没後1400年の聖徳太子 いまだ解明されない複数の謎とは

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2021年04月10日 07:00  AERA dot.

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写真奈良・斑鳩の法隆寺
奈良・斑鳩の法隆寺
 今年は、聖徳太子の「千四百年御聖忌」にあたるということで、由縁の奈良・法隆寺や大阪・四天王寺で関連行事が行われるほか、奈良博やトーハクでも、「聖徳太子と法隆寺」という特別展が予定されている。博物館では、秘仏や国宝仏などがズラリ展示されるほか、聖徳太子にまつわる品々が一堂に会し聖徳太子信仰の一端を知ることができる。

●今では「厩戸王」として学ぶ

 お札の顔になったほど日本人にとってよく知られた人物であるが、教科書でその名の言い換えが始まってからかなりたつ。現在は主に厩戸王(うまやどおう)として掲載されているが、聖徳太子は有名人の割に謎の多い人物ではあるのだ。実在したかどうかも含めて研究も盛んにされているが、大化の改新(乙巳の変)以前の歴史については不明な点、不可解な点なども多いことから、謎に包まれているのは聖徳太子に限ったことではない。現在、日本の正史とされる「日本書紀」の成立が奈良時代(完成は720年)で、それ以前にあったとされる「国記」や「天皇記」「帝紀」などは現存せず、大化の改新以前の歴史は日本書紀によって書き換えられたと考えられてもいる。

 聖徳太子信仰が盛んとなったのは、平安時代後期から鎌倉時代にかけてと言われる。特に鎌倉仏教と言われる宗派の開祖である法然(浄土宗)や親鸞(浄土真宗)、一遍(時宗)などが熱心で、この頃、多くの聖徳太子像が彫刻された。現在残る「太子堂」などと呼ばれる聖徳太子を祀るお寺などはこれらの宗派に属することが多い。

●今でも通用する「十七条憲法」

 聖徳太子は、第31代・用明天皇の皇子として574年に誕生した。厩戸前で産まれたことから、あるいは母の実家(当時はおじ・蘇我馬子の家)で産まれたから「厩戸」と名付けられたなど言い伝えは各種ある。聖徳太子という名は、死後100年以上過ぎたころからの文献で散見できるようになった。

 聖徳太子の業績といえば、「冠位十二階」や「十七条憲法」を制定し、遣隋使を派遣、伝来したばかりの仏教を保護したことなどで知られる。特に「以和爲貴、無忤爲宗。(和を最も大切なものとし、争わないように)」で始まる「十七条憲法」は、現代までに通じる法であることに驚きを隠せない。17条目に至っては、現在の私たちがもっとも失っている「協議」がなぜ必要で大切なのかを説き、政治の根本が書かれている。

●太子の姿ではない?「唐本御影」

 聖徳太子に関わる謎はいくつも挙げられるが、ひとつは我々がよく知る、お札にもなった「唐本御影」から取られた姿が、身につける装束が当時のものではないこと(死後数十年後の服装)が判明、現在は「伝・聖徳太子」像と紹介されることも多くなっている。

 また、父・用明天皇亡き後、おばである推古天皇が即位し長生きをしたことから、皇子でありまた優れた政治手腕を見せながら天皇になれなかったこと、法隆寺のある斑鳩に住むことは当時の政治の中心から離れていたのではないかなど、いくつもの疑問が投げかけられている。一方で、黒駒という神馬で富士山までひとっ飛びしたとか、予言の書・未来記がのちの時代の武将の運命を言い当てていたなど、人間の力を超えた逸話も残されている。中でも、法隆寺に関してはさまざまな解釈がなされる。

●意外と知られていない太子のその後

 天皇の血筋であり、高い能力を見せた聖徳太子の血筋は、すぐに絶えている。推古天皇崩御後の後継問題から蘇我氏との間で諍いが起き、結局、斑鳩宮が襲撃され最終的に聖徳太子の一族は全員自害して果てることになる。これを指示したのが、蘇我入鹿であり、やがて乙巳の変で暗殺されることになる。
日本書紀は乙巳の変を契機に天皇となる天武天皇(大海人皇子)の指示により編纂された歴史書であり、聖徳太子を偉人として高め、貴人を根絶やしにした蘇我氏を成敗した歴史が完結するのである。

●正しい命日はいったいいつ?

 ところが、不思議なことにその日本書紀によれば、聖徳太子の命日は推古天皇29(621)年2月5日、享年49とある。ところが現在、太子の命日は推古天皇30(622)年2月22日とされているのである。死因は、病死とも暗殺とも、自死とも言われ、最愛の妃とともに亡くなっている(妃は1日前に亡くなっている)。亡くなった翌年2月22日に大きな法要が行われた記録があり、それが混同されたのではとも言われているが、1400年後も間違った日にちのままというのは何とも解せない。

 聖徳太子の御等身の像と伝えられてきた、法隆寺夢殿に安置されていた救世観音菩薩像は、13世紀以降は秘仏として非公開を続けてきたものだが、明治時代に国からの調査によりようやく公開された時には、500メートル近い布で包まれていたという。秘仏とされてきた理由は、この像が聖徳太子の怨霊を鎮めるために造られたものと信じられてきたためだとか。

 さて、もうひとつ不思議なことがある。日本書紀の記述とは異なる聖徳太子の命日である2月22日は、現在の暦に直すと4月8日、なんと日本ではお釈迦さまの誕生日としてお祝いをする灌仏会なのである。太陽暦が取り入れられるまで、一致することはなかった偶然であろうか。日本書紀を元に考えれば、「千四百年御聖忌」は昨年行われるべき行事である。聖徳太子関連については、日本書紀は無視されているに等しい。聖徳太子の謎は深まるばかりである。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

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このニュースに関するつぶやき

  • 第二条ははっきり信教の自由を否定するものだ。というか皇族・豪族だけにたいして出された十七条憲法をなぜ憲法のモデルみたいにいう人がいるのかな?
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  • 山岸涼子のマンガ、日出ずるところの天子読んでみてください。
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