準備していた門田だった。あのルーキーが、わずか数年で球界を代表するエースの風格を漂わせている。プロの厳しさを教えた相手に、今度は派手にとどめを刺されるのも悪くはない。

 1球目、145キロの直球を空振り。2球目も145キロを空振り。打席に入った際、捕手からの「3球ともストレートでいきます」という言葉通りの真っ向勝負だ。そして、3球目、147キロの直球もフルスイングで空振り三振。傷だらけの背番号53のラストダンスは、歴代2位の通算1520個目の三振だった。

「なにかもやり尽くし、自分なりにトライをし尽くし、すべて終わったな……と」

 試合後の会見で、晴れやかな表情でそう語った門田博光は、文字通りボロボロになるまで命を懸けてバットを振り続け、“職業・プロ野球選手”に別れを告げたのである。

文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)

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