家の購入で夫とけんかして離婚の危機! 義父の叱責やワンオペ育児で疲弊した妻の苦しみ

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2021年03月30日 00:02  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

写真ACより

 『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。

 おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?

第2回 田中由実さん(仮名・37)の話(前編)

 子どもプログラミング教室の外の廊下には、お迎えの父母が10人ほど。その中に30代らしき小柄な女性がいた。兄妹とおぼしき幼い子どもが女性に抱きつく。当日はバレンタインデーで、女性はチョコレート菓子のキットを取り出して「2人で作ってみてね」と仲良く兄妹に語りかけている。数分後、女性のすぐそばに背を向けていた男性が兄妹を連れて立ち去った。子どもたちに悲壮感はない。ものの5分という、つかの間の面会だった。

「子どもとの関係はすごく良好です。なぜ元夫が子どもと母親が会うことを制限したがるのかがわからない。普段は離れて暮らしているからこそ、会えるたびに愛情と子どもたちへの必要な言葉はすべて伝えています」

 8歳長男と6歳長女の母親である田中由実さんは話す。これだけ仲の良い母子が一緒に暮らせなくなったのはなぜなのか? 家族との関係は、なぜこのようになってしまったのか?

キャリアより家族を持つことを選択

――結婚までは、どのように?

 都会出身の証券マンだった父と田舎で育った母のもと、地方で育ちました。私が長女で弟が2人います。

 大学の専攻は物理のシステム工学。正社員の開発者として就職したかったのですが、氷河期世代の頃でかなわず、大学卒業後、非正規や派遣として働いていました。20代後半で大学に行き直し、修士課程を修めたのですが、それでも待遇は変わらないまま。一般的な企業に新入社員として入る以外は、この分野で正社員になることって至難の業なんです。プロジェクトごとの参画や任期付き、非常勤など下積みのキャリアを重ねながら過ごしていました。

 それでも30代前半のとき潮目が変わりました。それまでのような非正規や派遣ではなく、「正社員の開発者として働いてみないか」とお誘いを受けたんです。それまでずっと夢見てきたポジションだったので、すごくうれしかった。

――もちろん、お受けになられたんですよね?

 そのお誘い、悩み抜いた末にお断りしたんですよ。というのも、その頃、とある男性と2年間付き合っていて、結婚しようかという話が出ていたんです。彼は同じ会社に新卒から勤める正社員の研究者。彼の実家は岐阜県で長男。親を大切にするいい人という印象。気持ちも合うし、年齢的にも子どもも欲しかった。さらに彼は私が正社員の開発者として就職するなら結婚はしないと言い切っており、私は人生の大きな選択を迫られた。そこでかなえたかったキャリアは彼に託すことにして、キャリアと夢の実現よりも、家族を持つことを選びました。

――そして、岐阜にいる彼の親に挨拶に行ったわけですね。

 そうです。するとね、彼のところにはお母さんがいなくて。というのも、彼が生まれてから半年ぐらいで、母親が家から追い出されたそう。嫁入りしてきた彼の母親と父(つまり私の義父)の、折り合いが悪かったんです。彼は母親の顔を知らないまま、父親とその両親にかわいがられて育ったようです。

――過去に彼が母親に会いに行こうと思ったことはなかったんですか?

 その点は私も気になって昔聞いたのですが、幼稚園の頃に母親のことを聞いたら、父親も祖父母も怖い顔をして押し黙ってしまったと。それで彼は幼心に、家の中で母親のことは話しちゃいけない話題なんだなと悟った。それ以降、彼は家族に母親のことは一切聞かなかったそうで、顔はおろか名前すら知らなかったそう。そんな事情なので、これまで一度も会ったことはないそうです。

――結婚式は、どんな感じでしたか?

 義父は地域柄なのか、「結婚式は盛大にやらないかん。村の威厳がかかっとる」という感じで一歩も引かない。それで私が「簡単に親戚だけで式をやればいいと思います」と希望を伝えたら、怒り心頭、たちまち私は怒鳴られました。挙げ句の果てには、私に無断で式場を仮予約しちゃって、2012年2月、結婚式の日を迎えました。

――当日は無事に式が行われたのでしょうか?

 義父の思うがままにされてしまったことがつらかった。さらには式の後、私が思うように動かないので、車の中で義父に30分近く叱責され、泣かされてしまいました。しかもね、彼(元夫)はそのとき、押し黙ってなんのフォローもしなかったんですよ。私、そのことがトラウマになってしまいました。「そのうち実家に帰りたい」って彼は言っていたんですが、「この親子の関係は変わらない。彼の言うように、岐阜の実家には帰れない」って強く思いました。

――結婚後の生活は?

 正社員にならないかと誘われた会社を辞め、転職して仕事を続けつつ、2人で社宅に住み始めました。そして、その年の12月、長男を出産しました。当時は幸せでした。子どもは生まれるととてもかわいく、人生でこんな宝物が生まれたことが奇跡だと思いました。生まれる前は職場への申し訳なさもあり、職場復帰を早くしようと思った。しかし、実際に保育園に入れる時には、子どもと離れ難かった。保活も激戦区だったために、冬生まれで早めに入れざるを得ず、長男は生後わずか4カ月後の4月から保育園に預けていました。

――寝かしつけとか、出産直後の時期の育児はどうだったのですか?

 家庭内のルールは妻の私がほぼすべて決めていて、子どもたちの面倒を見るのは100%私でした。というのも、彼は優柔不断で物事を決めきれない性格。「なんでも決めていいよ」と普段から言っていたので、信頼して子どものことも任せてもらえていると思っていました。

 一方、彼は育児を素直に手伝ってくれていました。朝の保育園までの送りは彼が担当していましたし、頼めば洗濯とか買い物、オムツ替えといった家事・育児もやってくれました。ただし寝かしつけに関しては、ほぼすべて私でしたね。というのも、彼は子どもが嫌がるくらいいびきがうるさく、すぐにコロッと寝てしまう。もしものときを考えると、私がやるしかありませんでした。

――2歳下に女の子が生まれた後はどうでしたか?

 2歳差の女の子もすごくかわいく、お兄ちゃんも妹をかわいがっていました。将来、親に何があっても、兄妹で仲良く助け合っていってほしかったので、家族が増えたことは本当にうれしかったです。

 しかし、彼(元夫)との関係は悪化していきました。というのも、社宅は狭いし、ペットの犬もおり、狭い家の中で生活が回らなくなる。遠方の実家のフォローもない中、ほぼワンオペで2人の子どもを見て、日中仕事、夜間も授乳や子どものケア。彼は、言えば動くけれど、言わないと何もしない。

 そのうち、彼に何かを言うことさえ疲れてきてしまって、彼には会話もあまり求めなくなった。さらに、夜間は彼のいびきから逃れられない――という状況の中、彼に対するストレスが増していきました。今考えると、その頃、産後うつの傾向があったけれど、私は日中病院に行く時間もない、授乳中だから薬も飲めない。とりあえず、夜だけはゆっくりと静かに寝たい、休ませて……というのは毎日思って、彼にも伝えていました。

――打開策はあったんですか?

 ずっと家を買いたいと思っていまして。彼のいびきの問題も、寝室を別の階に分ければいいんじゃないか、と考えていました。あと長男も小学生となり、持ち家で落ち着いて過ごしたいと思い始めたことも購入の理由です。私自身、家族と実家で過ごした思い出はとても貴重でしたし、就職してからはプロジェクトごとに勤務地を転々としていたので、その反動から、同じ家という安定した環境で、家族みんなが思い出を積み重ねながら生きていきたいって思っていたんです。周りでも同様の家族が多かったので、普通のことだと思っていました。

――「実家に帰りたい」と言っていた彼を、説き伏せることはできた?

 ずっと折り合わず、話は平行線をたどりました。「実家に帰りたい」ということ以外に彼は「お金が足りない」と言っていて。「だったら私が稼ぐよ」って言って、同じ業界の職場へと転職をして、仕事を頑張った結果、数年かけて頭金に十分な貯蓄ができたんです。少なくとも、そこでお金の問題をクリアしたんです。「嫌だったら、家、売ればいいんだよ」と、彼には言っていました。それに彼自身、ファイナンシャルプランナーに複数回相談して「資金計画も全く問題ない」というお墨付きをもらって、お金の不安を解消していました。彼も納得した上で、家の購入へと進んでいったんです。そうして、何軒か家の内覧に行って、ローンの計画を固めて、18年のクリスマス前、予約に至りました。

――最高のクリスマスプレゼントですね。クリスマスパーティは、さぞ盛り上がったのでは?

 それがね、ケーキ作りがきっかけで、最悪のクリスマスパーティとなってしまいました。「生クリーム作りをお願いね。砂糖は〇〇グラムだから」と分量を伝えたのに、出来上がりが散々だったんです。それで私、「なんでこんなに味が薄いのよ。全然甘さが足りないじゃない。なんでここまで分量を丁寧に話しても、できないの? もういいや、家を買ってくれれば、あなたには何も期待しない」って、彼に言ってしまいました。

 すると彼は、私に対して怒りを爆発させたんです。「謝れ。さもなくば家は買わない」と。彼は本当は岐阜の実家に帰りたいのに、私が半ば強引に家を買おうとしている。また、買えない理由もないから強固に反対もできない。だけどそれに従うことって、彼の中で人生を犠牲にすることを意味していたと思うんですよ。そこで、その言葉に対して彼から「謝れ」と言われました。でも、私は謝れなかった。私だって、自分のキャリアを諦めたり、義父の行動にも我慢したりしてきた。家を買いたいという私の夢くらい、一緒にかなえてほしかった。少しは「子どもを産む」「稼ぐ」以外の私の人生にも協力してほしかった。

 その後、彼は、自分を否定された言葉に怒って、クリスマスの夜に家を飛び出していきました。私も子どもの面倒を見ながら、「彼がなぜ理解してくれないのか」「もう離婚かもな」と思って茫然としていました。

――なんで彼は事前に反論しなかったんでしょう?

 普段から、私の威圧的な話し方や反論も怖かったようです。また、自分の感情のコントロールや話し合いができる人だったら、向き合って話して折り合いをつけることができたでしょう。人の気持ちが少しでもわかれば、それまでの義父とのことだってフォローしてもらえたでしょう。

 でも、私も人のことは言えないですが、彼はコミュニケーションが苦手で母親についてを聞けなかったように、嫌なことには押し黙れば問題を回避できると思っている。彼の父親がそうだったように。子どもがいなかった時は、私もそれなりに彼を気遣っていたので彼との関係は成立していたけれど、産後私は子どもと私自身の生活でいっぱいになってしまって、彼への配慮をやめました。

 子どもが1〜4歳までは忙しくて彼へのケアが十分でなかったとしても、その後、何年かかけて彼と家族の情が育っていけばよいと思っていた。そこにも根本的な齟齬があって、彼の無意識の中で、私は彼のことを理解しない敵のような存在となり、自分を守ってくれる義父への訴求心が高まったのだと思います。

――それで、ひとまず離婚危機は回避したんですか?

 その後、結局彼は「家を買わない」と言い張り、購入をキャンセルしました。当時、私はそのことにも怒り心頭でした。それまでの住居に住み続けることが難しいから数年かけて準備してきたのに、持ち家で暮らすという私の夢が彼によってすべて否定されたことがショックで、「このままじゃ、彼は私の気持ちをわかってくれない。私が離婚を考えるぐらい悩んでいることをわかってもらいたい」という一心から、離婚届を渡してしまったんです。

 私は本当に子育てをちゃんとしてたし、仕事も頑張っていた。そういったところをちゃんと見ていてくれたら、彼がワンオペで、私のように2人の子どもを育てるのは現実的に難しいことがわかるだろうし、たとえ一時的な気の迷いだったとしても、ちゃんと家の購入を含めて向き合って、もう一度考え直してくれるんじゃないかなって、淡い期待をしていたんです。

 また、お互いにクールダウンの必要があると思い、年末だったこともあり、お互いの実家に帰って気持ちが落ち着くまで別々に過ごしたほうがいいと考えていました。離婚届に関しては、渡してしまって以降も実際に提出されることはないと思っていました。というのは、彼の帰省中は私からの連絡は拒否され、両家の両親含めて「夫婦できちんと話し合う問題」「離婚はやめてほしい」と言われていたからです。

後編につづく

(西牟田靖)

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