希代のグルマン小泉武夫、モクズガニの悦楽 食後はしばらくうっとり

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2021年03月05日 17:00  AERA dot.

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写真小泉武夫
小泉武夫
 発酵の摩訶不思議な世界に人生を捧げ、希代のグルマンとして世界中を旅してきた小泉武夫さん。定年後の第2ステージに選んだのは、北海道石狩市だった。連載5回目は、モクズ蟹が登場。大好物の食材を豪快に食べ尽くす、グルマンの調理法も必見だ。

【写真】モクズガニが茹で上がると…

 五月下旬のある暖かい日の昼、私は石狩川の土手の上からのんびりと川の流れを見ていると、遠く川上から一艘のべか舟が下ってきて、眼下の舟着き場に係留した。舟に乗っていたのは親船研究室からそう遠くないところの新築家屋に住んでいる漁師の国貞軍治さんである。私は散策しているときによく出会うので、挨拶はとっくに済んでいるだけでなく、最近は立話までする仲だった。

 軍治さんは七〇歳だと言っていたけど、がっちりした体躯と張りのある顔は年齢を感じさせない若さがあった。私は堤防の上から手を振ると、手拭いで頬被りした彼も私に気づき手を振り返し、すぐに煙草に火をつけて口にくわえるのが見えた。そして、こっちに来い、来いと大きく手招きする。

 私は堤防からつまずきそうになりながら走って舟着き場に行くと、軍治さんは舟の上の竹籠を見ろ、と言う。そこには、握り拳大のモクズ蟹が何十匹と蠢いていた。それを見て私はどうにも抑えきれないほどの喜びと興奮を覚えた。それというのも、私はさまざまな蟹の真味をよく知りつくしてきているからである。大学の教授の時代、趣味がこうじて機会あるごとに世界中を旅し、さまざまな食べものを味わってきた中で、大好物の蟹はことごとく舌を滑らせ流涎してきた経験を持つからであった。

 日本では北海道の毛蟹、タラバ蟹、花咲蟹、北陸のエチゼン蟹、長崎の渡り蟹、沖縄のノコギリガザミやタイワンガザミ、小名浜のクリ蟹、鹿児島のアサヒ蟹、海外ではカムチャッカ半島の巨大なタラバ蟹、アマゾン奥地マナウスの泥蟹であるカランゲージョ、アラスカのダンジネスクラブ、カリブのストーンクラブなどなど枚挙にいとまがないほど多種多様の蟹を食べてきた。

 蟹というのは、種類によって味は千差万別といったほど違いがあって、またその辺りが楽しみであるのだけれども、これまでの私の舌の分析では海産の蟹よりも淡水の蟹の方が断然美味だと思っている。それは確かに、ズシリと重く身の詰まった最高値をつけられた毛蟹の上品な白い身と山吹色の味噌の美味さといったら舞い上ってしまうほど美味しいし、エチゼン蟹の上品な甘みにも舌躍頬落するのであるが、例えば中国シャンハイ蟹や南米のカランゲージョのような淡水系泥蟹、そして日本の河川に棲息しているモクズ蟹を食べてみると、海洋性のものとは味がまったく異なる。野趣味がある上にいわゆる蟹味噌の味が濃厚で、メスの持つ赤みがかった山吹色の卵巣の美味さは、耽美なほどの木目の細かい甘みとうま味を持っていて秀逸であるのだ。

 軍治さんは蟹籠の中からモクズ蟹を一匹上手に手でつかんで私に見せてくれた。その蟹は実に大きく大人の握り拳ほどあり、がっちりとした鋏や脚、いわゆる褌といわれる部分にもモサモサと毛が生えている。

「今年の蟹の型はいいべさ。今袋に入れてやっから持って行って食ったらんめばい」

 軍治さんはそう言うと、獲物の蟹を入れて運ぶ木綿製の袋に十匹ほど放り込み、袋の口を紐でクルクルと縛ってから私に渡してくれた。蟹の入ったその袋はズシリと重く、中でゴソゴソと蠢いているのが手に伝わってくる。

「いやあ嬉しいですよ。予期せぬ出来事がこんなに美味しい出来事になってしまうんだから。それじゃ遠慮なくいただいて、今夜は蟹汁、蟹めし、茹で蟹で豪華な酒を飲りますよ。今度また実家の酒届けますから」

 そう言うと、私は心を弾ませて蟹の入った袋をぶら下げ、土手を昇ったところで振り返り、軍治さんに手を振って研究室に戻った。

 その日は早めに札幌の自宅に戻ると、心を弾ませてモクズ蟹の料理をした。全てガサゴソと活きている蟹なので、細心の注意をしなければならないことはよくわかっている。とにかくこの蟹の逃げ足は驚異的なほど速く、ずっと前の話だが、九州から送られてきたモクズ蟹が一匹家の中で逃げ出した。捕まえようとしてもその素早さにはどうにもならず、ついに台所の奥の方に逃げ込んでしまい、一体どこに隠れてしまったのかわからなくなってしまった。それから一週間もの間、奥の方でガサゴソ這回っていたようだが、ついによろよろと力なく出てきたところを捕えたことがある。

 また、この蟹の鋏に挟まれると、その激痛は指が千切れるのではあるまいかといったほど強烈な上に、とてもしぶとい奴で挟むのを止めようとしないから大変なことになる。

 私はそのようなことを知っているので、先ず軍手を両手に填めて万全を期し、蓋付きの鍋に湯を沸騰させ、そこに布袋から蟹を一匹ずつ取り出して生きたままを五匹、放り込んで茹で蟹をつくった。一五分も茹でると蟹の甲羅は真赤になって眩しいほど美しくなる。次に蟹の炊き込みめしをつくった。俎板の上に鋏も脚もつけたままの生きた蟹をのせ、出刃包丁で左右二つにぶつ切りする。これを二匹つくる。電気炊飯器で通常通り米三合を入れて洗米し、ダシ汁四〇〇cc、みりん四〇cc、醤油四〇cc、酒四〇ccを加え、あとは定量線まで水を張り、その上にぶつ切りにした蟹を並べ置きしてからスイッチオン。残りの三匹も俎板の上で四ツ割りし、あとはそれを具にして通常の味噌汁をつくる要領で蟹汁をつくった。

 こうして、軍治さんからいただいた初めての石狩川のモクズ蟹を賞味してみた。先ず煮た蟹を大皿に五杯も盛ると、真っ赤な色彩の美しさだけでなく、豪快豪華そのもので私はそれを見ただけで、パブロフ博士の犬君のように涎が自然に出てきて興奮した。とにかく蟹を一杯つかみ取ると、ズッシリとして重い。心ときめかせて胴部と殻部をパカッ! と割るようにして二つに引き離すと、わああ、凄い。嬉しい。甲羅の内側にも、胴体の中央部あたりにも、例の赤みがかった橙色の蟹味噌がベッタリと付いている。

 すかさずそのあたりに口を付け、舌でペロペロしたり、チュウチュウと吸ったり、舐めたりした。その蟹味噌の濃厚でコクのある味は、たちまちのうちに私の大脳味覚野系器官に反射されて、もう極限の美味状態に達したのである。この世に、人間がいまだに本性をつかみきれていない幻の真味があるとすれば、正しくこの味かも知れない。「淡味集合して濃味を成し、その濃味強からずして無上の淡味を呈す」。私はその石狩川のモクズ蟹の味をこう綴った。

 大型で褌の小さな雄蟹のむっちりとした肉身は、甘く上品なうま味で充満し、また褌は大きいがやや小型の雌蟹の、赤みがかった妖しいほどの代赭色の卵巣は、クリーミーなコクと濃いうま味が絶妙であった。モクズ蟹の炊き込みご飯は、ぶつ切りにした蟹の身が飯の中にゴロゴロと入っていて、その飯粒は、蟹のエキスや蟹味噌などを吸って、薄い橙色に染まっていてとても美しい。蟹の身とご飯を丼に盛って食べたところ、飯の一粒一粒に蟹の甘みとうま味が付いていて、さらに蟹味噌や卵巣からのコクもクリーミーな感じに付いていて、それが飯の耽美な甘味に包み込まれて絶妙であった。

 モクズ蟹の味噌汁も、濃醇なコクとうま味に満ちていて、飯にぴったりと合っていた。私は石狩川の蟹の上品で優しいうま味に感動し、食後はしばらくの間うっとりとしてしまった。これまで食べてきた全ての陸棲淡水系蟹の中でも、味は決して劣らず、すばらしいものであった。(続く)

■小泉武夫(こいずみ・たけお)/1943年、福島県生まれ。東京農大名誉教授で、専攻は醸造学、発酵学。世界各地の辺境を訪れ、“味覚人飛行物体”の異名をとる文筆家。美味、珍味、不味への飽くなき探究心をいかし、『くさいはうまい』など著書多数。

※週刊朝日  2021年3月5日号より抜粋

このニュースに関するつぶやき

  • モクズガニ美味しいです。岐阜にお参りに行くと網で売ってるので買います。安いけど味噌はとても美味しいです。ゆでるばかりで炊き込みご飯は考え付かなかったです。次の冬やります。
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  • なんでも食べる人か、まだ若いね https://mixi.at/a4Vv3ib
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