「イチローを贔屓」 敵味方として戦った元選手が明かす“仰木マジックの正体”

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2021年03月01日 16:00  AERA dot.

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写真オリックス時代の仰木彬監督 (c)朝日新聞社
オリックス時代の仰木彬監督 (c)朝日新聞社
「『仰木マジック』と言われる意味がわからない」

 本西厚博は、敵と味方の両方からの視点で仰木彬を知っている。世間一般のイメージとは異なる、名将の実像を教えてくれた。

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 本西は87年から阪急でプレーし、92年までは近鉄監督時代の仰木と対戦。そしてオリックス時代の94年から97年途中までは、同じユニフォームを着て指揮官のもとで戦った。イチロー(元マリナーズほか)、田口壮(現オリックス外野守備・走塁コーチ)とともに、外野のレギュラー(主に中堅手)として活躍。当時の3人は『最強の外野陣』とまで形容された。

「仰木さんはオーソドックスな野球。『マジック』など何もなく、セオリーに沿った正々堂々の伝統的野球だった。外野を守備の良い3人で固めたのもそう。選手やオーダーが変わっても結果を残したから、『マジック』という名前がついたと思う」

 近鉄では5年間(88〜92年)全てでAクラス入りし、89年にはリーグ優勝を経験。続くオリックスでの計9年間(94〜01、05年)では2度リーグ優勝(95、96年)し、96年には日本シリーズ制覇を成し遂げるなど、6度のAクラス入りを果たした。まさに名将と呼べる結果を残している。

『マジック』と聞くと、従来と大きく変わったことをやっていたように思われる。革新的なものを取り入れ、古い野球を打ち壊したと言う人もいた。確かに打線を何通りも組み替え、変幻自在に相手チームを惑わす野球をした。加えて選手のモチベーションを上げるのが抜群に上手く、起用法も絶妙だった。しかし実際は、相手チームを研究し尽くした上で、勝つ可能性のある野球を行った。

 近鉄、オリックスでは、『マジック』という名称が独り歩きした感もあった。しかし試合に臨む準備段階からチーム組織がしっかり機能していた。スタッフそれぞれが役割を遂行し、最終判断を下すのが仰木だった。

「仰木さん自身の印象や閃きではなく、完全にデータで野球をやっていた。試合で結果を残しても、次の試合で相手投手との相性が悪ければスタメンを外される。新井宏昌さんが作戦コーチだったので、2人でオーダー編成をやっていた。『こっちの打者の方が打っていますよ』という感じで新井コーチが伝えていた。そういう会話をベンチやクラブハウスで聞いたことがある。昔から行われていた戦法、当たり前のセオリーを重視していた」

 結果を出しているのに、試合で使われないこともある。レギュラー奪取を狙う選手や、一、二軍の当落線上の者にとっては理解し難いこともあったはず。しかし監督のやり方に慣れれば、自らのパフォーマンスを発揮、チームに貢献しやすかった。プレーしやすい環境だったと本西は語る。

「予告先発なので、前日の試合中に次の日の出番を判断できた。自分自身、相手投手との相性も分かっているから。試合当日もリードしていれば守備固めから行く。もう1点欲しい時は代走から行く。状況に応じて自分の中で準備できる。代打の時は『ちょっと振っておいてくれ』とも言われる。身体、気持ちの持って行き方が分かりやすかった」

 基本はセオリーに沿った野球を好んだ仰木だが、状況への柔軟な対応も持ち味だった。また通常では考えられないような策を取ることも、稀にあった。予想していない采配を振るった時には、当然周囲は面食らう。中心選手として黄金時代を支えた本西でさえ、信じられないこともあった。

「左投手相手に複数安打を打ったが、翌日の予告先発は右投手。『明日はスタメンではないから』と新井コーチに試合中から言われていた。遅くまで飲みに行って、翌日の試合前も寝不足だった。試合序盤、ベンチ裏で休んでいたら、田口壮が呼びに来て『代打です』と。準備なんてしてないし、『なんで?』て聞いたら、うちの打線が爆発、先発が変わって左投手が出て来たと。こっちは納得いかないよね」

 前夜の疲れも残り、試合序盤は体力の回復に努めていた。今では考えられない光景だが、それも許される牧歌的な時代。急いで準備をして打席へ向かった本西は、見事に本塁打を放った。頭がスッキリしない中でダイヤモンドを1周したが、当時三塁ベースコーチに立っていた仰木監督とのハイタッチをせず本塁ベースを踏んでしまった。

「わざとではない。監督が手を出したのが分からなかったので素通りした。後から『モト、怒ってるのか?手出してんのに』って聞かれた。『いや、ほんとに気付かなくて』という感じで、その時は終わった。まあ、交代するほど点差もついてたし代打はないだろうと思っていたからね。でも仰木さんの中で閃きがあったのかな」

 対戦相手との相性でスタメンが変わったり、監督自身の閃きなどによって起用される選手もいる。しかし一方で、チームの柱となる選手は固定して動かすことはなかった。その筆頭がイチローであり、仰木も徹底的に贔屓していた。しかしそれが許された状況であり、上手く回る環境であったからこそ、当時のオリックスは強かった。

「イチローに対してはエコ贔屓をしていた。そこを周囲の選手がどう考えて、自分自身で割り切るのか。アイツは別格だと割り切れればチームは機能する。自分の立ち位置を見つけて自分は自分でやる。例えば、イチローは移動なども1人だけで、大変だなと見ていた。もちろん中には割り切れない選手はいたと思うよ。でもそういう話は出なかったし、仰木さんからそういうフォローもない。逆にイチローが一緒に移動して周囲がガヤガヤするより、我々もやりやすかった。試合に間に合って結果を出せば良い、という考えが主流だった」

「大人の選手が揃った時は、仰木さんの野球ができて凄いチームになる。自らの立ち位置を客観視でき、それに向け準備できる。また突然の出番にも慌てずに対応する。他の選手の待遇や起用方法を気にすることなく、自らの責務を果たす。大人の選手がたくさんいたからできた野球。『マジック』を確立できた理由はそこだったのかもしれない」

「凄い星の下に生まれていたとは思う。野茂(英雄・ドジャース他)、イチローの監督になれる確率ってどれだけある?一緒にやってチームが結果を出して、2人ともメジャーに行って世界的な選手になった。イチローやパンチ佐藤など、登録名変更も話題となった。眼力はもちろん、タイミングの良さ、実行力などもスゴイ」(94年、仰木の発案で鈴木一朗がイチロー、佐藤和弘がパンチに登録名を変更)

「魅力ある人だった」

 仰木自身の人間性にも『マジック』を生み出す要因があったのだろう。世間で言われる『運』を持ち合わせている。状況を的確に把握、画期的に変えるアイディアを生み出す力量にも長けていた。そこに『大人』の選手が集うことで、チームとして強さが発揮された。

「現在、最も大人のチームと思えるソフトバンクの監督をやっていたら、どうなったかな?」

 4年連続日本一、NPBで飛び抜けた存在になりつつあるチームを指揮したら……。どんな『マジック』が生まれたのかを想像するのは、実際に仰木を知っているからだろう。(文・山岡則夫)

●プロフィール
山岡則夫/1972年島根県出身。千葉大学卒業後、アパレル会社勤務などを経て01年にInnings,Co.を設立、雑誌『Ballpark Time!』を発刊。現在はBallparkレーベルとして様々な書籍、雑誌を企画、編集・製作するほか、多くの雑誌、書籍、ホームページ等に寄稿している。Ballpark Time!公式ページ、facebook(Ballpark Time)に取材日記を不定期更新中。現在の肩書きはスポーツスペクテイター。

このニュースに関するつぶやき

  • この人の悪いとこは個人成績無視やからな。イチロー以外は(笑)
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  • マジック多用での成功例はボビーくらいでしょ、後の監督は殆ど正道起用よ。ちなみにマジック多用で失敗監督の筆頭はAHRAなhttps://nico.ms/sm23980811?cp_webto=share_tw-androidapp
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