『テスカトリポカ』が克明に描き出す「麻薬カルテルの論理」 一級のノワールを堪能せよ

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2021年04月22日 10:11  リアルサウンド

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一級ノワール小説が描く麻薬カルテルの論理

 自分でも悪趣味だと思うが、メキシコ麻薬戦争を題材にしたコンテンツを見たり読んだりするのをやめられない。ドン・ウィンズロウの『犬の力』シリーズや、映画『ボーダーライン』シリーズ、各種のドキュメンタリーや書籍などなど。1970年代の源流から、80年代のミゲル・アンヘル・フェリックス・ガジャルドとグアダラハラ・カルテルの興隆、そして巨大になった麻薬ビジネスが分割され、90年代以降の激烈な抗争へと至る歴史には、(本当に困ったことだが)惹きつけられるものがある。


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 なぜ麻薬戦争に興味を持つのかと言えば、おれや日本の常識とは大きく異なるようで、実は地続きになっている論理の存在が大きい。カルテルが自分たち以外から商品を仕入れた麻薬密売人や敵対カルテルの人間を、信じられないほど残虐な殺し方で殺すのは、別に趣味でもなんでもない。残虐に人間を殺して晒し者にするのが、彼らの商売にとって一番都合がいいからだ。デモンストレーションとしての殺しの効果を最大化するため、カルテルは凄まじい殺し方をした死体を街中に晒す。極めて残虐に見える殺しは、極めて論理的な行為でもあるのだ。


 政治家や警察に高額の賄賂を渡し、軍隊のような重装備を整え、麻薬をアメリカに運ぶための潜水艦まで用意する。「そこまでする!?」といいたくなるような行動も、よくよく考えれば理屈は通っている。そして理詰めで決定されたそれら全ての行動は、「麻薬密売で得られる利益を最大化する」という目的へと通じている。


 商売による利益をより大きくすることを目的とするのは、資本主義社会の大前提だ。麻薬カルテルの行動や論理は、資本主義の理屈から倫理のブレーキを取り除いたものである。どう考えてもやりすぎに見える、残虐極まりないカルテルの行動や論理は、我々が暮らしているこの社会の屋台骨になっている論理とつながっている。だからこそ、おれはメキシコ麻薬戦争のことが気になってしまう。自分の知らない世界の凄まじい殺し合いが、自分たちの社会を支える論理と地続きになっていると思えば、無視するわけにはいかない。


 佐藤究の『テスカトリポカ』は、こういった論理の重なり合いを描いた小説である。主人公は2人。1人は川崎に逃れてきたメキシコ人密入国者の女と日本人のヤクザとの間に生まれ、巨大な体躯と極めて強い筋力を持つ少年土方コシモ。そしてもう一人は、メキシコでカルテル「ロス・カサソラス」のボスとして君臨したカサソラ兄弟の三男であり、敵対カルテルのドローンを用いた空襲(!)で全てを失った男、バルミロ・カサソラ。敵対カルテルへの復讐を誓ったバルミロが資金を貯めるため、日本人の闇医者と結託して日本にやってきたことで、この2人の物語が動き出す。


 『テスカトリポカ』という聞きなれない単語は、メキシコにかつて存在したアステカ文明の神話における最強の神の名前だ。名前の意味は「煙を吐く鏡」。このタイトルからわかるように、この小説ではアステカ神話が極めて大きなキーとなる。


 バルミロの祖母はメキシコの先住民族(インディヘナ)で、スペイン名の「リベルタ」とナワトル語の「テスカキアウィトル」という名前を持つ。この祖母はアステカの呪術と神話を強く受け継いでおり、バルミロはその影響下で育てられた。


 アステカは多数の戦士たちを擁する、軍事的な国家だった。周辺国と戦争を繰り返し、数多くの奴隷を獲得した。それに加え、正確な暦とそれに基づく呪術もこの国家の特徴である。神官が生贄となる人間の胸を切り開いて心臓を取り出し、それを神に捧げることを重要視するこの伝統は、『テスカトリポカ』でも何度も言及される。


 現在の目で見れば残虐な方法で生贄を神に捧げるのも、アステカの人々からすればちゃんと理屈が通っている。神々に生贄を捧げ心臓を食してもらうことで暦の通りに天体が動き、アステカは栄えることができる。そうであるならば、アステカのために犠牲になる生贄は素晴らしい名誉を背負った存在であることになり、彼らはアステカを存続させるために不可欠ということになる。否定するか肯定するかは置いておいても理屈は通っており、バルミロという男はこの「古代アステカの論理」と「現代の麻薬カルテルの論理」が二重に重なった存在として描かれる。


 『テスカトリポカ』はまず何をおいても一級のノワールであり、暴力描写が吹き荒れる血なまぐさい小説である。しかし、理不尽にも見える暴力の背後にはきっちりと論理の筋が通っている。そして論理的であるからこそ、この小説の暴力は身も蓋もない。「市街地で人間を撃ち殺すなら消音器付きの散弾銃は最適である」という結論が出たならば、それを乱射してターゲットをズタズタに撃ち殺す。もっとすごい銃もあるのに、というガンマニアの意見は通らない。この身も蓋もなさ、ドライさは、理屈が通っているからこその味わいだ。


 そしてバルミロとその協力者たちの手によって、現代の資本主義社会と麻薬カルテルと古代アステカの論理が精密に重なり合い、あるビジネスへと結実する。現代社会の屋台骨になる論理と、15世紀のアステカの神話を支えた論理が、一つの軸でしっかりと繋がるのである。遠く離れた論理と論理が想像もしなかった方法で縒り合わされ、一つの巨大な絵図になって浮かび上がる。この瞬間こそが、『テスカトリポカ』の強烈な魅力である。


 そういう意味で、『テスカトリポカ』は極めて理屈っぽい小説だ。理屈しかない小説と言ってもいい。この小説の中で行われる殺人に怨恨はほぼ存在せず、巨大な利益をあげるため、そして神と殺人者の欲求に捧げられるために、多くの人が死ぬ。精密な理屈の重なり合いによって人間が残虐に殺され尽くす光景は、ある種機械的な印象すらある。そしてその機械の上には、煙を吐き出す黒い鏡の姿をした神が君臨している。


 正直言って、読む人を選ぶ小説なのは間違いない。ダメな人は徹底してダメな内容だと思う。しかし、ダイナミックな論理の接続の物語としての『テスカトリポカ』は、メキシコ麻薬戦争を題材としたほかの物語と比較しても頭二つほど抜けた出来栄えと言っていい。血塗られた論理が縒り合わされた先にある暗黒を見たい人は、是非とも手に取ってほしい一冊である。


(文=しげる)


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