「ソドム」は同性愛によって滅びたのではなかった──同性愛者はなぜ救われない? キリスト教の男性優位主義

23

2021年03月08日 11:02  日刊サイゾー

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

日刊サイゾー

写真『あなたが気づかないだけで神様もゲイもいつもあなたのそばにいる』(学研プラス)
『あなたが気づかないだけで神様もゲイもいつもあなたのそばにいる』(学研プラス)

 ローマ教皇が同性婚を容認する発言をするも、カトリックの総本山バチカンはこれを否定──。そんなニュースが世界に流れたのは、2020年の12月だった。

 発端は10月にローマで開かれた国際映画祭で上映されたドキュメンタリー映画の中で、フランシスコ教皇が「同性のカップルにも婚姻関係に準じた権利を認める『法的なパートナーシップ制度』の整備が必要」と語ったと、イタリアメディアで報じられたこと。かねてよりリベラルといわれてきたフランシスコ教皇だが、カトリック教会には同性愛を否定してきた長い歴史がある。バチカンは、この教皇の発言について、「教会の教義に言及したわけではない」と、教義の変更を否定する文書を各国の司教に送っていた。このように、バチカンが教皇の見解を文書で解説したり否定したりすることは極めて異例だという。

 カトリックのみならず、プロテスタントにおいても、つまりキリスト教全体で同性愛は罪であり、神がこれを許さないと固く禁じてきたことは周知の事実だ。そのようなキリスト教会の姿勢は、西欧社会全体にも広く影響を与えてきた。

『同性愛と異性愛』(風間孝・河口和也/岩波新書)という本によれば、イギリスでは同性間の性行為をはじめ、婚姻以外の性行動や、婚姻内でも生殖を目的としない口腔・肛門性交、獣姦などを指して、「ソドミー行為」と名付け、1533年には国王ヘンリー8世によってソドミー行為は「自然に反する行為」として死刑が科せられていた。この「ソドミー行為」の名前の由来は、旧約聖書にある、同性間の性行為を住民が行っていたことを理由に神によって焼き滅ぼされたとされている町の名前「ソドム」である。

 20世紀のアメリカでも、60年代までは同性愛は「性的逸脱」行為とされ、ニューヨーク州では、酒類販売法の中に、飲食店は同性愛者だとわかっている相手に酒を出してはならないとする規定があった。1969年、ニューヨークの「ストーンウォール・イン」というバーに入った警察の手入れに、ゲイやレズビアンが抗議した暴動が、同性愛解放運動の転機となったとされる「ストーンウォール事件」である。

 キリスト教国家といってもいいほどクリスチャンの多いアメリカでも、同性愛者への差別の根底にはキリスト教があったのだが、そもそも聖書のどこに同性愛は罪であり禁じると書かれているのだろうか。その論拠とされているのが、旧約聖書のレビ記にある、「女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべきことをしたので、必ず殺されなければならない」という一節である。

同性愛禁止は後世の解釈

 だが、この一節について、ゲイであることを公表しながら、牧師として活動しており、『あなたが気づかないだけで神様もゲイもいつもあなたのそばにいる』(学研プラス)の著書がある平良愛香氏は、「聖書のこの一節が同性愛を禁じているというのはあくまで後世の解釈。もともとはそのような意味はなかったと考えています」と話す。

「同性愛という言葉が使われるようになったのは19世紀以降ですし、聖書に同性愛は禁じられていると書かれているというより、後世の人々がそういう解釈をあてはめたと考えるほうが正確です。よく引用される『女と寝るように男と寝てはならない』というレビ記18章22節の言葉にしても、同じレビ記にはほかにも、豚やエビは食べてはいけない、二種類以上の素材の繊維を使って織った布を使ってはいけないなど、現代人には不合理なさまざまな決まり事が書かれています。男性が女性を所有するのが一般的だった時代に、男性を女性のように所有してはいけない、という意味だったと解釈することも可能です」(平良氏)。

 また、創世記19章の「ソドムの滅亡」の話にしても、「予備知識なしにこの章を読んだら、同性愛が理由で神がソドムを滅ぼしたと解釈する人はいないのではないでしょうか。そこに書かれているように、男性の旅人の姿で現れた神の使いを町人がレイプしようとしたことが、神の怒りの原因だと考えるのが、普通の解釈でしょう」と話す。

 平良氏は沖縄の牧師の家庭に生まれ、キリスト教の学校で教育を受けたが、自分が同性愛者であることに気づいてから、キリスト教が同性愛は罪だと教えていることに長く苦しんできた。だが、やがて「神は同性愛者もありのままで愛してくれている」と信じられるようになり、実際に初めて教会に同性愛者であることを告白したときには、牧師から「神様は平良さんを同性愛者として造り、祝福したんですね」と言ってもらえたという。

 そんな平良氏であるが、牧師になるための試験を受けたときには、同性愛者であることを公にしていたため、これを認めるかどうかで牧師たちの間で大変な議論が巻き起こり、大騒動になった。

 今でも平良氏のところには非難するメールや手紙が来ることがあるというが、そんな平良氏は、自分はゲイというマイノリティであるとはいえ、女性に対しては男性という強者であることを強く自覚していると話す。

「男性というのは、男性が考えている以上にさまざまな意味で女性より優位に立っています。それは体力的、生物学的な意味でもそうですし、女性よりも平均して高い給与をもらっているという社会的な意味でもそうでしょう。だから、同じ性的マイノリティでも、ゲイのカップルはレズビアンのカップルよりもとても強い立場にある。体力的に強い男性は自分が意図しなくても女性に対して加害者になってしまう可能性を大きく持っています。男性がつい荒らげた声が女性を怯えさせてしまうように、かなり意識的に気をつけないと、男性は強者として女性を被害者の立場に追いやってしまいかねないと、私も自身のことも含めていつも気をつけているのです」

 このように言う平良氏は、まさにキリスト教も、男性優位の考えを強く押し出してきた宗教であり、家族観・結婚観においても、男性中心の家父長制を後押ししてきた歴史があると語る。

「キリスト教は、長く夫婦が子どもを作って育てることを称賛し、さらに『男は男らしく』『女は女らしく』と、男女の性別による役割分担を強調する考え方を根付かせてきました。その延長として、子どもを作らないセックスや妊娠中絶、そして同性愛などは罪深い行為として否定してきた歴史があります。男性優位の考え方は今でも教会には強く根付いていて、牧師は大半が男性ですし、教会でも炊事や皿洗いは女性の仕事と、今でもなんとなくそう思われている節があるくらいです」

 実際、男性牧師が教会で皿洗いをしていると女性信徒のほうから、「そんなことしないでください」と言われてしまうが、女性牧師がお皿を洗っていてもほとんど言われない。教会にも根付いている男女の役割分担という既成概念に、平良氏も困惑してしまうのだという。

『「レズビアン」という生き方 キリスト教の異性愛主義を問う』(新教出版社)の著書がある堀江有里氏は、レズビアンであることを公表している牧師であり、「信仰とセクシュアリティを考えるキリスト者の会」を仲間たちと立ち上げ、相談業務に従事してきた。堀江氏は、平良氏の牧師試験受験に際して、同性愛者であることを理由にこれを認めようとしない牧師が現れたときには、すでに自身は同性愛者であることを公表していたこともあり、これを差別発言として問題提起してきた。その堀江氏は、現在牧師としては教会を受け持たず、大学講師の仕事を中心に働いており、やはりキリスト教会において男性のほうが優位にあることを感じさせられているという。堀江氏が言う。

「今もカトリックでは女性は司祭になれず、プロテスタントにおいても女性が牧師になれない教派はまだまだ残っています。キリスト教会では上に立つ者は男でなければならないという規範はいまだに強く、女性の牧師に来られるよりはゲイの牧師のほうがいい、などと言われることもあるくらいです。キリスト教のその男性優位の考えというのは、一般社会よりもさらに強いですね。それはイエスの12人の弟子が男であったと聖書に書かれていることも関係しているのでしょうが、男がリーダーであるべきという規範の非常に強い集団であることは、中にいてもひしひしと感じます」

 もっとも、聖書をフェミニズムの視点から読み解く「フェミニスト神学」の観点からは、イエスはむしろ当時は家畜と同じように扱われていた女性を、男性と対等の人間として扱っていたことが読み取れるという。それがどうして、後世のキリスト教会では男性優位が主流になってしまったのだろうか。

「特にキリスト教がローマ帝国の国教になったときに、国家を管理する精神的な支柱にしなければならないという関係から、男性中心の統率力を志向するようになっていったのだといわれています。同性愛が異常とされるようになったのは、男性中心のキリスト教の異性愛主義と、同性愛を病理としてとらえた精神医学の影響が大きいですね。ただ、キリスト教が常に女性を男性の下に置いていたかというと、日本に今ある多くの私立女子校のように、女子教育においてキリスト教の学校が自立した女性を育成しようとしてきた歴史もありますから、一概にキリスト教は男性優位ばかりの宗教だとは言えないところもあります」

 もっとも、堀江氏は、イエスはもともと弱者のために社会を変革しようとした人だと考えていることから、自分がレズビアンであることがキリスト教において否定されていると感じたことはないという。

「私はキリスト教徒になってから自分がレズビアンであることに気づきましたが、社会の弱い立場、社会の周辺にいる人たちを大事にするのがキリスト教だと教えられました。ですからキリスト教徒であることと同性愛者であることの矛盾にはそこまで苦しまなかったのです。ただ、周囲を見てみると、牧師に同性愛者であることを告白したら、それは罪だと言われたとか、治療すべきだと病院に連れていかれたなど、教会に理解してもらえずに苦しんでいる人が多いと感じていましたね」

 リベラルな地域を中心に、現在ではLGBTの存在が市民権を得ていると思われがちなアメリカでも、保守的なキリスト教徒は今なお数多く存在し、同性婚などに反対の声があがり続けていることは、もはや言うまでもないだろう。

新しい時代と共に変わる宗教

 もうひとり、ゲイであることを公言している牧師が、平良氏、堀江氏と同じ教派である日本基督教団に所属し、同い年でもある中村吉基氏である。中村氏は「宗教とLGBTネットワーク」の代表を務め、仏教とも連携しながら、LGBTやHIVの感染者など、従来排除されがちだったマイノリティの信徒の救済に力を注いでいる。中村氏が言う。

「私は自分が同性愛者であることに気づいてから神学校に入ったので、どうしてキリスト教を捨てなかったのか、とよく聞かれるのですが、同性愛について、罪とかダメだと言っているのはあくまでキリスト教で、イエス・キリスト自身は何も言っていないと、聖書を読んでもそう思えるのです。むしろイエスの精神性から見て、あなたは同性愛者であるから救われないとか、異性愛者だから救われるといった線引きはしないだろうと、私は確信しています。弱い立場の人たちに寄り添ったイエスの精神に基づいて21世紀の今、牧師として務めるのであれば、同性愛者も異性愛者も同じようにキリストが受け入れてくれると考えるのは、むしろ当然ではないでしょうか」

 中村氏の訳書『いのちの水』(新教出版社)は、トム・ハーパーという神学者が書いたたとえ話で、巡礼者を癒していた泉の周りに教会堂が建てられ、さまざまな規則や、管理者の意見の違いが生じ、やがて本当に救いを求める人にも泉の在処がわからなくなってしまったという話だ。これは言うまでもなく、宗教が巨大化し、権威を持つに連れ、本来の教えから遠いものになってしまったことを表しているのだと解説する。中村氏は言う。

「キリスト教は、人間がどのように性欲に向き合うかということを、常に考えてきた宗教でもあります。プロテスタントは既婚でも牧師になれますが、カトリックの司祭は独身制で、いまだに男性しかなれません。いわゆる修道女(シスター)は、あくまで信徒の職制です。そのような男性優位な考え方の中で、同性愛についても、聖書の言葉を後世の立場から解釈して、これを禁じているとした考えが、長く基本とされてきました。しかし、現代の社会規範の中で考えるならば、キリスト教の教義はこれを罪だとしているといって、同性愛者を傷つけるようなことは、イエスが本来望んだキリスト教の形ではないことは、確かだと思えます」

 もっとも、マイノリティのはずのゲイは、男性であるという意味においてはLGBTというマイノリティの中のマジョリティであり、レズビアンなどほかの性的少数者よりは強い立場にあることは、当事者でもなかなか気づかないことがあると、中村氏も指摘する。キリスト教が男性優位の宗教として機能してきたことはこれまでにも見た通りだが、性的マイノリティの中にも男性優位の現実が潜んでいることを自覚するのもキリスト教徒としては大事なことだと、平良氏と同様、中村氏も考えているのである。

「時々私の教会にも、キリスト教をはじめとした信仰を持っている同性愛者の方から、『私のような者が信仰していてもいいのでしょうか』という相談の電話がかかってきます。そのようなとき、私は『もちろんです』とお答えするのですが、これからは宗教団体も、性的マイノリティをはじめとして、さまざまな社会の周辺にいる人たちに目を向けることが、絶対に必要になってくると考えています」

 前出の平良氏は、同性愛者であると同時にキリスト教徒である自分自身について青年時代に悩んだ末、同性愛を否定しているのは教会であって神ではないと思えるようになったという。平良氏は言う。

「僕はキリスト教は、絶えず変わっていくもの、時代に合わせて常に軌道修正していくものだと考えています。つまり神が人間に気づかせようとしているものはなんだろうと問うてくる宗教なのです。同時に、キリスト教徒は、歴史上キリスト教が犯してきた魔女狩りや植民地支配などの数々の過ちも背負っていかないといけない。その過ちを背負うことも含めて私はキリスト教徒なのであり、同性愛を罪として否定してきた歴史からも、決して目をそらしてはいけないのだと考えているのです」

 同性愛を否定すると同時に、男性優位の考え方もいまだにキリスト教の中に含まれているならば、それを乗り越えることも、21世紀のキリスト教の課題として残されているのかもしれない。

このニュースに関するつぶやき

  • 昔のキリスト教の男性優位主義は、内部からも批判があった。然し #第二ヴァチカン公会議 以降は亀の歩み乍らも改革が進んでる。
    • イイネ!8
    • コメント 0件
  • レインボープライドでは、カトリックのブースも出てたよ。神父さんがキリスト教はLGBTを否定しないと力説していた。カトリック内でも議論もあるし、変化も起こってる。
    • イイネ!25
    • コメント 2件

つぶやき一覧へ(14件)

前日のランキングへ

ニュース設定