藤波辰爾に起こった試合直前の流血事件。アントニオ猪木はあえてドラゴンを殴った

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2021年05月09日 11:11  webスポルティーバ

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藤波辰爾デビュー50周年
ドラゴンが語る名レスラーたち(1)アントニオ猪木 前編

 プロレスラーの藤波辰爾がデビュー50周年を迎えた。

 日本プロレスに入門した翌年の1971年5月9日、岐阜市民センターでの北沢幹之(当時のリングネームは新海弘勝)戦でデビュー。翌年の1月には、アントニオ猪木が設立した新日本プロレスに旗揚げから参加し、ジュニアヘビー級で"ドラゴンブーム"を巻き起こした。

 リング外では、新日本プロレスの社長を務めるなどプロレス界を牽引。67歳になった現在も、自らが主宰する「ドラディション」を中心に、メインイベンターとして戦いを続けている。

 今回、藤波が半世紀に渡るプロレス人生で忘れ得ぬレスラーたちとの秘話を明かした。そのひとり目は、師匠のアントニオ猪木。新日本プロレス立ち上げ時の状況や、藤波も戸惑った指導を振り返る。

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 藤波が猪木と出会ったのは1970年6月16日。山口県の下関市体育館だった。

 中学を卒業し、自動車整備士になるために職業訓練校に通っていたが、藤波はプロレスラーになる夢を捨てきれずにいた。そこで、出身地が同じ大分県東国東郡(現・国東市)だった北沢幹之を訪ね、日本プロレスへの入門を志願。北沢の許可を得て巡業に加わった。

 藤波にとって猪木は、テレビで見ていた憧れのレスラー。北沢に連れられて下関市体育館の控室で猪木に紹介された時、緊張で顔を見ることができなかったという。

「目の前に、憧れていた猪木さんがいるのが信じられなくて。実際に会うとオーラが凄まじかったですし、『藤波です。よろしくお願いします』って挨拶するのが精いっぱい。確か、猪木さんには『頑張れよ』とだけ言われたんじゃないかな。顔なんて満足に見られず、とにかく緊張していたことだけを今も覚えています」

 巡業で地方を回ったあとに初めて上京し、代官山にあった日本プロレスの事務所で幹部との面談を経て、練習生として入門を認められた。入門後の役割は猪木の「付け人」。長きに渡る師弟関係の始まりだった。

「猪木さんは、あまり『こうしろ、ああしろ』とは言わない人で、生活面で怒られた記憶はほとんどありません。ただ、練習は激しかったですね。トップレスラーの猪木さんがものすごく練習している姿を見て、『やっぱり一流のレスラーは違うんだ』と思いました」

 入門から約11か月後、藤波は「何をやったのかまったく覚えていない」というプロレスデビューを果たすのだが、その1971年の暮れに激震に見舞われる。猪木が「会社の乗っ取りを企てた」として日本プロレスから追放されたのだ。

「猪木さんは、会社を改善しようと動いていたんです。最初は(ジャイアント)馬場さんをはじめ、選手たちも賛同していたんですが......。ボタンの掛け違えというか、どこかで方向性が変わって、猪木さんだけが取り残された形になってしまいました」

 猪木の追放を発表する記者会見を、藤波は記者席の一番うしろで立ったまま見つめていた。その茫然とした姿の写真が新聞に掲載され、それを見た猪木は「俺のところに来い」と藤波を誘った。

 猪木は追放後すぐに新団体、新日本プロレスの設立に動いていた。自らの理想を実現するために「付け人」だった藤波を呼んだのだ。藤波は日本プロレスを退団し、師匠のもとに駆けつけた。

「猪木さんについていけば『自分がやりたいプロレスができる』と思っていましたから、まったく迷いはなかったですよ」

 そこで驚いたのは、猪木の大胆な行動だ。

「『レスラーにとって大切なのは、何よりも練習だ』という考えの人だったので、真っ先に道場を作らなければいけないと、世田谷の野毛にある自宅の庭を潰し、プレハブの道場を突貫工事で作ったんです。当時の猪木さんは30歳手前で血気盛んでしたから、とにかく思い立ったことをすぐにやる。後先考えずに突き進んでいました(笑)」

 今も同じ場所にある新日本プロレス道場と合宿所は、猪木の自宅を解体して作ったもの。それが完成するまでの約1カ月間、藤波も工事を手伝ったという。

「『レスラーなのに、どうして工事の手伝いを......』なんて考えは微塵もありませんでした。自分たちの手で理想の道場を作っているワクワク感しかなかったです」

 そうして1972年3月6日に、新日本プロレスは大田区体育館で旗揚げ戦を迎える。しかし、所属選手はたった6人。人気外国人レスラーを招聘するルートは日本プロレスに妨害され、経営の生命線だったテレビ局の放送もない新団体の興行は、各地で苦戦の連続だった。

 選手の中で一番の若手だった藤波は、詳しい経営状況まではわからなかったが、空席が目立つ客席を見て苦境を感じていた。そんな旗揚げ1年目の唯一の光は、やはり猪木のファイトだった。

「1年目は社長の猪木さんも切符を手売りして、営業もしていましたから、肉体的にも精神的にも厳しかったと思います。だけど、そんなつらさをリング上で見せたことはなかった。どんなにお客さんがいなくても、一切、手を抜きませんでした。あの姿を見て、『自分も気を抜いた試合はできない』と思いましたし、猪木さんがこれだけの試合をやるんだから、きっとお客さんが振り向いてくれる日が来ると信じていました」

 そんな新日本プロレスに転機が訪れたのは、旗揚げ2年目の1973年3月だった。坂口征二と数人の若手レスラーが、日本プロレスを退団して加入。猪木に続く大物選手の合流で、翌4月からはNET(現テレビ朝日)が毎週金曜夜8時の中継をスタートする。

 これで団体が軌道に乗る――。

 そう直感した藤波は、1975年6月から西ドイツ(現ドイツ)へ初めての海外遠征に出発。1978年1月23日には、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでドラゴンスープレックスを初公開して勝利し、WWWF世界ジュニアヘビー級王座を奪取した。同年3月に凱旋帰国し、群馬・高崎市民体育館でのマスクド・カナディアン戦も華やかに勝利すると、空前のドラゴンブームが起こった。

 藤波の人気は急上昇。しかしそこで、猪木の厳しさを再認識する出来事があった。

「当時は年間で200試合ぐらいありましたから、シリーズが開幕して地方に出ると、どうしても疲れが出る時があるんです。ある時、試合前の練習で選手たちの気合いが入っていないことがあって、それを見た猪木さんが『お前ら全員来い』と怒ったんです。

 自分はその全体練習には参加せずに別の場所で練習していて、猪木さんの号令を聞いて駆けつけました。すると......『お前がしっかりやらないからダメなんだ』と、プッシュアップ(腕立て伏せ)で使う木製の器具で頭を殴られて、流血です(苦笑)。その日はテレビマッチだったんですが、試合前から頭に包帯を巻いてリングに上がったわけですから、お客さんはびっくりしたでしょうね(笑)」

 当時はさすがの藤波も、猪木の"鉄拳"指導に「どうして自分が殴られないといけないのか」という戸惑いがあった。しかし今は、その時の師匠の思いを理解できるという。

「あの頃の僕はジュニアヘビーで注目されていましたから、選手全員を引き締めるために、あえて僕を殴ったんだと思います。そうすれば、他の選手は『藤波があれだけ厳しく指導されたんだから、俺たちは気合をいれないといけない』と思うはずですから。現代では問題になる指導でしょうが、実際に、そこから練習は引き締まりましたね」

 猪木の信念は、「プロレスは、闘いである」。常に師匠の近くで、プロレスに向き合う姿勢を見てきた藤波。デビューからの50年を、あらためてこう振り返る。

「猪木さんの教えがなかったら、絶対にここまで続けてこられなかったと思います。プロレスは闘いですから、僕は今もリングに上がる前に足が震えるんです。そのリングへの恐怖心が、現役であり続けることの礎になっています」

(第2回:飛龍革命と猪木との「ベストバウト」>>)

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