EXO・D.O映画デビュー作『明日へ』から学ぶ、“闘うこと”の苦しみと喜び――「働き方」から見える社会問題

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2021年02月19日 22:02  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『明日へ』

 日本に暮らして、まもなく20年。すっかり日本になじんでいる私は、たまに韓国に帰ると、異国にいるかのようにソワソワした感覚に陥ってしまう。このまま日本に骨をうずめる覚悟でいるので、これからもずっと日本にお世話になりながら、この地で生きていきたいというのが正直な気持ちだ。 
 
 だが、そんな私にも理解しがたい日本人の態度がある。それは、権力の不正や理不尽な仕打ちに対する怒りを“行動”として表明しないことだ。例を挙げればキリがないだろう。安倍政権下で起こった森友・加計問題や公文書偽造、河井克行・案里夫妻の公職選挙法違反、検察庁の不正に菅政権誕生の経緯、東京オリンピックをめぐる諸問題……。近年、後を絶たない権力側の疑惑に対して、多くの国民は納得できないものを感じているにもかかわらず、それが明確な行動として示されることはほとんどない。ごく一部の人がデモに集う一方で、「そんなことをしてもムダだ」という諦めのようなムードが国全体を覆っているように思えるのだ。 
 
 そんな様子を目にするたびに、韓国ではこれでは済まされないだろう、という思いが頭をよぎる。これまでのコラムでも言及してきたように、韓国では国民の怒りが現実を変えてきた歴史がある。光州事件に端を発する民主化運動、「トガニ法」の成立、#MeToo、セウォル号沈没事故と朴槿恵大統領の弾劾などなど。だがそれ以上に、韓国人は生活の中で権力に対して理不尽さを感じると、1人でも、たとえ勝ち目がなくても、「デモ」という形で怒りを表明する「文化」を持っている。 
 
 私自身、そんな韓国の文化から距離を置き、デモに明け暮れる大学生活に嫌気が差して軍隊に行ったクチなので、日本人にとやかく言う資格もないのだが、それでも自国で起こっている看過できない事態に対して、まるで他人事のように振る舞う日本人の姿に、納得できないものを感じてきたのは事実である。 
 
 今回は、そんな韓国の「異議申し立て」文化を如実に示した映画を取り上げたいと思う。スーパーマーケットの女性パート従業員たちが、不当解雇に立ち上がった実話を元にした『明日へ』(プ・ジヨン監督、2014年)だ。わかりづらい邦題だが、原題は『카트(カート)』といい、スーパーでのストライキを象徴的に示している。

 07年に起こった実際の出来事を映画化した本作は、社会の中で置き去りにされている非正規雇用の女性たちの姿を女性監督が描き、今の時代に大きな意味を持つ作品といえる。韓国で作られた商業映画として、初めて非正規雇用問題をテーマにしたことや、EXOのD.O(ド・ギョンス)が映画デビューを果たしたことでも、公開前から大きく注目されていた。

<物語> 

 大手スーパー「ザ・マート」のレジ系として働くソニ(ヨム・ジョンア)は、真面目に業務をこなし、サービス残業も積極的に引き受けてきたおかげで、正社員への登用が約束され幸せいっぱいだった。ところがある日、彼女を含む非正規の女性労働者たちは、会社から一方的に解雇を通報される。ろくに説明もない会社の理不尽な態度に、シングルマザーのヘミ(ムン・ジョンヒ)、清掃員のスルレ(キム・ヨンエ)らは憤り、団結して闘おうと労組を結成。ソニもリーダーの1人に抜てきされ、交渉を試みるも、会社側は彼女たちに向き合おうともしない。

 このままではらちが明かないと判断した彼女たちは、ストライキを敢行しスーパーの占拠に踏み切るが、「不法占拠」として警察から排除され、逆に会社から訴えられてしまう。仲間同士を分裂させようとする会社側のさまざまな妨害に遭いながら、人間としての尊厳を必死で守ろうとする女性たちだが、ギリギリの生活の中で、家族との関係にもひびが入ってしまう。果たしてソニらは「良き明日」を勝ち取ることができるだろうか? 

 先述したように、本作は2007年に大手スーパーチェーンのレジ系を担当する労働者たちが、会社の不当解雇に立ち向かい実際に起こしたストライキを再構成した映画作品。当初は1日で終わる予定だったそのストライキは結果、彼女たちが再びレジに戻るまで2年という歳月がかかる長い闘いになってしまった。だがそもそも、なぜ不当解雇がなされ、ストライキに至ったのだろうか? その背景を知るためには、1997年のIMF時代にまで遡らなければならない。 
 
 国家的な財政の立て直しに追われたIMF時代(詳しくは、当コラムの『国家が破産する日』を参照)、企業による大量のリストラが余儀なくされる中で、爆発的に増え始めたのが非正規労働者だった。そして同時に大きな問題となったのが、契約期間や賃金など、正社員に比べると圧倒的に不安定な非正規の雇用条件であり、そこから社会に深刻な格差が生まれていったことだ。

 当然、改善を求めるデモやストライキが韓国各地で盛んに行われ、その結果、IMFから10年がたった07年にようやく、非正規労働者への差別改善と社会の安定化を図った「非正規職保護法」が成立。その内容は、有期契約で2年以上働いた非正規労働者の正社員への転換、同一労働・同一賃金を実現し、正規と非正規の待遇差をなくそう、というものだ。 
 
 ただし、ここには盲点もあった。正社員への転換はあくまでも企業の努力義務であり、「経営上の理由」から転換が難しいと会社側が主張し、妥当であると判断されれば、そのまま非正規として雇い続けることもできるようにしたのだ。もう一つは、近年日本の「働き方改革」においても、無期契約への転換を前に雇い止めになる弊害が問題となっているが、韓国でも同様に、2年後の正社員への登用を盛り込んではいるものの、これを悪用して雇い止めにする事例が数多く発生した。

 本作の元になったストライキは、まさに法制定を前にして、直前に手を打とうとした会社側の横暴が原因となっている。法の成立とストライキが07年という同じ年に起こったのは、決して偶然ではないだろう。

 こうした背景があってストライキが起こったわけだが、当時は大きな問題として社会の注目を集めても、次第に人々の関心は遠のいていった。だが、当時の闘いを細部にわたって丁寧に再現した本作が公開されたことで、14年においてもいまだ問題が解決していない状況――ストライキの2年後、労働組合の執行部の復職放棄を条件に、労働者たちの職場復帰は果たしたが、全員の正社員転換が完了したのは18年である――を、再び韓国社会に喚起させたのである。

 映画によって、あらためて労働問題をめぐる現実を突きつけられた韓国では、公開後も、自動車工場の解雇労働者たちの復職運動や、高速道路料金所従業員たちの正社員登用をめぐるデモなどが盛んに行われてきた。とりわけ本作でも描かれたように、非正規労働者は男性に比べて女性が圧倒的に多い。ただでさえ男性を優先する社会構造が根深く、女性の声が社会に届きにくい韓国において、正規/非正規の問題のみならず、男女間の差別を明確にメッセージとして描いた本作の意義は大きいだろう。

 本作ではまた、現実においてほぼ不可視化されている、さらに深刻な問題をもう一つ取り上げている。映画が作られた2014年前後に浮かび上がってきた「若者の貧困」だ。映画で中心に描かれるのはスーパーでのストライキだが、女性たちが立ち上がる背景には必ず「家族」の存在があり、映画ではそれぞれの家庭事情についてもきちんと踏み込んでいる。

 例えば、夫が出稼ぎに出ているらしいソニの家では、息子のテヨン(EXO・D.O/ド・ギョンス)が給食費を払えずに昼ご飯を食べられなかったり、修学旅行の費用を稼ぐためにコンビニでアルバイトをすれば、店主からひどいパワハラを受けて悔しい思いをしたりする。テヨンの友人・スギョン(チウ)はさらに劣悪な貧困下にあるが、彼らは似たような境遇から次第に心を通わせていく。

 アルバイトに励む高校生は、社会の中で最も弱い立場にある労働者であり、彼らを保護するような法整備はいまだなされていない。また、スーパーの仲間の中にも、大学を卒業したものの就職ができず、非正規のレジ係として働くミジン(チョン・ウヒ)という人物がおり、彼女はまさに「若者の貧困」問題の象徴的な存在として描かれる。 
 
 韓国には「88万ウォン世代(88만원 세대)」と呼ばれる、雇用不安にさいなまれる20代を指し示す言葉がある。正社員として就職できず、非正規労働者になった若者で、その平均月収は最低限の生活を維持することもままならない「88万ウォン(約8万円)」であることから生まれた造語だ。そこには、民主化が進んだ90年代に私立大学の設立基準が緩和され、その結果、大学生の数が急増したという背景がある。

 学歴社会である韓国において大学の卒業証書は就職の必須条件であり、高校生は少しでも安定した未来を手に入れようと、必死で勉強に励む。設立基準を緩和して大学を増やし、入りやすい環境を作ることは本来、熾烈な受験戦争を解決するための政策だったはずだが、今となってみればそれが逆効果となり、実績の低い大学を政府が「リストラ」する動きにつながる。大学生の急増は就職難に直結し、さらなる非正規労働者を量産する結果となったのだ。

 入社試験に落ち、非正規労働者として闘うことを選ぶミジンは、まさに「88万ウォン世代」といえるが、この世代の現実を表す造語にもう一つ「サンポ世代(삼포세대、3つを放棄した世代)」というものがある。これは、就職難や不安定な労働環境、高騰する住宅価格、生活費の逼迫などによって「恋愛・結婚・出産」の3つを諦めざるを得ない若者たちを示すもので、韓国社会が抱える最大の課題を端的に表す用語として使われている。 
 
 こうして考えると、非正規労働者の問題は、ソニやヘミといった子どもを持つ親だけでなく、その子どもや若者、そして高齢者のスルレまで、ほぼ全世代に関わっていることがわかる。このままでは、高校生であるテヨンやスギョンの未来はミジンであり、ミジンの未来は子どもを育てながら必死で働くソニやヘミであり、ソニやヘミの未来は孤独な一人暮らしのスルレである可能性が非常に高い。

 これほどまでにつらく厳しい現実を、どうすれば次の世代に受け継がせずに断ち切れるのか。その答えこそが、デモでありストライキではないだろうか。社会から守られていない彼らは、理不尽な仕打ちに立ち向かい、不当な解雇と闘い、自らの権利を自らの手で勝ち取るしかないのだ。

 『明日へ』は、韓国で「11月13日」に公開された。この日は、韓国における労働運動の歴史を象徴する運動家「チョン・テイル(全泰壹)」の命日である。彼は1970年、劣悪な労働環境の改善を訴える運動の中で軍事政権から弾圧を受け、抗議の焼身自殺を果たした人物だ。「労働者は機械ではない」と叫びながら散っていったチョン・テイルの精神は、その後の労働運動に大きな影響を与えたといわれている。

 命を落としたソウルの清渓川(チョンゲチョン)には、彼の銅像が立っており、その意志は今もなお多くの人に受け継がれているのだ。映画の最後で「私たちを透明人間扱いしないで」と叫ぶソニの姿には、チョン・テイルの精神がはっきりと見える。 
 
 強制排除に出た警察が無差別に放つ放水に向かって、「カート」を武器に突進するところで画面は静止し、闘いが現在進行形であることを暗示して映画は終わる。彼女たちがその闘いに勝利することは、もちろん簡単ではない。だが、諦めずに立ち向かい、その果てに己の権利や正しさを勝ち取って初めて、そのカートの中は幸せで埋め尽くされるのだろう。

 独裁政権を打破し、自分たちの手で民主化を勝ち取ることに成功した韓国人は、闘いの苦しみとその果ての喜びを知っている。私は日本人にも、闘うことの苦しみと喜びを味わってほしい、そう思うのだ。

崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。

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