ロドン五輪直前、竹下佳江にまさかの事態。メダル獲得へ激痛を仲間にも隠し続けた

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2021年04月30日 11:41  webスポルティーバ

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竹下佳江インタビュー
「世界最小最強セッター」が歩んだバレー人生 後編

 失意の引退から復帰し、正セッターとして日本代表を牽引していた竹下佳江が、3大会連続の出場を果たしたロンドン五輪。「データバレー」でチームが快進撃を見せる中、竹下は激痛とも戦いながらトスを上げ続けていた。それを仲間に悟らせないための策や、過去の屈辱を晴らす歓喜の瞬間、さらに、取締役球団副社長を務めるヴィクトリーナ姫路での今後の展望などを竹下に聞いた。

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 2008年の北京五輪を5位で終えた女子バレー日本代表は、指揮官を柳本晶一から眞鍋政義に代えて再スタートを切った。現役時代の眞鍋は代表でも活躍した名セッターで、実は竹下の幼い頃の憧れの選手だったが、監督として初めて接した際の第一印象を「めちゃくちゃ細かったです(笑)」と振り返る。

 眞鍋が実践したのは「データバレー」。選手個々のパフォーマンスを数値化し、そのデータを練習場の壁に貼った。前例がなく、最初は嫌がっていた選手たちも、数値を参考に自らの課題を見つけ、強化に取り組むようになっていった。

 大きな成果が出たのは2010年の世界選手権。銅メダルを獲得し、女子バレー日本代表が32年ぶりに表彰台に上った。当時ミドルブロッカーとして活躍した大友愛は、スポルティーバでのインタビュー取材の中で、「ロンドン五輪での銅メダルよりも、世界選手権の銅メダルのほうが印象に残っている」と話していたが、竹下はどうだったのか。

「眞鍋さんが監督になってから、ずっと"数字"を言われてきて、どうやったら世界のトップ3に入っていけるかという"クリアポイント"がありました。最初は拒否感も大きかったんですが、世界選手権で3位に入ったことで『ここまで行けるんだ』と実感したんです。

 その前にも、ワールドグランプリでブラジルに勝ったり、『戦い方次第では世界のトップと戦えるんだ』とチーム全体が変わっていった。海外のトップチームにはどうしても勝てないという、それまでの空気がちょっと変わってきた時期でしたね」

 2011年のワールドカップでも、本来のランク付けなら3位でロンドン五輪の出場権を獲得できたはずだったが、この時は勝敗より勝ち点が優先されて4位。翌年の世界最終予選に臨むことになった。

 チームが力をつけていることもあって楽観的な選手もいたそうだが、竹下にはシドニー五輪の最終予選での苦い経験が頭にあり、「あの苦しみを、絶対に若い選手たちに経験させてはいけない」と気を引き締め続けた。

 実際に、世界ランキングでも実力的にも優位と思われていた韓国に負けるなど苦戦し、最終戦でようやく出場権を獲得。肉体的にも精神的にも疲労困憊だった竹下は、試合後の会見に出席することができなかった。

 その後、ロンドン五輪の予選グループの組み合わせが決まると、眞鍋監督が「準々決勝は中国だ、と夢で見た」とチーム全員に告げた。竹下をはじめ、選手たちは反応に困ったという。

「そりゃあ、『何を言っているんだろう、この人』みたいな感じになりますよね(笑)。でも、予選を勝ち上がって決勝トーナメントの抽選が行なわれて、準々決勝の相手が中国になったとわかった瞬間、みんな鳥肌ですよ。驚きもしましたけど、『絶対そこで勝つんだ』という暗示をかけられたような感じでしたね。それまで中国にはほぼ勝てていなかったんですが、チーム全員が勝利を信じるようになったんです。眞鍋さんは、そういったコントロールが上手な監督でした」

 チームの士気が上がる中、竹下はチームメイトにあることを隠し続けながら戦っていた。

 オリンピック本番の1週間ほど前、男性スタッフの時速100キロを超えるスパイクをレシーブする練習の最中、ワンバウンドして跳ね返ったボールが竹下の左手を直撃。その瞬間、全身がピリッと痛みが走った。セッターの命である指を骨折してしまったのだ。

 それ以前にも骨折の経験があった竹下は「やってしまった」と思った。周囲には何も言わずにそっと練習を抜けたが、眞鍋が異変に気づく。竹下を追いかけて病院に行くように何度も説得し、竹下はそれに根負けしたが、「何があっても私はオリンピックに出ますからね!」と宣言した。

 検査の結果は、左手人差し指の骨折だった。

「『マジか!?』と思いましたよ。オリンピックに向けていい状態で仕上がってきていたのに、ここでケガするのかと。ただ、その時期はずっと体がしんどくて、集中力に欠けることがあったから、ケガにつながったんだろうとも思います。監督がどんな判断を下すかもわからなかったですし、いろんなことを考えましたが、『諦める』という思考にはなりませんでした。『指が折れている状態で、どうプレーできるのか』と気持ちを切り替えました」

 チームドクターは当然ストップをかけたが、竹下は「痛くないです。できます」と眞鍋に告げた。眞鍋はしばらく考えてから、「できるというなら、お前を使う」と答えたという。さらに竹下の希望で、他のチームメイトには大会が終わるまでこのことを伏せることにした。

 骨折した指に添え木をして、テーピングで巻いて五輪に臨んだ。普段の竹下は、指先の感覚が少しでも失われることを嫌ってテーピングをしない。その時点で「いつもの竹下」ではないのだが、白ではなく肌に近い色のテーピングを使用し、周囲に悟られないようにした。筆者も、テレビ中継でロンドン五輪の全試合を見ていたが、「竹下選手にしてはアンダートスが多いな」と若干の違和感があった程度で、テーピングにはまったく気づかなかった。

「試合やチーム練習の前に、ひっそりと『今日の痛み』を知るためのトス練習をしました。その痛みを体に覚えさせて、その中で最大限のいいトスを上げていく。あの痛みは、二度と経験したくありません(笑)。オリンピックでもトスの質はそんなによくなかったと思います。そういう違和感があったであろうトスを一生懸命打ってくれた仲間たちには、本当に感謝しかないです」

 準々決勝の中国戦も、竹下は折れた指でフルセットを戦い抜い抜き、勝利に導いた。

「たぶん、すごく痛かったと思うんですけど、気にしている余裕がなかったですね。『絶対この試合を取りたい』『私たちが勝つんだ!』という思いで必死にプレーしていました。それでも、負ける気はしなかった。メンタルから崩れる選手が出てもおかしくない展開でしたが、あの試合に関してはひとりもいませんでしたね」

 準決勝はブラジルに敗れ、メダルをかけて韓国との3位決定戦に臨んだ。エースの木村沙織がマークされていたため、竹下は"韓国キラー"の迫田さおりにトスを集めた。日本は2セットを先取し、第3セットもマッチポイントを握る。相手のサーブを木村がレシーブし、やや崩れたボールを竹下が懸命に追いかけ、後方の迫田にトスアップ。迫田がブロックアウトをとって、28年ぶりのメダル獲得が決まった。




 選手たちは飛び上がって喜びを爆発させ、控えのメンバーやスタッフたちもコートになだれ込んだ。竹下は、長く日本代表で共に戦ってきたリベロの佐野優子と、泣きながら抱き合った。

「どの時代も、監督や先輩たちなどから、いろんなことを学びました。長く日本代表でプレーしましたが、ロンドン五輪メンバーはその中でもバランスがよかったチームだったように感じます。私や(木村)沙織などキャリアを重ねた選手と、初出場の選手がうまくミックスされていました」

 五輪出場を逃し、引退さえ決意した2000年の最終予選から12年。「五輪出場を逃した屈辱は、五輪に出ることでしか晴らせない」という思いを、頼もしいメンバーと共に実現させた。

 ロンドン五輪後、竹下は休養を経て、2013年7月に現役引退を発表した。メディアに大きく取り上げられたのは、それから約3年後。眞鍋が立ち上げたプロクラブチーム、ヴィクトリーナ姫路の監督に就任した。

「私は長男を産んですぐだったので、関係者の方からは『いい返事は聞けないかもしれないけど、前向きに考えてほしい』と話をもらいました。そのとおりに『無理です』と断っていたんですが(笑)、最後はバレー界への恩返しというか......そうやってプロチームができていくことは日本女子バレー界にとっても必要ということも考えて決断しました」




 竹下は、北京五輪の控えセッターで、2011年にバレーを離れていた河合由貴に声をかけ、現役復帰させると共にチームのけん引役を託した。監督としてはチームを地域リーグ、V2、V1と昇格させた一方で、その間に2回目の出産も経験。産休を経てのリーグ戦は、週末に子供たちの面倒を自分の母親や、義母に見てもらい指揮を執っていたという。

「監督をしている最中の産休など、今までにはない形で活動を続けさせてもらいました。チームが、女性が働きやすい環境を整えてくれたこと、周りの方がいろんなことに理解を示してくれたからこそだと思います。私はコーチの経験がありませんでしたが、優秀なコーチがいて、安保澄さん(久光製薬と日本女子代表でコーチを経験)がGMに就いてくれて、そういった中でいろんな学びがありました」

 2020年3月31日には取締役球団副社長に就任。監督を退任した理由について、「子供との時間を増やしたいから」と笑顔で話した竹下は、今は営業マンと一緒に取引先を回ったり、会社経営のことを学んでいる最中だという。

「個人としての活動と併せて、バレーの普及活動も頑張っていきたいですね。昨年はコロナ禍で、一般のお子さんと直接コミュニケーションを取る機会がなく、リモートでバレー教室をするといった方法しかなかった。今後の状況はわかりませんが、子供たちが喜ぶ顔がたくさん見たいと思うので、何かしら方法を考えながら、今後につなげられるようにしたいです」

 自分の子供たちの成長を見守りながら、競技の普及活動も続ける。その竹下の姿が、女子バレー界の未来を明るくするだろう。

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