開業後1年半で運行休止、ドリームランドモノレールの廃線跡を探索

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2021年04月11日 08:21  マイナビニュース

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●大船駅が起点「もうひとつのモノレール」その歴史は
大船〜湘南江の島間(6.6km)を結ぶ湘南モノレールが、2021年7月2日に全線開通50周年を迎える。筆者は現在、湘南モノレールの公式サイトにて、全線開通50周年記念連載「湘南モノレール全線開通までの全記録」を連載中である。

ところで、かつて大船駅を起点とするもうひとつのモノレールがあったことをご存じだろうか。大船駅からドリームランド駅(横浜市戸塚区俣野町)まで結んだドリームランドモノレール(ドリーム交通が運営)である。

同路線は1966(昭和41)年5月2日に開業したが、わずか1年半後の1967(昭和42)年9月24日に運行休止した非常に短命な路線だった。間もなく開業から55年が経過するドリームランドモノレールはどのような路線だったのか。わずかに残る資料を頼りに、その歴史をたどり、廃線跡を探索してみることにする。
○■ドリームランドモノレールが建設された理由

そもそもこの地になぜ、モノレールが敷設されたのだろうか。その理由として、「日本最大の遊園地」と称された横浜ドリームランド(敷地面積約132万平方メートル)が1964(昭和39)年8月にオープンしたものの、最寄りの大船駅から5km以上も離れており、アクセスの悪さがネックになっていたことが挙げられる。

バス・タクシーだけでは輸送力が限られるし、途中で国道1号をクロスしなければならなず、渋滞も予想された。したがって路上交通と分離した別な交通手段が必要だったわけだが、丘陵地帯が広がる大船(鎌倉市)北部や横浜市戸塚区の西部は山坂が多く、通常の鉄道を敷設することが不可能に近かった。そこで、簡易な構造物のみで建設でき、輸送力も比較的大きく、さらにゴムタイヤで登坂力にも優れたモノレールが採用されることになったのである。

当時は我が国でモノレールが脚光を浴び始めていた時期でもある。日本の大手メーカーが海外のモノレール先進企業と提携し、さまざまなモノレール技術を輸入していた。

具体的には、日立製作所が西ドイツ(当時)のアルヴェーグ式モノレール(後に東京モノレール羽田線などで採用)、日本エアウェイ(三菱重工が中心となって設立)がフランスのサフェージュ式モノレール(後に湘南モノレール、千葉都市モノレールなどで採用)の技術を輸入するなどし、研究が進められていた。

ドリームランドモノレール計画の入札には複数の企業が手を挙げたが、採用されたのは東芝式だった。この東芝式は、アルヴェーグ式をベースとしつつ、車体と台車を完全に分離したボギー連接台車構造とするなど、独自の改良を加えたものだった。

東芝式が採用されたのは、先行開園した奈良ドリームランドのモノレールで成功していたことが決め手となったのだろう。奈良ドリームランドのモノレールは1961(昭和36)年7月1日に開業。地方鉄道法(現・鉄道事業法)によらない遊戯物扱いではあったものの、円周軌道上(0.84km周回)を最大安全速度40kmで走行するという実用レベルに達したものだった。
○■ドリームランドモノレール建設の過程

1964(昭和39)年8月にドリームランド線の敷設免許が下り、以後、東芝が車両と電気設備の製造(車両のボディ部分は東急車輌が製造)、三井建設が軌道の設計・建設を担当し、総工費約25億円をかけて建設が進められた。大船駅からドリームランド駅までの路線総延長は5.3km。両端の駅のほぼ中間地点に、交換所(すれ違い場所)である小雀信号所と変電施設を設けた。

このモノレールの建設過程に関しては、神奈川新聞が何度か記事にしている。まず、1966(昭和41)年1月26日付の記事で、モノレール計画の全容をわかりやすく書いているので、少し長いが全文を引用する。

大船駅〜横浜ドリームランド五・三キロを結ぶモノレール建設工事は総工費二十五億円をかけて着々進んでいるが戸塚区原宿町一〇二〇さきの幅四十メートルの東海道をまたぐ路線架設工事が二十五日深夜から二十六日未明にかけて行われた。
この工事で全路線の建設は八分どおり終わり、三月上旬に試運転、ゴールデンウィークの四月二十九日から開通の予定。
モノレール線建設は三十九年初めドリーム交通の手でドリームランド入園者と付近の住民の輸送を目的として計画された。将来はさらに小田急線長後駅まで三・六キロ延長する計画。
使われる車両は“馬乗り型”一編成三両で乗車定員は百二十五人、最高速度は六十キロで全線を十分間で走る。料金は片道おとな百七十円、こども九十円、往復おとな三百円、こども百五十円の予定。
この路線は山あり谷ありの急こうばい続き、起伏に富んだ半ばケーブルカーのようにながめのよい乗り心地を楽しめることになるという。
単線路線のため小雀浄水場に上下線の待ち合わせ所ができ、将来はここに途中駅を作るという。(1966年1月26日付の記事より引用)

続いて、同年3月23日付で、モノレール建設計画がかなり強引に進められた様子を読み取れる記事が掲載されている。

鎌倉市農業委員会の調査特別委員会は二十二日、モノレール建設中の戸塚区ドリーム交通会社・松尾国三(原文ママ)社長に対し、再び工事の中止勧告をした。
理由は、鎌倉市関谷地区を走るモノレール建設工事にさいし、農地法を無視して許可前に工事を始め、工事中止の勧告を無視してどんどん工事を進めているというもの。(中略)同委員会は「農地法を全く無視している大資本に対し徹底的に追及する。農地法は国法であり、国法を無視するやり方はけしからん」と憤慨している。
また、鎌倉市と戸塚区境(大船駅近く)の柏尾川には、直径二メートルもあるコンクリート柱が川の真ん中に突き立てられて水の流れの障害となっていると住民から反対の声があがり、これを許可した県当局の態度までが批判されている。
この地点は大雨が降ると流れが速く、いつもはん乱して川岸の民家を水びたしにしている。三十六年六月の大洪水でも市民は痛めつけられた。(1966年3月23日付の記事より引用)

ドリームランドおよびドリーム交通の松尾國三社長は、旅役者から立身出世し、興行界やレジャー関連産業で幅を利かせた名うての人物であり、目黒の雅叙園観光ホテルなどを経営していた。役人が何を言おうが、どこ吹く風といった感じだったのであろう。
○■ドリームランドモノレールの開業と挫折

こうして1966(昭和41)年5月2日、ドリームランドモノレールは開業したが、その後の運命を示すかのように、初日からトラブルが起きた。

『横浜の鉄道物語』(長谷川弘和著)に記されているところによると、この日に開業することを新聞で知っていたので、開通記念乗車券を買いに早朝から大船駅に並んだが、一向にシャッターが開かない。シャッターを激しく叩くと駅員が出てきたので、尋ねると、「まだ認可されていない由で、認可があり次第開通する」とのことだったという。なんとものんびりした話ではあるが、前述のように強引に工事を進めていたから、役所との連絡もうまく取れていなかったのかもしれない。結局、開業初日にモノレールが運行されたのは、夕方からわずか4時間くらいだったようである。

その後、ドリームランドモノレールは思わぬトラブルに見舞われることになる。車両のゴムタイヤがたびたびパンクし、さらに軌道桁のコンクリートにひび割れが生じたのだ。原因は、設計ミスと伝えられる車両重量の過大であった。

横浜のモノレールは、奈良のモノレールをベースに大型化を図ったのだが、最急勾配100‰(パーミル。100‰は1,000m走るごとに100m上る)という難所にも対応するため、モーターをより大型のものに交換し、またカーブとアップダウンが多い路線に耐えられるように、連結器をはじめとする各部品を頑丈に作った。その結果、当初は3両固定編成で重量30トンの予定だったものが、実際に計量してみたところ、45.78トンにもなっていたという。乗車人数の制限など行ったものの、危険を十分に回避できないとの東京陸運局の勧告を受け、開業からわずか1年半後の1967(昭和42)年9月、運行休止に追い込まれた。

なぜ、技術的にかなりの自信を持っていたはずの東芝が、このような初歩的な設計ミスを発生させたのか。おそらくは技術陣に焦りがあったのであろう。

東芝が奈良ドリームランドのモノレールを開業させたのは、前述したように1961(昭和36)年7月であり、これは国内の跨座型モノレールの第1号だった。つまり、東芝はライバルに先んじてモノレールに着目していたのである。それにもかかわらず、地方鉄道免許による路線開業において、日立の犬山遊園モノレール(1962年3月開業)に先を越された。また、自らも設立に出資した日本エアウェイのサフェージュ式では、三菱に主導権を握られた。さらに川崎航空機も、1962(昭和37)年9月以降、同社岐阜製作所構内に試験線を設け、ロッキード式モノレールの実用化に向けた実験を開始しているような状況だったのだ。

その後、横浜ドリームランド周辺はベッドタウン化が進み、園の敷地の一部が「ドリームハイツ」という住宅地になったことから、通勤・通学の足としてモノレール復活の要望の声が大きくなったが、復活への道は険しかった。

モノレールの構造物は野ざらしのままになっていたが、運行休止から約20年が経過した1988(昭和63)年、横浜ドリームランドの経営がダイエー系列に移ったことで変化が訪れた。1995(平成7)年6月、常電導磁気浮上式リニアモーターカー(HSST)導入によるモノレールの運転再開が決まったのである。当時の計画では、1997(平成9)年に着工、1999(平成11)年の開業を予定しており、実現すればHSSTの実用路線として世界初となるはずだった。

しかしその後、ダイエーの経営悪化にともない、2002(平成14)年2月に横浜ドリームランドが閉園。モノレールの廃止も決まり、2005(平成17)年6月に廃線跡の構造物撤去工事も完了。“夢の跡”も、ついに消え去った。

●大船駅からドリームランド駅跡地へ、廃線跡をたどる
後半はドリームランドモノレールの廃線跡を探索してみよう。当時の地図を見ると、国鉄(当時)大船駅入口から柏尾川沿いを北へ300mほど行った場所にモノレールの乗り場があった。駅跡は現在、鎌倉自動車学校南側のマンションになっている。

大船駅を出発したモノレールは、すぐに柏尾川を渡る。対岸の丘陵の崖に沿って、しばらくの間、ちょうど鎌倉市と横浜市の市境上を走っていた。横浜市栄区側の「長尾台けやき公園」付近に行くと、丘の上に三菱電機の旧寮が見える。近所の人に話を聞いたところ、寮の建物のすぐ下あたりをモノレールが通過していたという。

さて、今度は大船観音の南側から栄光学園方面に回り込み、丘の上にある玉縄5丁目の住宅地に行ってみる。この玉縄5丁目の住宅地の北辺は、両市の市境とほぼ一致している。つまりモノレールの廃線跡とも一致しているのだが、廃線跡は藪になっており、地形的なものを除けば、痕跡はまったく残っていなかった。
○■横浜ドリームランドの跡地に向かって

モノレールは玉縄の丘陵上を駆け抜けた後、いったん谷を下り、県道312号(田谷藤沢線)をクロスする。場所は神奈中バスの面谷戸(おもてやと)バス停から50mほど藤沢寄りの交差点付近である。

ここから再び丘を駆け上がるようにして、現在の「九つ井 山の上ギャラリー」の後背を通過。モノレールの軌道は小雀浄水場の北側へと抜けて西進し、小雀公園テニスコートの道路際を通過していた。その先の農地の一画に、上下線のすれ違い場所である小雀信号所があった。

信号所の先でモノレールは国道1号をクロスし、現在のパチンコ店の敷地を通過して、市民の森である「ウィトリッヒの森」の南西を巻くようにして宇田川沿いに出る。このあたりまで来ると、かつて「ホテルエンパイア」だった和風高層建築(現在は横浜薬科大学図書館棟)が見えてくる。

宇田川の川岸を北進したモノレールは、韮橋(にらはし)の手前で川をクロスし、今度は北西に進路を取り、上り勾配を駆け上がって、終着のドリームランド駅へと向かう。

ドリームランド駅跡地は現在、「俣野公園・横浜薬大前」バスロータリー南側に位置するドリームビルの駐車場になっている。付近一帯の横浜薬科大学、ドリームハイツ、俣野公園(墓苑を含む)の敷地が横浜ドリームランドの跡地だが、名残といえば、横浜薬科大学の図書館棟くらいしかない。

さて、ドリームランドモノレールの廃線探索、いかがだっただろうか。いまとなってはモノレールの痕跡がほとんど残っておらず、廃線跡探索を楽しむには、昔の写真を頼りに想像力をフルに働かさなければならないが、それもまた廃線跡探索の醍醐味である。

ちなみに、ドリームランドモノレールの廃線跡は5.3キロと、数字だけ聞けば短く感じるが、山あり谷ありのコースである上に、大きく迂回しなければコースをたどれない場所も多く、実際にはかなりの距離を走ることになる。本気で踏破するならば電動アシスト付自転車をレンタルするのがおすすめだ。参考までに、湘南台駅周辺に電動アシスト付自転車が借りられるシェアサイクルスポット(HELLO CYCLING)が複数あり、湘南台駅から俣野公園(横浜ドリームランド跡)まで3.6km、自転車なら約15分でたどり着ける。

森川天喜 もりかわ あき フリージャーナリスト。現在、大磯町観光協会理事、鎌倉ペンクラブ会員。旅行、鉄道、ホテル、都市開発など幅広いジャンルの取材記事を雑誌、オンライン問わず寄稿。テレビ・ラジオにも多数出演。2020年1月、初の小説作品『ホワイト・ライオン』(幻冬舎)を上梓。2021年3月より、湘南モノレール全線開通50周年記念連載を同社Webマガジンにて執筆中 この著者の記事一覧はこちら(森川天喜)

このニュースに関するつぶやき

  • モノレールの廃線のこと14年くらい前に知った。凄く未来的だったんだな…と思いながら拝読したのを思い出した。
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