日本代表で本田圭佑の2倍、大迫勇也の4倍。存在自体が「戦術」だった釜本邦茂伝説

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2021年04月15日 07:02  webスポルティーバ

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今日4月15日は、日本サッカー史上最高のストライカー、釜本邦茂の誕生日だ。日本代表Aマッチで挙げたゴール数は、本田圭佑(ネフチ・バクー)の2倍、大迫勇也(ブレーメン)の4倍。「今、日本代表でプレーしていたら」と妄想せずにはいられない、圧倒的な記録とプレーぶりである。今回はそんな不世出の選手のすごさを改めて振り返る。

◆ ◆ ◆




 3月30日のモンゴル戦で、サッカー日本代表は14ゴールを決めて大勝したが、日本代表の最多得点記録には、わずか1点届かなかった。

 最多得点記録は、1967年9月27日のメキシコ五輪予選フィリピン戦で記録した15得点だ。その試合でダブルハットトリック(1人で6ゴール)を記録したのが日本サッカー史上最高のストライカー、釜本邦茂だった(当時のオリンピックは年齢制限のないフル代表によるAマッチだった)。

 ちなみに、この予選大会で日本は韓国と3−3で引き分けて勝点で並び、得失点差でオリンピック出場権を獲得した。翌年のメキシコ五輪で日本は銅メダルを獲得することになるのだが、釜本の6ゴールがなかったら、それも幻に終わっていたかもしれないのだ。

 日本代表ではAマッチだけで75得点を記録。2位三浦知良(横浜FC)の55得点、3位岡崎慎司(ウエスカ)の50得点を大きく引き離している。しかも、Aマッチが少ない時代だったので、釜本は76試合でこの記録を達成しているのだ(つまり、1試合1得点ペース)。

 また、当時の日本代表にとっては、来日するヨーロッパや南米のプロクラブとの対戦も大きなイベントだったが、釜本はアーセナル(イングランド)やパルメイラス(ブラジル)といった強豪からも、コンスタントに得点を記録している。68年のアーセナルとの試合で、右サイドのクロスをニアサイドに飛び込んで、ダイビングヘッドで決めた釜本のゴールは語り草だ。

 75年に来日したバイエルン(ドイツ)戦では2試合戦って完封されたが、釜本はのちに「対戦したなかで最も印象に残っているDF」としてバイエルンのハンス=ゲオルク・シュヴァルツェンベック(西ドイツ代表=1974年ワールドカップ優勝メンバー)の名前を挙げている。

 67年のフィリピン戦で1試合6得点を記録した釜本だったが、当時はまだ彼の全盛期ではない。その後、68年1月から短期留学した西ドイツの1.FCザールブリュッケンでユップ・デアヴァル監督(後の西ドイツ代表監督)の指導を受けると、ゴール前のスピードを身に着けて一段と凄みを増した。

 同年10月のメキシコ五輪では、初戦のナイジェリア戦でいきなりハットトリックを達成。開催国メキシコとの3位決定戦でも2ゴールを決めるなどして銅メダル獲得に貢献し、自らも大会得点王に輝いた。

 釜本はメキシコ五輪直後に行なわれた世界選抜にも選出されたものの、結婚式を控えていたために出場を辞退。2年後に同じメキシコで開催されるワールドカップ出場を目指したが、予選を前にウイルス性肝炎を発症。釜本を欠く日本代表はアジア予選敗退に終わってしまった。

 また、その全盛期にはヨーロッパの強豪クラブからのオファーもあったというが、釜本は日本に留まることを選択した。もし、全盛期の彼がそうしたオファーを受け入れて世界の舞台で戦っていたとすれば、世界中どこの国のどんなクラブに加わっても大活躍できたはずだ。

 得意の得点パターンはドリブルで持ち込んで、右45度の角度から繰り出す強烈なシュートだった(相手チームのGKが手を負傷して交代を余儀なくされたこともあった)。だが、DFが右足でのシュートを警戒していると、左足でも正確にコースを狙ったシュートを決めることができたし、強靭なフィジカルを生かした滞空時間の長いジャンプからのヘディングシュートも強烈だった。

 右足でも、左足でも、そして頭でも。どこからでも点が取れる、まさに本格的、総合的なストライカーだったのだ。

 そんな選手だったから、僕が最もよく覚えているのは、71年のトッテナム(イングランド)戦で釜本が放った強烈なヘディングシュートである。「決まった!」と思った瞬間、トッテナムのGKパット・ジェニングス(北アイルランド代表)が横っ飛びしてそのシュートをはじき出したのだ。「ワールドクラスのGKというのは、あの釜本のヘッドも防げるのか」と感心したものだ。

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 現代の目から見れば、釜本のプレースタイルは「ほとんど守備をしない」として批判を受けるかもしれない。いや、彼が活躍していた当時からそういう批判がなかったわけではない。

 しかし、当時の日本代表にとってはそれが戦術だったのだ。

 強豪相手には、とにかく守ってDFはひたすらクリアを繰り返す。そして、なんとか直接もしくはウィンガーの杉山隆一を経由して釜本にボールをつなぐ。それが戦術だった。

 実際、当時のヨーロッパ強豪との試合映像を見直してみると、日本代表は守備一辺倒になってしまっていたことがわかる。クリアしてもセカンドボールを拾われて再び攻撃を受ける。その繰り返しだった。ただ、釜本までボールがつながった時だけは、そこでボールが収まって味方が上がる時間も生まれ、日本の攻撃の形がつくれたのだ。

 釜本は守備のために走り回ったりはしない。だが、前線でボールを収めて守備を立て直すための時間をつくってくれるし、相手チームも釜本が前線に張っていればマークのために複数のDFを残しておかなくてはならない。彼の存在そのものが守備を助けているとも言えるのである。

 釜本が得点を重ねたのは、もちろん国際試合だけではない。

 早稲田大学時代には4年連続で(つまり1年生の時から)関東大学リーグで得点王となり、また67年に入団したヤンマーディーゼル(セレッソ大阪の前身)では、ブラジル出身のネルソン吉村(日本名=吉村大志郎)と組んで数々の得点記録を打ち立てていった。

 ヤンマーで18シーズンにわたってプレーした釜本は、251試合に出場して202得点を記録している。JSLの通算得点記録2位の碓井博行(日立製作所/柏レイソルの前身)の記録が85得点なのだから、いかに釜本の記録が突出しているかがわかる。

 Jリーグでは現在、大久保嘉人(C大阪)が190ゴールを決めて通算最多得点を更新しつづけているが、大久保が次に目指すべきは「200の大台」ではなく、C大阪の前身であるヤンマーの大先輩、釜本の持つ日本のトップリーグにおける最多得点記録「202」であろう。もちろん、出場251試合で202ゴールを決めた釜本と、458試合で190ゴールの大久保では比べようもないのではあるが......。

 現在のように、日本代表がボールを握って攻撃する時間が長い時代に、もし釜本のようなストライカーがいてくれたら、ワールドカップでのラウンド16突破はもちろん、決勝進出すら夢でないはずなのに......。これは、不世出のストライカー釜本邦茂を知る世代の、オールドファン共通の正直な気持ちであろう。

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