「世界一受けたい授業」で堺正章も感動 不登校新聞・石井志昂さんの「学校に行かない生き方」

6

2021年04月17日 20:55  AERA dot.

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

AERA dot.

写真不登校新聞編集長の石井志昂さん(提供)
不登校新聞編集長の石井志昂さん(提供)
 不登校の子どもとその家族のための専門紙「不登校新聞」編集長の石井志昂さん(39歳)が、17日放送の「世界一受けたい授業」(日本テレビ系)に出演した。テーマはもちろん不登校。石井さんが番組出演をオファーされた理由は、学校に行かずに家庭で学ぶことも選択肢の一つとして認められ始めているから。石井さんが訴える「不登校という生き方」とは。

【写真】実はこの人も…5年間の引きこもり経験のある著名人
*  *  *
「番組収録では、芸能人を前に緊張してカミまくってしまいました。でも、出演者の意外な反応を見れたのです」

 と石井さんは番組収録時をふりかえった。

 番組では、不登校を子どもの意思を尊重した「生き方」として紹介した。例えば、米国の歌手のビリー・アイリッシュさんや、台湾の天才IT担当相として知られるオードリー・タン氏も自宅で学習。また文部科学省は2019年10月、都道府県教育委員会教育長などへの通知で、不登校支援の基本方針について「『学校に登校する』という結果のみを目標にするのではなく」と明記した。さらに昨年からのコロナ禍で、リモートで学ぶ環境が整ったこともあり、石井さんは「不登校は一つの生き方になってきている」と訴えた。

 予定していた放送内容を撮り終え、石井さんがほっとしたときだった。“校長”の堺正章さんが真剣な表情で、石井さんに語り掛けてきたという。

「新しい時代が、コロナによって始まろうとしているんですね」

 完全なアドリブだった。石井さんには、堺さんが心から感じたことを口にしたように思えた。それは驚きで、うれしい誤算だったという。

「上の世代の方々にとって、学校にいくのは当たり前で、一種のセーフティーネットでもあり、楽しい思い出が詰まっている場所だと思うんです。だから不登校については、理解はしても、『時代が違うんですね』といった後ろ向きなトーンで語られることが多かった。それが、堺さんは『学校のかたちがかわる』と新しいことへの期待感を込めて発言していた」

■ 偏差値50以下は人生終了 受験競争で窃盗症に

「学校へいかない」子どもはどんな気持ちでいるのか。

 実は、石井さんも不登校経験者だ。その半生を振り返ることは、新しい時代の潮流を理解する助けになるかもしれない。

 石井さんの不登校のきっかけは中学受験の失敗。当時の心境については、AERAdot.の連載「ぶらり不登校」の「『受験失敗で人生が好転した』第6志望も不合格だった不登校新聞編集長が今伝えたいこと」に詳しい。

 石井さんは1982年、首都圏のごく普通の家庭に生まれた。小学校4年生の夏休み、宿題もまったくせず、その日暮らしの石井さんの様子をみて、母親は「塾にいったら?」と提案。親子で塾を訪れると、スタッフが「この子は有名中学にいけます。将来は東大や早稲田に合格するような子です」と断言した。そこからレールに乗って中学受験にまい進していく。

「今振り返れば、完全に塾の営業トーク。しかし、それで親子で火がついてしまったのです」

 そこはいわゆるスパルタ塾。成績順に並ばされては、下位の生徒には「見せしめ」に体罰が待っていた。長期の休みには、一日十時間勉強する合宿があり、講師は「偏差値50以下の学校に行くと人生は終わる」などと平気で口にしたという。

 他人と成績を比べられ、がんばっても思うように成績が上がらない。疑問を抱いていたが、レールから外れられない。石井さんは追い詰められ、精神は限界へと近づいていった。異変は、ある時、万引きという形で現れた。無意識のSOSだったのかもしれない。気が付けば、石井さんはほぼ毎日、漫画やお菓子を盗んでいた。

「万引きは許されない行為ですが、あの時の僕はクレプトマニア(窃盗症)だったんだと思います。毎日万引していましたから。盗んだものは本当にほしいものだったかは疑問で、家に帰る前に捨てていました」

 中学受験が終わると、万引きはピタリとやんだ。店に入って、商品棚を前にして、石井さんは「なぜ僕は商品を盗ろうとしたんだろう」と不思議に思ったことを覚えている。

■ 中学2年で不登校に 「僕は人生詰んだ」 

 一方、中学受験の結果はというと、第1志望から第6志望まで「全落ち」。連日のように母親が結果を見に行き、気まずい空気が流れた。第2志望の受験からはほとんど記憶がないという。

 結局、地元の公立中学校に通うことになった石井さん。厳しい校則にもなじめなかったし、いじめも目の当たりにして、学校生活にストレスを感じるようになった。石井さんはその理由を「それもこれも自分が受験に失敗したからだ」と考えるようにった。

 それでも最初はまじめに学校に通い、テストではいい点数をとろうと努力した。なぜなら、石井さんにとって公立中学校の生活は受験の失敗を取り戻す機会だったから。

「ちゃんとしなきゃ、もっとがんばらないと、と常に思っていました。テストでは一回のミスも許されないと感じていました」

 徐々にストレスをためていった石井さんは、中学2年のある日を境に学校にいかなくなった。それで石井さんの心が晴れたわけではなく、むしろ逆。自分の人生に絶望していた。

「不登校なんて、人生終わったな。完全に詰んだ」

 一カ月後、石井さんはフリースクールに通い出す。不登校になった子どもが行けるところはフリースクールくらいしかないというような認識だった。

 当然ながらフリースクールには、石井さんと似たような境遇の、10代の子どもらがいた。通ってみて初めて分かったことだが、その存在は大きな安心感につながったという。それまで、石井さんは自分以外に学校にいかない10代の人間がいるのが想像できなかった。ようやくロールモデルが見つかったのだ。

「あ、生きていけるんだ、って心の底から安心しました。自分は生きてていいんだと初めて思えました」

■「本当にしびれる」リリー・フランキーから痛い指摘

 石井さんが不登校新聞に関わるようになったのは16歳のとき。当時の編集部は石井さんが通うフリースクールの一角に間借りしていた。不登校の当事者が記者・編集者となって新聞づくりに携わる「子ども若者編集部」ができる時に、「取材に行ってみないか、有名人に会えるよ」とスタッフから誘われたことがきっかけだった。

 石井さんは取材で会いたい人に会いに行き、話をきいた。みうらじゅんさんや、糸井重里さん、大槻ケンヂさん、リリー・フランキーさん……。「楽しんでやったらいい」と優しい言葉をかけてくれた人もいれば、リリーさんには「君は、(取材で自分と)近いところを回りすぎだな」と痛いところを突かれた。ただ、誰もが一人の人間として石井さんと向き合い、真剣に答えてくれてた。石井さんは「本当にしびれる」経験だったと振り返る。

 石井さんは19歳のとき、当時の代表に頼み込んで不登校新聞の正規のスタッフとして働きだした。そして、24歳で編集長に。いつの間にか不登校の子どもではなく、社会人として歩き出していた。編集長になってから10年以上が経つが、一時は部数が採算ラインを割って休刊の危機も経験。そのときはマーケティングと経営の基礎を学び、立て直した。

「誰かの責任にできないとか、過労と重圧に悩んだとか、もう、今はただの中年のおじさんの悩みしかないですよ」

 現在の編集方針は、公平、中立、平等は「保たない」こと。学校にいかない状態で苦しんでいる子どもの「私の視点」で問題を伝えることが使命だと、石井さんは思っている。

 また、当事者が紙面作りに携わる「子ども若者編集部」の活動は、職業訓練でも、子どもたちの自己実現でも、不登校の子どもの支援でもないというスタンスだ。

「不登校の子が社会に出るためのテストや訓練ではありません。不登校の子たちが感じたこと、苦しんでることは財産だと思うのです。それを、紙面を通して社会で共有する仕組みだと思っています」

■ 学校に行くというコースにこだわるな

 不登校は一つの生き方――。

石井さんは、40歳近い年齢になってみて、それを実感するという。フリースクールで出会った仲間は、その後、有名大学に合格して一流企業に勤める人もいれば、主婦として着実に歩んでいる人もいる。たまに、会って話すと、みな目の前の仕事や役割にやりがいを感じていたり、ときには人間関係に悩んだりと、経歴はそれぞれでも、人生には共通点が多いように思えた。

「不登校は学校に行っている人と歩む道筋は違うかもしれないけれども、同じ時代を生きていることにはかわらないのだと思います。生き方はそれぞれ。学校へ行くという一つのコースにこだわらなくていいと、今悩んでいる子どもたちには伝えたいです」

(AERAdot.編集部/鎌田倫子)

このニュースに関するつぶやき

  • 行きたくないと言ってもウチ追い出されてた身としてはうらやましいなと思うよ 今思えば現在のような陰湿さはあまりなかったけどさ…
    • イイネ!0
    • コメント 0件
  • いい時代になったよな 小学校も中学校もだけど休もうと 思ったら 引っ張られて車に詰め込まれ 学校の中まで行って 引きづり出されて 行ってこいって言う 時代だったから 腹痛で休んだ時に お前の昼飯は学校だ って言われたよ(笑)
    • イイネ!3
    • コメント 3件

つぶやき一覧へ(5件)

前日のランキングへ

ニュース設定