上皇さまの貴重な秘話も 「週刊朝日」が報じた大正、昭和、平成、令和の皇室史

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2021年03月02日 17:00  AERA dot.

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写真小磯良平が描いた美智子さま
小磯良平が描いた美智子さま
 本誌「週刊朝日」が創刊されたのは1922(大正11)年2月25日。その4年後には大正天皇が崩御し、昭和が始まった。99年の歴史を振り返ると、今ではあり得ないような貴重な皇室報道の記録がぎっしり。本誌が報じた大正、昭和、平成、令和の皇室とは?

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*  *  *
 創刊号の大正11年2月25日号は、東宮時代の昭和天皇がスキーに初挑戦した記事ではじまった。

 茶色く変色した創刊号の定価は、1部10銭。

 崩れ落ちそうな表紙を慎重にめくってゆくと10ページ目に最初の皇室記事を見つけた。

<スキーを御試乗遊ばされし 東宮の英姿を拝して 男爵 稲田昌植>

 本誌第1号の皇室記事を執筆した人物は、スキーの練習相手を務めた男爵であった。

<七千万の国民が無限の敬愛を捧げつつある東宮殿下には此の日富士山麓に於て、初めてスキーの御練習を遊ばされた──>

 天皇制を研究する、名古屋大学大学院の河西秀哉准教授はこんな印象を受けた。

「記事を読み進めると、当時の東宮殿下(昭和天皇)は英国の上流階級のスポーツである乗馬やゴルフ、テニスもたしなむと書いており、新しい皇室像をアピールしようという思いを感じます」

 英王室に対する手厚い報道が続くのも、この時代ならではの特徴だ。この年4月に英皇太子が来日すると、摂政宮(のちの昭和天皇)が騎乗で閲兵する写真が表紙を飾り、グラビアや本誌で何号にもわたり特集を組んだ。

 英皇太子に週刊朝日を寄贈した際にもらった感謝状は、1ページ目に大きく掲載。

「それまで日本の皇室がお手本にしてきたドイツ皇室は、4年前の大正7(1918)年に皇帝の廃位をもって消滅。日本は、皇室の手本を英国王室にしたばかりのタイミングで、国をあげて英国王室を歓迎する当時の熱気が伝わる誌面です」(河西准教授)

 大正天皇と貞明皇后、摂政宮や次男淳宮(秩父宮)、光宮(高松宮)、澄宮(三笠宮)をはじめとする天皇一家に対しては、かしこまった報道をする一方で、宮家の特集は、ぐっと国民に寄った誌面になっている。

 同年6月、赤坂離宮(現在の迎賓館)で各宮家の懇親会が催された際には、<若宮殿下姫宮殿下>の特集記事が掲載された。

<お写真を撮らして頂きたいと願ひ出れば『ウン好し、写して行き給へ』と快くレンズの前に立って下さる世の中です、皇族と国民の接近は、誠に喜ばしい事ではありませんか>

 記事は時代の変化を素直に喜び、見出しは子どもらしさを伝えている。

<北白川宮永久王殿下はクラスのチャンピオン そして御馬も御上達><軍艦の模型をお作り 山階宮家の若君方><朝香若宮も姫君も皆様御運動好き/室内遊戯より戸外を御喜び>

 朝日新聞の宮内庁担当記者であった石井勤さんは、距離感が変化した背景には、明治43(1910)年に侯爵になった北白川宮輝久王を皮切りに、昭和初期まで続いた男性皇族らの降下があったと話す。

「お金のなかった明治政府にとって、人数が増えた宮家皇族のための予算は重い負担でした。明治期に、政府は宮家皇族を徐々に華族身分に降下させる方針を固めた。そのため、世の中は皇族から国民の側へくる人たち、というやわらかな距離感があったのでしょう」

 大正13(1924)年には、摂政宮と久邇宮家の良子女王が結婚する。世間はお祝いムードに包まれた。週刊朝日も<御二方いろいろの御姿>としてグラビアページで特集。お二方の数種類のポーズ写真を切り抜きでレイアウト。

 いまよりよほど、自由な誌面だ。

 戦前、戦時中になると「週刊誌らしい」記事は消える。昭和10(1935)年に臨時増刊号として愛新覚羅溥儀を表紙にした<満州国皇帝陛下御来訪記念写真画報>を出し、「皇軍」「皇国」といった言葉は躍るが高松宮と喜久子妃による戦災地の視察などわずかな記事をのぞき、皇室報道自体ほぼ誌面に登場しない。昭和20(1945)年8月15日の終戦を迎えた最初の8月26日号には、昭和天皇による終戦の詔書の全文が1ページを使って掲載された。

 終戦翌年の昭和21(1946)年でも「アメリカの輿論 天皇および天皇制」「皇太子様の英語の先生 ヴァイニング婦人来朝」など3記事程度。

 昭和24(1949)年でも記事数は多くはないが、<天皇御一家のこのごろ(本社記者座談会)>(1月2・9日合併号)では、東京裁判と昭和天皇の留位、退位問題についてざっくばらんに朝日新聞の担当記者が語り、<皇太子の教育を注目>(昭和25年10月1日号)など皇位継承者である皇太子の教育問題を報じている。

 昭和27(1952)年には、明仁親王(上皇さま)が18歳の成年を迎えるとともに立太子の礼が執り行われた。この時期になると本社記者による<そこが聞きたい この頃の皇太子さま>の座談会シリーズが定期的に掲載される。小金井の学習院中等科の寮生活時代に、学友が皇太子に対して<このごろわがままで仕方がないといって林の中に連れて行き、気合かけたことがあるそうだ。(笑)><新聞記者は嫌い>、英語についても<スピーキングはあまりおとくいではないらしい>など、内緒話がほほえましい。

 明仁皇太子のお妃選びに正田美智子さん(上皇后さま)が登場すると新聞、テレビ、週刊誌を問わず報道は過熱した。昭和33(1958)年12月7日号では、宮内庁の婚約内定発表を前に、報道陣が正田家を取り囲む様子を、<池田山はてんやわんや 正田家のこの一カ月>として掲載した。当時の混乱ぶりがよくわかる。

<テレビのカメラが隣家の二階に備えつけられた。(略)正田家では、窓という窓には全部、たえず、カーテンをおろさねばならなくなった(略)ヘリコプターも上空を飛びまわった。(略)午前十時ごろ美智子さんとお母さんは玄関を出た。だが自動車が動き出すと十二、三台もの車が後を追う。赤信号でストップすると、とびおりて横からシャッターを切る。ドアをあけようとするカメラマンも出たため、二人は恐怖におびえてしまった>

 翌34(1959)年4月10日にお二人のご成婚の儀が執り行われた。週刊朝日御成婚記念特別号の表紙を飾ったのは、日本を代表する洋画家である小磯良平氏による美智子さまの肖像画だ。婚約間もない1958年12月10日。小磯氏は、朝日新聞社の依頼で肖像画を描くために正田家を訪れていた。

 美智子さんは、お妃教育で忙しい身だったが、50分だけスケッチの時間を空けてもらった。絵を描きながら小磯氏は、こんな感想を抱いた。

「美智子さんかお母さまかが『描いていただくなら、正面よりななめ横の方がいい』といわれたように記憶している。けれど、私は正面のほうがいいと思っている。安定したいい面立ちである。目がたっぷりした感じで、どこか東洋的なものを感じさせ……おじいさん(貞一郎氏)の古武士のような風格を、どこかに受け継いでいるように思う」

 素描画は新聞に、着物を着た油彩画は週刊朝日の表紙を飾った。

 元日本テレビプロデューサーの渡辺みどりさん(86)は、婚約会見とご成婚のなかでミッチーブームに沸いた当時の熱気を体感したひとり。

「皇族でもない華族でもない民間出身の皇太子妃の誕生。そしてお見合いによる結婚が当たり前であった時代に、テニスコートでの運命の出会いですから、日本中が衝撃を受けたのは当然です」

 渡辺さんも、体当たりで取材に挑んだが、明仁皇太子の浜尾実侍従はよく話してくれた。宮内庁側とマスコミの間に、ある種の信頼関係が存在していた時代だった。浩宮(現天皇)さまと礼宮(秋篠宮)さま、紀宮さま(黒田清子さん)が生まれ、「ナルちゃん憲法」や皇室の慣習を超えて子どもと一緒に暮らす等身大のご一家の姿がメディアに報じられた。

「人びとは昭和の理想の家族を、ご一家に投影したのです」(渡辺さん)

 昭和の幕がおり、時代は平成に移った。

「象徴天皇として初めて即位した明仁天皇は、政治が期待する天皇像と自ら追い求める像との間でギリギリの立ち位置を探り続けた」(前出の石井さん)

 平成4(1992)年10月。中国との国交正常化20年の節目に、明仁天皇と美智子皇后は中国を訪問した。週刊朝日は、同行した石井さんのドキュメント記事<「天皇」初訪中、五泊六日の旅>を掲載した。

<十月二十三日 警視庁が警察官二万六千人を動員、テロ、ゲリラを厳重警戒する中、天皇、皇后ご夫妻は午前、東京・羽田空港を北京に向け出発した。首席随員は渡辺美智雄副総理・外相──>

 中国政府が非武装の学生や一般市民を武力弾圧し、多数の死者を出した天安門事件によって中国は世界から非難を受け、孤立する。中国の外相を務めていた銭其シン元副首相が、回顧録で「西側の対中制裁を打破する目的があった」と明らかにしたように、中国を国際社会に復帰させる第一歩だった。当然、日本の国内世論も割れた。

 さらに、平成6(1994)年には、経済摩擦などで両国間が「戦後最悪」と揺れる渦中の米国訪問、平成10(98)年の英国、平成12(2000)年のオランダ訪問は、戦争の傷痕と対面する旅となった。英国で旧日本軍の元捕虜団体は、両陛下の馬車に背を向けシュプレヒコールを浴びせた。

 石井さんが振り返る。

「平成の前半の皇室は、政府の外交に巻き込まれた時期だった。国事に関するすべての行為に内閣の助言と承認を必要とする天皇として、政治の意思は受け止めざるを得ない。その一方で、たとえば天皇訪中には国内でも賛否がある。『日本国民の総意に基づく』地位にある者として、だれもが納得する訪中にしなければならない。そんな状況にあって、明仁天皇は国の象徴としての姿勢を完璧に保ち、やり遂げました。戦争と敗戦によって皇居は焼け、皇室解体の危機を目のあたりにした天皇は、皇太子時代から象徴とはどうあるべきか、と考え続けた。だからこそ、ぶれのない判断力とバランス感覚で、この修羅場を潜り抜けたのです」

 天皇ご一家の顔ぶれは、礼宮さまと川嶋紀子さん、徳仁皇太子と小和田雅子さん、紀宮さまの結婚。眞子さまと佳子さま、愛子さまに悠仁さまが誕生と増えていく。週刊朝日が出した臨時増刊号や写真集は、飛ぶように売れた。そしていま、令和の皇室が始動している。(本誌・永井貴子)

※週刊朝日  2021年3月5日号

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  • ‥皇室史は良いが‥先々の皇位の一系継承がどうなるかですよ‥
    • イイネ!2
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